2026年5月14日

(院長の徒然コラム)

はじめに
「肩こりがひどい」「腰痛がなかなか治らない」
「いつも身体がふらつく感じがする」……。
こうした身体の不調を感じたとき、多くの方は整形外科やマッサージ、整体へ足を運ぶことでしょう。
しかし、その原因が「口の中」にあるかもしれないと考えたことはありますか?
私たち歯科医師は、長年「噛み合わせ(咬合)」が全身の健康に及ぼす影響を注視してきました。
近年では、バイオメカニクス(生体力学)の進化により、歯の一本一本の接触や下顎の位置が、いかにして頭の位置を変え、ひいては足の裏の重心位置まで変化させるのかが科学的に解明されつつあります。
今回は、2023年に発表された学術論文
「Is There a Correlation between Dental Occlusion, Postural Stability and Selected Gait Parameters in Adults?:Monika Nowak氏」
に基づき、噛み合わせと姿勢、そして歩行の安定性の間にどのような相関関係があるのかを詳しく解説していきます。
1. 噛み合わせと姿勢をつなぐ「キネマティック・チェーン」
なぜ、口の中という小さな領域が、全身の姿勢に影響を与えるのでしょうか。
その鍵は「キネマティック・チェーン(運動連鎖)」という考え方にあります。
人間の身体は、骨格と筋肉、そして筋膜というネットワークによって頭の先から足の先までつながっています。
中でも下顎(したあご)は、頭蓋骨に筋肉と靭帯だけでぶら下がっている「振り子」のような特殊な構造体です。
この振り子の位置が決まる唯一のポイントが「噛み合わせ」です。
噛み合わせがズレると、下顎を支える筋肉のバランスが崩れます。
すると、そのバランスを補正しようとして、首(頸椎)や肩、さらには脊椎や骨盤へと連鎖的に歪みが波及していきます。
これを歯科医学では、以下の2つの方向性で捉えます。
①下行性疾患(Descending disorders)
噛み合わせや顎関節の問題が原因となり、姿勢や足元に悪影響を及ぼすパターン。
上行性疾患(Ascending disorders)
足の形や骨盤の歪みなど、下半身の問題が原因で最終的に噛み合わせが狂うパターン。
今回ご紹介する研究は、まさにこの「噛み合わせのタイプが、いかにして静止時の姿勢安定性や重心位置に影響を与えるか」を浮き彫りにしたものです。
2. 噛み合わせの3つのタイプ:アングル分類とは
紹介論文の内容に入る前に、歯科で使われる噛み合わせの分類「アングル分類」について知っておく必要があります。
これは上顎と下顎の前後的な位置関係を示す指標です。
①アングルI級(正常咬合)
上下の顎が適切な位置にあり、噛み合わせが理想的な状態。
②アングルII級(遠心咬合)
いわゆる「出っ歯」の状態。
下顎が上顎に対して後ろに下がっているタイプです。
③アングルIII級(近心咬合)
いわゆる「受け口(反対咬合)」の状態。
下顎が上顎に対して前に出ているタイプです。
今回紹介する論文の研究では、これら3つのグループ(各30名、計90名の若年成人)を対象に、特殊な測定器(バロポドメトリック・プラットフォーム)を用いて、姿勢の安定性や足裏の圧力分布を詳細に分析しました。
※ バロポドメトリック・プラットフォームとは
足裏の圧力分布、重心移動、姿勢バランスを静止時・歩行時に精密測定するセンサー機器です。医療、リハビリ、スポーツ分野で歩行分析や矯正評価に活用されます。
3. 研究が証明した「噛み合わせと重心」の相関
この研究の結果、噛み合わせのタイプによって、人間の重心位置(Center of Pressure: CoP)が明らかに異なることが判明しました。
II級(出っ歯・下顎後退)の場合:重心は「前方」へ
下顎が後ろに下がっているII級の人々は、統計的に見て重心が「前方」にシフトする傾向がありました。
なぜ下顎が下がると重心が前に行くのでしょうか。
一つの仮説として、下顎が後退すると気道が狭まりやすくなるため、無意識に呼吸を確保しようとして頭を前に突き出す姿勢(フォワード・ヘッド・ポスチャー)をとることが挙げられます。
頭部という重い部位が前に出ることで、全体の重心も前方に移動し、足裏では「前足部(つま先側)」への負荷が高くなるのです。
III級(受け口・下顎前突)の場合:重心は「後方」へ
逆に、下顎が前に出ているIII級の人々や、正常なI級の人々は、重心が「後方」に位置しやすいことが示されました。
特にIII級の場合、足裏の「後足部(かかと側)」に強い圧力がかかる傾向があります。
このように、口の中のわずかな前後関係の差が、数メートル下にある足の裏の圧力分布を、ミリ単位で、かつ有意に変えてしまうのです。
4. 噛み合わせが悪いと「ふらつき」やすくなる?
論文研究では次に、姿勢の「安定性(スタビログラフィ)」についても調査を行いました。
具体的には、目を開けている時と閉じている時、さらには「片足立ち」という負荷の高い状態での重心の揺れを測定しました。
その結果、以下のことが明らかになりました。
①揺れの大きさ
不正咬合(II級およびIII級)を持つ人は、正常な噛み合わせの人に比べて、重心が描く軌跡の長さが長く、揺れる範囲も広いことが分かりました。
②調整能力
特に「片足立ち」のような不安定な状況では、III級(受け口)の人は重心を安定させるために、より頻繁に細かな姿勢制御を行わなければならない(重心の移動速度が速い)ことが示されました。
これは、噛み合わせの問題があるだけで、脳が「自分の身体を垂直に保つ」ために余計なエネルギーを使い、常に筋肉が緊張状態にあることを示唆しています。
噛み合わせが悪い人が疲れやすかったり、肩こりを感じやすかったりする背景には、こうした無意識下の過剰な姿勢制御(ポスチャル・コントロール)があるのかもしれません。
5. 視覚と噛み合わせの関係:目をつぶるとどうなるか?
興味深いことに、この研究では「視覚情報」の影響も分析しています。
人間は、視覚、内耳(前庭感覚)、そして足裏や顎からの「固有受容感覚」の3つを統合してバランスをとっています。
実験で目を閉じさせると、当然ながらどのグループも揺れは大きくなります(ロンベルグ率の低下→重心動揺検査において開眼時と閉眼時の動揺面積(または速度)の比率低下)。
しかし、噛み合わせが悪いグループは、目を閉じるとさらに顕著に安定性が低下しました。
これは、噛み合わせ(顎からの感覚)という姿勢制御の重要なセンサーの一つが狂っているため、視覚を遮断された際のリカバーが効きにくいことを意味しています。
「暗い場所でつまずきやすい」
「目を閉じて洗髪しているときにふらつく」
といった症状も、もしかしたら噛み合わせが関係している可能性があるのです。
6. 歩行(ダイナミック・テスト)への影響
一方で、今回の研究では意外な結果も得られました。
静止している時の姿勢には噛み合わせが大きく影響していましたが、「歩行(歩き方)」に関しては、アングル分類による明確な差が見られなかったのです。
これについて論文内で研究チームは、「歩行は静止姿勢よりもはるかに複雑な運動であり、長年の生活習慣による代償メカニズム(身体が歪みを補う仕組み)が働いているためではないか」と推察しています。
つまり、人間は噛み合わせが悪くても、歩くときには足首や膝、股関節などを総動員して、なんとか「普通に見えるように」歩き方を調整してしまうのです。
しかし、この「無理な調整」こそが、長期的に膝の痛みや股関節の疾患を引き起こす一因になっている可能性は否定できません。
7. 歯科治療と理学療法の「多職種連携」の必要性
この研究が導き出した最も重要な結論は、「噛み合わせの治療(矯正や補綴)を行う際には、単に歯を並べるだけでなく、全身の姿勢評価を含めたアプローチが必要である」ということです。
これまでの歯科治療は、口の中だけで完結しがちでした。
しかし、これほどまでに噛み合わせと姿勢が密接に関わっている以上、以下の連携が不可欠となります。
①歯科医師による咬合診断
アングル分類に基づき、顎の位置を適正化する。
②理学療法士による姿勢指導
噛み合わせの改善によって変化した重心位置に合わせて、全身の筋肉のバランスを整える。
③スタビロメトリ(重心動揺測定)の活用
治療前後に重心の揺れを数値化し、客観的に評価する。
例えば、矯正治療で受け口を治したとします。
下顎が後ろに下がれば、重心位置も変わります。
その時、長年の「受け口姿勢」に慣れきった背中や腰の筋肉は、急な変化に対応できず、一時的に腰痛が悪化するといったことが起こり得ます。
ここで理学療法的なサポートがあれば、よりスムーズに「正しい噛み合わせと正しい姿勢」を定着させることができるのです。
8. あなたの「噛み合わせ」セルフチェック
このコラムを読んでいる皆様に、ご自身の噛み合わせと姿勢の関係を意識していただくための簡単なチェック項目を挙げます。
①鏡の前でまっすぐ立つ
左右の肩の高さに差はありませんか?
②顎を左右に動かす
どちらか一方でカクカク音がしたり、動かしにくかったりしませんか?
③目をつぶって片足立ち
左右どちらかが極端にふらつきませんか?
④靴の底の減り方
左右で減り方が極端に違ったり、つま先やかかとだけが異常に減ったりしていませんか?
⑤「イー」の口をする
上下の前歯の中心(正中)は一致していますか?
もしこれらに該当し、かつ原因不明の身体の不調がある場合は、一度「噛み合わせ」を得意とする歯科医院を受診することをお勧めします。
9. 終わりに:美しい歯並びは、健やかな立ち姿から
「噛み合わせを治す」ということは、単に見た目を綺麗にしたり、食事がしやすくなったりするだけのことではありません。
それは、全身を支える「土台の微調整」であり、あなたの姿勢を本来あるべき姿へとリセットするプロセスでもあります。
今回参照した2023年の論文は、若年成人を対象としたものでしたが、噛み合わせと姿勢の関係は、年齢を重ねるほどその重要度を増します。
高齢になり、筋力が衰えてくると、噛み合わせの不備による重心の不安定さが「転倒・骨折」のリスクに直結するからです。
一生涯、自分の足で力強く歩き続けるために。そして、疲れにくい若々しい姿勢を保つために。
「噛み合わせ」という視点から、ご自身の身体を見つめ直してみてはいかがでしょうか。
