2026年5月11日

(院長の徒然コラム)

1. はじめに:なぜ歯科分野が「軟骨」が関係するのか
歯科医院を訪れる患者さんの多くは、虫歯や歯周病の治療を目的とされています。
しかし、私たち歯科医師にとって、それらと同じくらい重要な領域が「顎関節(がくかんせつ)」です。
食事をする、会話を楽しむ。これらの日常動作を支えているのが顎関節の軟骨です。
一度損なわれると再生が難しいとされる軟骨組織に対し、私たちは今、分子生物学というミクロの視点から「再生」のスイッチを探しています。
今回ご紹介するのは、岡山大学の生化学・口腔外科学のチーム(岡山大学の加藤壮馬先生、久保田聡先生らによる)が発表した、軟骨細胞の運命を左右する「環状RNA(circRNA)」に関するの研究成果です。
2. 軟骨再生の主役「CCN2」と、その背後に潜む謎
軟骨や骨の形成において、長年「司令塔」として注目されてきたのがCCN2です。
かつてはCTGF(結合組織成長因子)と呼ばれていたこのタンパク質は、軟骨細胞の増殖を促し、軟骨特有の基質(アグリカンやコラーゲンなど)の合成を強力に推進します。
しかし、近年の研究で驚くべき事実が分かってきました。
CCN2はタンパク質として働くだけでなく、その「遺伝子情報が読み取られる過程」で、全く別の機能を持つ分子を生み出していたのです。それが今回の主役、circRNA(環状RNA)です。
3. circRNA:生命の神秘「環状のメッセンジャー」
通常、RNA(リボ核酸)は一本の紐のような形をしており、タンパク質の設計図として働きます。
しかし、circRNAは末端同士が結合して「輪(リング)」のような構造をしています。
この環状構造により、RNAを分解する酵素に対して非常に強くなり、細胞内に長く留まって特殊な働きをすることが近年判明しました。
特に有名な機能が「miRNAスポンジ」としての役割です。
細胞内には、遺伝子の働きを抑えてしまう「miRNA(マイクロRNA)」という邪魔者が存在します。
circRNAはこのmiRNAを吸着して閉じ込めることで、本来働くべき遺伝子の活動を守る、いわば「盾」や「掃除機」のような役割を果たしているのです。
(これまでは「スプライシングのミスでできたゴミ」だと考えられてきましたがね)
4. 岡山大学の研究が明らかにした詳細データ
今回の紹介論文では、ヒト軟骨細胞株(HCS-2/8)とマウス軟骨前駆細胞株(ATDC5)を用い、実験が行われました。
その詳細なデータを見ていきましょう。
① 新規CCN2由来circRNAの発見
研究グループは、RT-PCR法(遺伝子増幅法)を用い、CCN2の遺伝子から作られるcircRNAを解析しました。
その結果、血管内皮細胞などで知られていた既存のcircRNAとは異なる、軟骨細胞特有の新しいcircRNA(論文内では「circRNA A」と呼称されています)を同定しました。
このcircRNA Aは、CCN2の第3・第4エキソン(TSP1モジュールとCTモジュール: トロンボスポンジンス型1とカルボキシ末端)および3′-UTR(非翻訳領域)の一部を含む、これまでに報告のない特殊な構造をしていました。
⚫︎「バックスプライス・ジャンクション」
「circRNA A」は、3′-UTR(非翻訳領域)の1784番目付近と、TSP1ドメインの802番目付近が結合する、全く新しいバックスプライス・ジャンクション(BSJ)を持っていました。
接合部には「GTGTGTG」という特徴的な配列が含まれており、これが軟骨細胞における安定した環状化を支えていることが示唆されました。
② 軟骨分化に伴う発現量の変化(マウスATDC5細胞での検証)
マウスの細胞を用いた実験では、軟骨が成熟していく過程でこのcircRNAの発現がどう変わるかが追跡されました。
軟骨分化の指標となるアグリカン(Acan)遺伝子やII型コラーゲン(Col2a1)遺伝子の発現が18日目に向けて上昇するのに呼応し、circRNAの発現も分化誘導後9〜12日目にピークを迎えました。これは、軟骨がまさに作られようとする「成熟の初期段階」でこの分子が重要な役割を果たしていることを示唆しています。
③ ノックダウン実験による機能の証明
最も驚くべきデータは、このcircRNA Aの働きを人工的に止めた(ノックダウンした)際に現れました。
siRNAを用いてcircRNA Aを抑制したところ、CCN2タンパク質の量には変化がないにもかかわらず、アグリカン(ACAN)遺伝子のmRNA発現が有意に減少しました。
さらに、GAG(グリコサミノグリカン)アッセイでは、培養上清および細胞溶解液中のプロテオグリカン合成量が顕著に低下していることが確認されました。
④ メカニズムの解明:miR-181-5pとの戦い
なぜ、circRNA Aを減らすとアグリカンが減るのか? その鍵は「miR-181-5p」というmiRNAにありました。
miR-181-5pは血管新生、炎症反応、肥満などの病的プロセスを調節する保存されたマイクロRNA(miRNA)です。
ルシフェラーゼレポーター(遺伝子発現やプロモーター活性を「発光量」として高感度に定量する解析法)により、circRNA AがmiR-181-5pを直接吸着していることが証明されました。
本来、miR-181-5pはアグリカン(ACAN)遺伝子のmRNAに結合してその発現を抑制してしまう性質を持っています。
circRNA AがこのmiR-181-5pを「スポンジ」のように吸い取ることで、アグリカンが正常に作られるよう守っていたのです。
興味深いことに、CCN2のmRNAやタンパク質の量自体には変化がありませんでした。つまり、circRNA Aは「CCN2そのもの」を増やすのではなく、「アグリカンを守る」という独自の任務を遂行していたのです。
5. 臨床への応用:顎関節症治療の未来
この研究は、単なる基礎研究に留まりません。私たち歯科医師が日常的に接する「顎関節症」や「顎関節の変形」に対する新しい治療戦略を示唆しています。
現在、重度の顎関節症による軟骨破壊に対しては、鎮痛剤の投与やマウスピース療法、あるいは外科的な処置が行われますが、壊れた軟骨そのものを元通りにするのは極めて困難です。
しかし、このCCN2由来circRNAの働きをコントロールすることができれば、患者さん自身の細胞が持つ「軟骨を作る力」を再び呼び覚ます「次世代の再生医療」が現実味を帯びてきます。
6. 終わりに:歯科医療への光明
「歯を治す」という行為は、その土台となる顎骨、そして可動部である顎関節の健康があって初めて成立します。
岡山大学の先生方による今回の発見は、歯科医学が全身の、そして未来の医療を牽引していることの証左でもあります。
私たちが最新の論文を読み解き、日々の臨床に活かそうとするのは、すべては患者さんの「一生、自分の口でおいしく食べる」という喜びを守るためです。
ミクロなRNAの世界で起きている「細胞の対話」は、やがてあなたの顎の痛みを消し、健やかな笑顔を取り戻す大きな力となるかもしれません。
