2026年5月07日

(院長の徒然コラム)

1. はじめに:なぜ今「口の動き」なのか
人生100年時代、私たちが最後まで自分らしく、美味しく食べ、楽しく会話を楽しむために欠かせないのが「口腔機能」です。
近年、歯科界では「オーラルフレイル(口の衰え)」という概念が浸透し、その早期発見が全身の老化防止に直結することが明らかになってきました。
その口腔機能を評価する上で、極めてシンプルかつ強力な指標となるのが「オーラルディアドコキネシス(Oral Diadochokinesis: OD)」です。
2. オーラルディアドコキネシスとは何か
ODとは、簡単に言えば「構音器官(唇、舌、顎など)の素早さと巧みさ」を測る検査です。
「パ(pa)」「タ(ta)」「カ(ka)」という3つの音節を、できるだけ速く、かつ正確に繰り返してもらい、1秒間に何回発音できるかをカウントします。
なぜ、この3つの音なのでしょうか。
そこには明確な理由があります。
①「パ」の音
唇をしっかり閉じ、開放する動き(口唇の機能)。食べこぼしを防ぐ力に関わります。
②「タ」の音
舌の前方を上顎に押し当てる動き(舌前部の機能)。食べ物を押しつぶし、飲み込み(嚥下)の準備をする力に関わります。
③「カ」の音
舌の後方を挙上する動き(舌後部の機能)。
食べ物を喉の奥へと送り込む、嚥下の瞬間に重要な力に関わります。
つまり、これら3音の指標は、単なる発音のテストではなく、私たちの「食べる力」を多角的に反映しているのです。
3. 測定の進化:アナログからデジタルへ
これまでの臨床現場では、ストップウォッチを片手に目視でカウントする「電卓法」や、ペンで点を打つ「ペン打ち法」が主流でした。
しかし、熟練した測定者であっても、高速な発音を正確に数えることには限界がありました。
特に1秒間に7回を超えるような健常な方の動きを追う場合、ミスカウント(数え漏れ)が有意に増えてしまうのです。
そこで登場したのが「健口(けんこう)くん」のような自動測定器です。
音声波形をリアルタイムで解析することで、主観を排した客観的なデータ取得が可能になりました。
こうしたデバイスの普及により、歯科医院での健診だけでなく、大規模な疫学調査や職域健診でも、高精度な口腔機能評価が可能になりつつあります。
⚫︎測定機器「健口(けんこう)くん」の仕様と操作
《特徴》
音声波形を解析し、5秒間(10秒間)の発音から1秒あたりの平均値を自動算出する。
《主要スペック》
重量:約150g(ハンディタイプ)
電源:単3乾電池2個
《使用手順》
①電源を入れ、マイクを口元に近づける。
②数回発音練習を行い、モニターの点灯を確認する。
③スタート合図の後、発音が始まってから開始スイッチを押す。
④5秒間(10秒間)の計測後、表示される「1秒あたりの数値」を記録する。
⑤使用後はマイク部分をアルコール消毒する。
4. 働き盛りの世代にも関係がある
「口腔機能の低下は高齢者の問題」と考えがちですが、昭和大学の箕浦氏ら(2024)は、働き盛りの世代にも警鐘を鳴らしています。
日本のタクシー業界で働く男性を対象とした調査では、驚くべきことに、高齢者に限らず、若い世代においても「舌圧(舌の力)」や「口唇閉鎖力(唇を閉じる力)」がOD(パタカの回数)と密接に関連していることが示されました。
特筆すべきは、口腔機能が「日中の眠気(デイタイム・スリーピネス)」に関与している可能性です。
口周りの筋力が低下すると、睡眠中の舌根沈下を招き、睡眠時無呼吸症候群(SAS)のリスクを高めます。
これが日中の強い眠気を引き起こし、交通事故のリスクに繋がる。
つまり、歯科医院で行う「パタカ検査」は、プロドライバーの安全管理を守るための検査になり得るのです。
《参考:昭和大学の研究でのODの平均回数(5秒間合計の受検者中央値)》
⚫︎「パ」:33回(6.6回/秒)
⚫︎「タ」:35回(7.0回/秒)
⚫︎「カ」:32回(6.4回/秒)
《口腔機能の関連性》
舌圧(中央値 42.1 kPa)とODの間には、0.527〜0.680という強い正の相関が認められました。
特筆すべきは加齢による低下です。
20代と比較して、60代以上では「パ・タ・カ」すべての音において有意に回数が減少していました。
5. 言語とリズム:脳科学的側面からの考察
さらに、オーラルディアドコキネシス (OD)は単なる筋力測定ではありません。
フロリダ州立大学のキム氏らによる研究(2024)は、ODが「言語のリズム」や「脳の制御」を反映していることを示しました。
英語話者と韓国語話者を比較した研究では、単音節の「パ」のリズムよりも、三音節を組み合わせた「パタカ」のリズムにおいて、言語特有のパターン(強弱や時間間隔)が強く現れることが分かりました。
これは、複雑な音の連鎖を制御する際、私たちの脳が母国語の「リズムのテンプレート」を利用していることを示しています。
このことは、リハビリテーションの現場において極めて重要です。
構音障害や嚥下障害の回復過程を評価する際、単に「速さ」だけを見るのではなく、その「リズムの規則性(nPVI)」を解析することで、脳の運動制御能力がどこまで回復しているかをより精密に診断できる可能性が出てきたのです。
《参考:2024のキム氏の研究》
研究では、アメリカ英語話者と韓国語話者(各28名)の比較を行っています。
⚫︎発音速度の差(パタカの繰り返し)
⭐︎韓国語話者:6.72回/秒
⭐︎英語話者:6.09回/秒
(韓国語話者の方が有意に速い、p = 0.008)
⚫︎リズムのバラツキ(nPVI:リズムの変動指数)
音節間のリズムの不安定さを示す指標において、英語話者は59.49だったのに対し、韓国語話者は26.87でした。
数値が低い(=リズムが一定である)韓国語に対し、英語は強弱を重視するため、数値が高く、リズムに意図的なムラがあることが数値で証明されました。
このデータは、ODの「回数」だけでなく「リズムの一定さ(数値の低さ)」が、言語特性や脳の制御状態を反映していることを示しています。リハビリテーションにおいて「ただ速ければ良い」わけではなく、その言語に見合った「数値の安定性」が重要であることを教えてくれます。
そういえばKPOPってダンスに向く曲が多いですけど、一定のリズムであることも関係しているのかもしれませんね。(これはエビデンスないですが)
6. オーラルフレイルを防ぐために:今日からできること
では、私たちはどうすればこの「口の若さ」を保てるのでしょうか。
①定期的なチェック
まずは歯科医院で、自分の「パタカ」が何回なのか、客観的に知ることから始めましょう。
1秒間に各音6回未満であれば、口の衰えが始まっているサインです。
②日常的なトレーニング(あいうべ体操など)
「パタカ」を意識して発音する習慣を持つだけでも効果があります。
また、舌圧を高めるための「舌回し運動」や、口唇を鍛えるトレーニングは、将来の嚥下障害を予防する強力な武器になります。
③ライフスタイルとの関連
飲酒や喫煙、BMI(肥満度)が口腔機能に影響することも示唆されています。
全身の健康管理は、そのまま口の健康管理に直結します。
7. 終わりに:歯科の役割のパラダイムシフト
かつて歯科医院は「歯の痛みを取り、削って詰める場所」でした。
しかし、現在、そしてこれからの歯科医院は「口腔機能を通じて、全身の老化と安全を守る場所」へと進化しています。
「パ・タ・カ」。
この何気ない3つの音節の背後には、あなたの脳、筋肉、そして将来の健康状態を物語る膨大な情報が隠されています。
今日、鏡の前で「パタカ、パタカ」と唱えてみてください。その滑らかさは、あなたの健康な未来へのリズムそのものなのです。
