2026年4月19日

(院長の徒然コラム)

はじめに:長寿社会における「口腔ケア」の真の価値
私たちは今、「人生100年時代」という長寿社会を生きています。
健康寿命を延ばすための鍵として、食事、運動、睡眠の重要性は広く知られていますが、近年、急速に注目を集めているのが「口腔健康(オーラルヘルス)」です。
「単に歯を失うだけなら、入れ歯にすればいい…そう考えている方も少なくないかもしれません。
しかし、近年の疫学研究は、口腔の健康状態が単なる「食べる機能」の維持にとどまらず、心血管疾患、糖尿病、認知症、そして「がん」の発生や死亡リスクにまで深く関与していることを明らかにしています。
特に、口腔がんと咽頭がんは、罹患すると食事や会話といった日常生活の質(QOL)を著しく低下させるだけでなく、生存率も他の部位のがんに比べて決して高いとは言えません。
今回のコラムでは、2026年に発表された研究論文「Smoking, drinking, tooth loss and risk of oral–pharyngeal cancer mortality(喫煙、飲酒、歯の喪失と口腔・咽頭がん死亡リスク)」(Kiuchi et al., 2026)のデータに基づき、私たちが無意識に続けている生活習慣(喫煙・飲酒)と「歯の本数」が、いかにして私たちの生命を脅かす「がん」のリスクを増幅させるのか、その衝撃的な真実を掘り下げていきます。
1. 論文研究のエビデンス:JAGESプロジェクトが示したデータ
今回、私たちが注目するのは、東京医科歯科大学(現・東京科学大学)の木内桜氏らを中心とした研究チームが、学術誌『Oral Oncology』に発表した大規模調査の結果です。
この研究は、日本老年学的評価研究(JAGES)の一環として行われたもので、65歳以上の自立した日本人男女約4万人を、平均10年以上にわたって追跡調査した非常に信頼性の高いデータに基づいています。
①調査の概要
⚫︎対象者:39,882名(男性46.8%)
⚫︎追跡期間:2010年から2022年までの約12年間
⚫︎注目したリスク因子:喫煙習慣、飲酒習慣、および「残っている歯の本数」
⚫︎評価項目:口腔・咽頭がん(OPC)による死亡
この研究が画期的だった点は、これまで個別にリスクとして考えられていた「喫煙・飲酒」という行動習慣と、「歯の喪失(口腔健康の成れの果て)」が、組み合わさった時にどれほどリスクを跳ね上げるのか(相乗効果)を統計的に明らかにした点にあります。
2. 「喫煙・飲酒」と「歯の喪失」の二重苦
研究結果によると、口腔・咽頭がんによる死亡リスクを高める要因として、以下の事実が判明しました。
① 喫煙と飲酒の影響
まず、従来の知見を裏付ける通り、喫煙と飲酒の両方の習慣がある人は、どちらも行わない人に比べて、口腔・咽頭がんで死亡するリスクが約2.87倍に高まります。
タバコに含まれる発がん性物質と、アルコールの代謝産物であるアセトアルデヒドが、口や喉の粘膜を継続的に攻撃するためです。
② 「歯の本数」が示す健康のバロメーター
注目すべきは、歯の本数そのものが独立したリスク因子であったことです。
残っている歯が「0〜19本」の人は、「20本以上」ある人に比べて、口腔・咽頭がんによる死亡リスクが約1.96倍、つまり約2倍に跳ね上がることが示されました。
ここで重要なのは、歯を失っていること自体が、単に「歯周病や虫歯があった」という過去の結果を示すだけでなく、現在の体内での「慢性的な炎症」や「免疫力の低下」を反映しているという点です。
③ 相乗効果
この研究の最も驚くべき発見は、「喫煙・飲酒習慣」と「歯の喪失(0〜19本)」が重なった場合のリスクです。
分析によると、タバコを吸い、お酒を飲み、かつ歯が19本以下の人の死亡リスクは、リスクのない層と比較して、なんと5.02倍にまで膨れ上がることが分かりました。
これは単純な足し算を超えた「相乗的」な影響です。
さらに、「相加的」な相互作用も確認され、個々のリスクの和を大きく上回る超過リスクが存在することが証明されました。
つまり、「タバコも酒もたしなむが、歯はボロボロだ」という状態は、がんによる死への特急券を握っているようなもんだと言っても言い過ぎではありません。
3. なぜ「歯がない」と「がん死」が増えるのか?:メカニズムの考察
なぜ口腔内の健康状態(歯の本数)が、がんの死亡リスクをこれほどまでに左右するのでしょうか。
研究論文では、主に以下の3つのメカニズムが示唆されています。
A. 生物学的経路:慢性炎症と口腔内細菌の乱れ
歯を失う最大の原因は歯周病です。
歯周病は、歯周病菌が引き起こす「慢性的かつ持続的な炎症」です。
炎症が続くと、細胞のDNAが傷つきやすくなり、がん化を促進する環境が整ってしまいます。
さらに、歯が少ない、あるいは口腔ケアが不十分な人の口内では、特定の細菌(マイクロバイオーム)のバランスが崩れています。
一部の口腔細菌は、アルコールを分解して毒性の強いアセトアルデヒドを生成する能力を持っており、喫煙や飲酒によって傷ついた粘膜に、これらの細菌がさらなる追い打ちをかけるのです。
B. 歯科受診経路:早期発見の遅れ
非常に興味深い考察として、「歯科受診の頻度」が挙げられます。
歯が多く残っている人は、定期的な検診やクリーニングのために歯科医院を訪れる習慣がある場合が多いです。
その際、歯科医師は歯だけでなく、舌の裏側や粘膜の状態もチェックするため、初期の口腔がんを「偶然発見」できる可能性が高まります。
一方で、すでに多くの歯を失ってしまった人は、「もう治療する歯がないから」と歯科医院から足が遠のきがちです。
その結果、がんが発生しても自覚症状が出る(痛みや出血など)まで放置され、発見された時にはすでに進行している、という悲劇が起こりやすいのです。
C. 手術後の合併症リスク
万が一、がんの手術を受けることになった際も、口腔環境が悪いと「術後肺炎」のリスクが急増します。
口の中の不潔な細菌が肺に入り込むことで、がんそのものの治療が成功しても、肺炎などの合併症で命を落とすケースは少なくありません。
歯の本数がある程度維持されていることは、こうした不測の事態への「予備能力」としても機能します。
4. 私たちが今すぐ実践すべき「攻めの歯科ケア」
このエビデンスを知った今、私たちはどのように行動すべきでしょうか。
単に「歯を磨きましょう」というレベルではいけないのです。
① 「8020運動」の真の意味を理解する
「80歳で20本の歯を残そう」という8020運動は、単に煎餅が食べられるという話ではありません。
今回の研究が示したように、20本というラインは、がん死亡リスクを抑制するための「防衛線」でもあるのです。
すでに20本を切ってしまった方も、これ以上減らさないための徹底したケアが必要です。
② 喫煙・飲酒習慣の再考
タバコとアルコールががんリスクであることは自明ですが、もしあなたが「すでに歯を何本か失っている」のであれば、そのリスクは他人の数倍に膨らんでいることを自覚してください。
「自分は歯が弱いから、せめてタバコだけでもやめてリスクを相殺しよう」という、賢明なリスクマネジメントが求められます。
③ 歯科医院は「歯を治す場所」から「将来を守る場所」へ
「痛くなってから行く」のが昭和の歯科受診であれば、「病気で死なないために行く」のが令和の歯科受診です。
定期的なプロフェッショナル・クリーニングは、歯周病による慢性炎症を抑えるだけでなく、口腔内の異常を早期に発見するための「がん検診」としての側面を強く持っています。
特に、以下のいずれかに当てはまる方は、3ヶ月に一度の定期受診が必須です。
⚫︎40歳以上で、すでに抜けた歯がある。
⚫︎日常的に飲酒、または喫煙の習慣がある。
⚫︎口内炎が2週間以上治らないことがある。
④ セルフケアの質を劇的に高める
毎日のブラッシングに加え、フロスや歯間ブラシの使用は必須です。歯と歯の間の汚れは、がんの原因となる慢性炎症の温床です。
また、舌を清掃する「舌ブラシ」の使用も、口腔内細菌の総数を減らすために非常に有効です。
5. 終わりに:健康の入り口は「口」にある
今回の研究結果は、日本の高齢化社会において極めて重要な示唆を与えています。
「喫煙・飲酒」という個人的な嗜好と、「歯の本数」という口腔健康の状態が、私たちの寿命を左右する「口腔・咽頭がん」のリスクをこれほどまで強力に、かつ相乗的に高めてしまうという事実は、重く受け止めるべきです。
口は、食べ物を取り入れ、会話を楽しみ、表情を作る「幸福の入り口」です。
しかし、ケアを怠れば、そこはがんや炎症の「病の入り口」へと変わってしまいます。
今、あなたに20本以上の歯があるなら、それを全力で守ってください。
もしすでに歯を失っているなら、これ以上の悪化を防ぎ、定期的なプロのケアによってリスクを最小限に抑えてください。
歯ブラシ一本、そして数ヶ月に一度の歯科検診。その小さな習慣が、10年後のあなたを、がんで亡くなるリスクから守る盾になるかもしれません。
