2026年2月23日

(院長の徒然コラム)

はじめに
私たちの口腔は、単に食事を摂るための器官ではありません。全身の健康状態を映し出す鏡であり、また全身の健康を左右する重要なゲートでもあります。
特に高齢期において、歯の健康が全身のQOL(生活の質)に与える影響は大きなものです。
近年、この口腔健康と、高齢者の生活を大きく左右する「股関節骨折」との間に、意外な関連性があることが明らかになってきました。
今回は、最新の研究論文「Number of Teeth and Incidence of Hip Fracture in Older Adults Aged ≥75 Years: The OHSAKA Study」を参照しつつ、この関連性について掘り下げ、健康寿命延伸のための歯科の役割を考えていきましょう。
高齢者の大敵「股関節骨折」と口腔健康への新たな視点
股関節骨折は、高齢者にとって非常に深刻な問題です。
一度骨折すると、長期的な入院や手術が必要となり、生活機能が著しく低下するだけでなく、寝たきりや認知症の進行、さらには死亡リスクの増加にもつながります。
厚生労働省の統計によれば、日本における股関節骨折の患者数は増加の一途をたどっており、超高齢社会を迎える日本にとって、その予防は大きな課題となっています。
これまでの股関節骨折の予防策は、骨粗鬆症の管理、転倒予防のための運動療法、住環境の整備などが中心でした。
しかし、今回の紹介論文は、口腔の健康、特に「残存歯数」という新たな視点から股関節骨折予防の提言を行っています。
この大規模な後ろ向きコホート研究は、日本の大阪府に住む75歳以上の高齢者19万人以上を対象とし、公的歯科検診のデータと医療費請求データを詳細に分析することで、残存歯数と手術を要する股関節骨折の発生率との関連性を明らかにしました。
先行研究の中には、中年期の成人を対象とした歯数と股関節骨折の関連を示唆するものもありましたが、75歳以上の高齢者に特化した大規模なコホート研究は少なく、今回の研究は高齢期におけるこの関連性をより明確にした点で非常に意義深いと言えます。
高齢女性における「健全歯+治療済み歯」の重要性
今回の紹介論文研究の重要な発見は、「特に高齢女性において、残存歯数と股関節骨折発生率の間に有意な関連があること」でした。
具体的には、健全歯(未治療の健康な歯)と治療済み歯(治療が完了し機能している歯)、そしてう蝕歯(虫歯)を合わせた残存歯数が少ない女性ほど、股関節骨折のリスクが高いことが示されました。
特に、残存歯数が20本以下の女性は、21本以上ある女性に比べて股関節骨折のリスクが有意に高いという結果でした。
興味深いことに、男性においてはこのような明確な関連性は観察されませんでした。
論文内ではその理由として、男性の股関節骨折の発生率自体が女性よりも低いことから、統計的な検出力が不足した可能性を指摘しています。
また、女性は骨粗鬆症のリスクが男性よりも高く、このことが歯の健康状態と骨折リスクとの関連性をより顕著にしている可能性も考えられます。
さらにこの研究は、股関節骨折リスクの予測において、どの種類の歯を数えるのが最も効果的な指標となりうるかについても検討しています。
その結果、女性においては「健全歯+治療済み歯」の数が、股関節骨折の予測において最も高い精度を示したことが明らかになりました。
う蝕歯も合わせた数よりも、健全で機能している歯の数が重要であるという考察は、単に歯があれば良いのではなく、「機能的な歯」を維持することの重要性を浮き彫りにしています。
(因みに男性においては、「健全歯+治療済み歯」のモデルと「健全歯+治療済み歯+う蝕歯」のモデルで予測能力に大きな差は見られませんでした。)
これらの発見は、高齢者の健康管理、特に股関節骨折予防の戦略において、口腔健康の維持が極めて重要な要素となり得ることを示唆しています。
なぜ歯の健康が股関節骨折と関連するのか?:多角的なメカニズムの考察
残存歯数と股関節骨折の間に見られる関連性は、複数の複雑なメカニズムによって説明できると考えられます。
論文でもいくつかの可能性が示唆されていますが、より広範な歯科医学的・老年医学的考察を総合すると、以下のメカニズムが考えられます。
①栄養状態の悪化と骨粗鬆症の進行
⚫︎咀嚼機能の低下
歯を失うと、食べ物を十分に噛み砕くことが難しくなります。
特に硬いものや繊維質の多い野菜、肉類などを避けるようになり、偏った食生活に陥りがちです。
⚫︎栄養素の不足
咀嚼機能の低下は、骨の健康に不可欠なカルシウム、ビタミンD、タンパク質などの摂取不足につながります。
これらの栄養素が慢性的に不足すると、骨密度の低下を招き、骨粗鬆症を悪化させ、骨折リスクを高めます。
論文でも、歯の喪失による栄養不良が骨粗鬆症を悪化させる可能性が指摘されています。
⚫︎消化吸収の効率低下
よく噛まないことで消化酵素の分泌が不十分になり、消化吸収の効率が落ちることもあります。これもまた、栄養状態の悪化の一因となります。
②姿勢バランスの不安定化と転倒リスクの増大
⚫︎咬合の安定性
私たちの体は、ものを噛む際に生じる顎の動きや力によって、頭部の位置や全身のバランスを微妙に調整しています。
歯の喪失や咬合の安定性の低下が姿勢不安定性やバランスの悪化につながってしまいます。
⚫︎体幹の安定性
残存歯が少ない、あるいは咬み合わせが悪いと、咀嚼筋や舌の筋肉の活動が不十分になり、これが体幹の安定性にも影響を与え、平衡感覚が損なわれることがあります。
特に、片足立ちや段差を上り下りする際に不安定さが増し、転倒しやすくなります。
⚫︎義歯の問題
義歯を使用している場合でも、それが適切に調整されていないと、咬合の安定性が確保されず、かえってバランスを崩す原因となることがあります。
義歯の質や適合性自体が高齢者の生活に与える影響は大きいと言えます。
③慢性炎症と全身の骨代謝への影響
⚫︎歯周病と全身疾患
歯周病は、歯を支える組織の慢性的な炎症性疾患です。
重度の歯周病は、口腔内の細菌や炎症性サイトカインが血流に乗って全身に広がり、全身の慢性炎症を引き起こすことが知られています。
⚫︎骨粗鬆症との相互作用
全身の慢性炎症は、骨代謝に悪影響を及ぼし、骨形成を阻害し骨吸収を促進する可能性があります。
歯周病と骨粗鬆症の間には双方向的な関連性が指摘されており、骨粗鬆症患者では歯周病が進行しやすい一方で、歯周病が全身の骨密度低下に寄与する可能性も示唆されています。
特に女性はホルモンバランスの変化(エストロゲン欠乏)により骨粗鬆症リスクが高く、この相互作用がより顕著に現れると考えられます。
④オーラルフレイルと全身のフレイル
⚫︎口腔機能低下症
残存歯の減少は、咀嚼機能の低下だけでなく、嚥下機能や発音機能など、口腔全体の機能低下を招きます。
これは「オーラルフレイル」と呼ばれ、全身のフレイル(虚弱)やサルコペニア(筋肉量減少)の初期徴候であることが示されています。
⚫︎活動量と社会参加の低下
口腔機能の低下は、食の楽しみを奪い、人との会話を億劫にさせ、社会活動からの引きこもりにつながることがあります。
活動量の低下は筋力の衰えを招き、転倒リスクをさらに高める悪循環を生み出します。
これらのメカニズムは単独で作用するだけでなく、互いに複雑に絡み合い、歯の喪失が股関節骨折のリスクを多方面から増大させていると考えられます。
健康寿命延伸のための歯科の役割
今回の研究結果は、高齢者の股関節骨折予防戦略において、口腔健康管理を不可欠な要素として位置づけるべきであることを示唆しています。
特に女性において「健全歯+治療済み歯」をいかに維持するかが重要であり、これは単なる虫歯治療に留まらない、より包括的な口腔ケアの必要性を示しています。
①予防歯科のさらなる推進
⚫︎定期的な歯科検診の徹底
早期に虫歯や歯周病を発見し、治療することで、健全な歯を一本でも多く長く維持することが重要です。
検診では、残存歯数の確認だけでなく、義歯の適合性や咀嚼機能の評価も行うべきです。
⚫︎フッ化物応用やシーラント
若年期から、虫歯予防のためのフッ化物応用やシーラントといった予防処置を積極的に行い、生涯にわたる口腔健康の基盤を築くことが求められます。
⚫︎専門的な口腔ケア指導
歯科衛生士によるブラッシング指導、歯間ブラシやデンタルフロスの使い方指導は、歯周病予防に不可欠です。
適切なセルフケアの習慣化が、残存歯数の維持に直結します。
②高齢者ケアにおける多職種連携の強化
⚫︎スクリーニングとリスク評価
歯科検診の場で、残存歯数が少ない、あるいは咀嚼機能に問題がある高齢者を股関節骨折リスクが高い集団としてスクリーニングし、必要に応じて医師や理学療法士、栄養士などの専門職と情報共有する体制が必要です。
⚫︎連携による介入
例えば、残存歯数の少ない高齢者に対しては、歯科医が義歯の調整やインプラントなどの治療を検討するとともに、栄養士が咀嚼しやすい食事の指導を行い、理学療法士がバランス能力を向上させる運動プログラムを提供するなど、多職種が連携した包括的なアプローチが効果的です。
⚫︎口腔機能向上訓練
歯科医院や介護施設で、咀嚼筋や舌の筋肉を鍛える口腔体操などの「口腔機能向上訓練」を導入することで、オーラルフレイルの予防・改善を図り、全身のフレイル予防につなげることが期待されます。
③公衆衛生政策としての口腔健康の重視
今回の研究は、公的歯科検診データを用いていますが、今後さらに多くの高齢者が定期的に歯科検診を受けられるよう、制度の充実や啓発活動が求められます。
また、検診内容も残存歯数だけでなく、咀嚼機能や口腔乾燥、舌の機能など、より包括的な「口腔機能の評価」に拡大していく必要があります。
終わりに:歯から始まる健康長寿社会へ
今回の紹介論文研究は、高齢者の健康寿命を考える上で、口腔健康が重要な意味を持つことを示しました。
特に女性においては、健全で機能している歯をいかに長く維持するかが、股関節骨折という深刻な事態から身を守るための重要な鍵となります。
「たかが歯、されど歯」。
口腔の健康は、単に口の中だけの問題ではありません。それは栄養状態、身体活動、社会参加、そしてひいては人生の質に深く関わっています。
生涯にわたる適切な口腔ケア、定期的な歯科検診、そして医療・介護の多職種連携を通じた包括的なアプローチによって、私たちは高齢者一人ひとりが、より長く、より活動的な生活を送れる社会、すなわち「歯から始まる健康長寿社会」を実現できるはずです。
今回の研究結果は、歯科医療従事者だけでなく、医師、看護師、介護職、そして何よりも私たち一人ひとりが、自身の口腔健康に意識を向け、大切に守っていくことの重要性を強く訴えかけています。
今日から、あなたの歯を守るために早速行動してみてください。
定期的な歯科検診と適切なセルフケアが、未来の健康なあなたを支える礎となりますよ!
