2026年2月10日

(院長の徒然コラム)

はじめに:増大する糖尿病と歯科医療の責任
現代社会において、糖尿病(Diabetes Mellitus: DM)は、世界的に最も深刻な生活習慣病問題の一つとしてその存在感を増しています。
2022年の時点で、世界の成人人口の約14%にあたる8億人以上が糖尿病と診断されており、これはわずか30年前と比較して4倍以上に急増している驚くべき数字です。
さらに、2021年には推定160万人が糖尿病およびその合併症に直接起因する原因で命を落としています。
このパンデミックとも言える状況は、歯科医療従事者にとっても、患者さんの全身状態を深く理解し、適切な歯科治療を提供することの重要性を改めて浮き彫りにしています。
糖尿病は、全身のさまざまな臓器に合併症を引き起こすだけでなく、口腔内の健康にも多大な影響を及ぼします。
特に歯周病の罹患リスクを高め、むし歯の進行を早め、口腔カンジダ症などの感染症を誘発しやすいことが知られています。
そして、歯科治療の中でも、根管治療(歯内療法)においては、糖尿病がその予後に決定的な影響を与えることが、近年のエビデンスによって明確に示されています。
今回はその糖尿病リスクを抱える患者さんの根管治療についてDENTAL TRIBUNEに掲載された「The endodontic challenge in patients with diabetes: Pathophysiology, clinical impact and treatment considerations」
を参考に情報をお伝えできたらと思います。
糖尿病が歯髄・根尖周囲組織に与える深刻な影響メカニズム
糖尿病患者さんの口腔内、特に歯髄や根尖周囲組織が特異的な反応を示す背景には、複雑な病態生理学的メカニズムが関与しています。
①微小血管障害と組織の酸素・栄養供給低下
高血糖状態は、全身の細小血管に構造的・機能的な異常を引き起こします。
歯髄内の微小血管も例外ではなく、その基底膜は肥厚し、血管密度は低下します。
さらに、血管周囲にはコラーゲンが過剰に沈着することが組織病理学的に確認されています。
これにより、歯髄組織への酸素や栄養の供給が著しく制限され、一方で老廃物の排出も滞るため、歯髄の代謝環境が悪化します。
この状態は、炎症や感染に対する歯髄の抵抗力を弱め、組織の修復能力を著しく低下させます。
②免疫応答の異常と感染への脆弱性
糖尿病患者さんでは、好中球機能の低下、サイトカイン発現パターンの異常、そして慢性的な低グレード全身性炎症状態が認められます。
これらの免疫機能の不全は、感染に対する宿主防御機構を弱体化させ、一度感染が起こるとその制御が困難になります。
結果として、歯髄炎や根尖性歯周炎が遷延化しやすく、治療後の治癒も遅延する傾向にあります。
実際、ある研究では、糖尿病患者は非糖尿病患者と比較して、根管治療後に持続性の根尖性歯周炎を経験するリスクが「約5倍」も高いという報告もあります。
③終末糖化産物(AGEs)の蓄積と組織構造の変化
長期にわたる高血糖は、終末糖化産物(Advanced Glycation End-products:AGEs)の生成と組織への蓄積を促進します。
AGEsは、酸化ストレスの増大、線維化の促進、さらには炎症反応や組織修復プロセスのさらなる障害を引き起こします。
これらの変化は、歯髄および根尖周囲組織の治癒能力を著しく低下させ、線維化を促進することで組織の脆弱性を増大させます。
④象牙質構造の変性
高血糖は歯根象牙質のナノ構造やミネラル組成にも影響を与え、その機械的強度を低下させることが報告されています。
これにより、根管形成中の器具による象牙質の構造的損傷リスクが高まる可能性があり、根管治療過程においてより一層の注意が求められます。
これらの複雑なメカニズムが絡み合い、糖尿病患者さんにおける根尖性歯周炎の有病率を高め、根管治療後の治癒を遅延させ、最終的な成功率を低下させる主な要因となります。
特に、ヘモグロビンA1c(HbA1c)が7%以上と血糖コントロールが不良なケースでは、これらのリスクが顕著に増大することが示されています。
臨床現場での挑戦と戦略:データに基づくアプローチ
糖尿病患者さんの歯内治療を成功に導くためには、診断から術後管理に至るまで、通常の症例以上の細心の注意と配慮が求められます。
①徹底した診断と全身状態の評価
⚫︎HbA1c値の確認と医科連携
治療計画の立案に際し、患者さんの最新のHbA1c値を必ず確認することは必須です。
HbA1cが7未満であれば良好な血糖コントロールと見なされ、治療のリスクは低減しますが、7以上の場合は治癒遅延や合併症のリスクが高いことを示しています。
この場合、かかりつけ医や内分泌内科医と密接に連携し、患者さんの全身状態の安定性を評価し、治療の安全性について十分な協議を行う必要があります。
場合によっては、血糖コントロールの改善を優先するため、歯科治療を延期することも検討されるべきです。
⚫︎非典型的な症状への対応
糖尿病性神経障害などの影響により、患者さんは歯髄炎や根尖性歯周炎の症状が非典型的であったり、痛みが鈍麻していることがあります。
問診や視診、触診だけでなく、歯髄電気診、温度診などの歯髄検査、そしてCone-beam CT (CBCT) などの詳細な画像診断を積極的に活用し、正確な診断に努めることが極めて重要です。
歯髄検査の反応が遅れたり、鈍かったりすることがあるため、複数の検査結果を総合的に判断する慎重さが求められます。
②細心の注意を払った治療手順
⚫︎麻酔の配慮
血管収縮薬を含有する局所麻酔薬の使用は、心血管系のリスクを考慮し慎重に行うべきです。
また、糖尿病患者さんでは微小血管障害により局所麻酔薬の拡散や分布が影響を受け、麻酔効果の発現が遅延したり、効果が不十分であったりする可能性があります。
十分な作用時間を確保し、必要に応じて追加麻酔を行う準備が必要です。
術前の血糖測定で低血糖状態でないことを確認することも重要です。
⚫︎低侵襲なアクセスキャビティと徹底した感染源除去
健康な歯質、特に歯頚部象牙質の保存を重視した低侵襲なアクセスキャビティの形成が推奨されます。
糖尿病患者さんの象牙質は脆弱である可能性があり、過度な切削は避けるべきです。
根管形成には柔軟性の高いニッケルチタンファイルを使用し、根管へのストレスを最小限に抑えます。
洗浄は次亜塩素酸ナトリウムがゴールドスタンダードですが、脆弱な象牙質に微細な亀裂を生じさせるリスクのある高出力超音波は避けての代わりに、穏やかな音波攪拌などを活用し、効果的かつ低侵襲に根管内の感染源を徹底的に除去することが、免疫機能が低下している患者さんにとって特に重要です。
⚫︎バイオセラミックシーラーと早期の最終修復
生体適合性が高く、抗菌作用や組織再生を促進する効果が期待できるバイオセラミックシーラーは、糖尿病患者さんの治療において特に推奨される材料です。
根管内への細菌侵入を防ぐため、緊密な3次元根管充填は不可欠です。
また、根管治療後の歯は細菌感染に対して脆弱であるため、可能な限り速やかにフェルール効果を考慮した適合の良い最終補綴物を装着し、再感染を防ぐことが非常に重要です。
③長期的なフォローアップとモニタリング
⚫︎継続的な経過観察
治療後、通常の症例と同様に6ヶ月および12ヶ月での臨床的・レントゲン的な評価をスケジュールしますが、糖尿病患者さんでは根尖病変の治癒が遅延したり、不完全であったりすることが少なくありません。
特に血糖コントロールが不良な患者さんの場合、根尖周囲組織の治癒には18ヶ月以上の長期的な期間を要することがあり、さらに長期間にわたる注意深いモニタリングが必要となります。
⚫︎血糖コントロールの再教育
術後も患者さんに対して、良好な血糖コントロールの継続がいかに根尖周囲組織の治癒に不可欠であるかを繰り返し指導し、モチベーションを維持させることが重要です。
患者さんの口腔健康の維持には、良好な全身状態が不可欠であることを認識してもらい、医科との連携を介してその状態を支援します。
医科歯科連携と患者教育の推進
糖尿病患者さんの歯内治療の成功は、歯科医師の専門知識と技術だけでなく、患者さん自身の血糖コントロールへの意識、そしてかかりつけ医との密接な連携によって大きく左右されます。
今回の紹介論文でも示唆されているように、成功した根管治療が代謝調節の改善に寄与する可能性があり、血糖コントロールの改善が歯内治療の予後を向上させるという双方向性の関係が強調されています。
私たち歯科医療従事者は、糖尿病が口腔健康に与える影響を患者さんに分かりやすく説明し、血糖コントロールの重要性を啓発する役割も担っています。
終わりに:個別化された包括的アプローチの重要性
糖尿病は歯内治療の予後に多大な影響を与える全身疾患であり、その複雑な病態生理を理解し、診断から治療、術後管理に至るまで、個別化された包括的アプローチが不可欠です。
今回のコラムで提示した数値データやエビデンスに基づき、徹底した評価、低侵襲な治療技術の採用、生体活性材料の活用、そして医科連携と長期的なフォローアップを通じて、糖尿病患者さんの歯内治療の成功率を高め、患者さんの口腔健康ひいては全身の健康維持に貢献することが、私たち歯科医療従事者に課せられた重要な使命と言えるでしょう。
継続的な臨床研究を通じて、この複雑な糖尿病と歯内疾患の関係性に対する理解を深め、さらなるエビデンスに基づいた治療方法を確立していくことが、今後の課題となります。
