2026年7月19日

(院長の徒然コラム)

はじめに
診療室で歯石を見つけたとき、私たち歯科医療従事者がまず考えるのは、どのように除去し、その後の再付着をどう防ぐかということです。
歯石の表面には、さらにプラークが付着します。歯ぐきの周囲に歯石と細菌性バイオフィルムが残れば、歯肉炎や歯周炎の改善を妨げます。そのため、現代の歯科診療において、歯石は基本的に「残して観察するもの」ではありません。
ところが、発掘された人骨を研究する考古学者や古代DNA研究者にとって、歯石は決して捨ててはいけない資料です。
数百年前、あるいは数千年前の人の歯に付着した歯石の内部には、その人が生きていた時代の口腔細菌や古細菌のDNA、唾液や歯肉溝滲出液に由来するタンパク質、免疫反応の痕跡、さらには食物に由来する微粒子や分子が保存されていることがあります。
現在では、歯石は「口腔内に形成された石灰化物」であるだけでなく、過去の人々の口腔環境を読み解くための生物学的な記録媒体として研究されています。
そして2026年、日本の江戸時代を中心とする多数の古人骨から歯石DNAを解析した研究が、Scientific Reportsに発表されました。
この研究が示したのは、単に「江戸時代にはどんな菌がいたのか」という菌種の一覧ではありません。
研究者たちは、古代と現代で口腔マイクロバイオームがどう異なるか、本土と沖縄や、社会階層、都市と農村による差があるか、縄文時代と江戸時代で微生物の系統がどう変化したかを調べました。
さらに、歯周炎との関連が報告されている古細菌、Methanobrevibacter oralisの内部に二つの大きな系統を見いだし、お歯黒の痕跡が確認されていた女性が、同じ系統に集まっていたことを報告しました。
人は文化をつくります。
しかし、その文化が口腔内の環境を変え、そこに住む微生物の構成だけでなく、微生物の系統や遺伝子の違いにまで関係することがあるのでしょうか。
江戸時代の歯石に保存された古代DNA、お歯黒という文化、鉄をめぐる微生物生態、そしてM. oralisの二つの系統から、この問いを考えていきます。

歯石は除去するものなのに、考古学ではなぜ保存されるのか
プラークと歯石は同じものではありません。
プラークは、歯面に付着した細菌を中心に、細菌が作る細胞外基質、唾液由来成分、剝離した上皮細胞などが組み合わさったバイオフィルムです。歯ブラシや歯間清掃器具によって、ある程度は機械的に除去できます。
一方、歯石は、そのプラークが唾液や歯肉溝滲出液から供給されるカルシウムやリン酸などによって石灰化したものです。
石灰化すると、歯ブラシだけで取り除くことは難しくなります。
歯肉縁上歯石だけでなく、歯周ポケット内の歯根面に形成された歯肉縁下歯石では、歯面から確実に除去するために専門的な器具や技術が必要になります。
臨床的には、歯石そのものが単独で歯周炎を起こすというよりも、歯石表面に細菌性バイオフィルムが維持されやすくなることが問題です。
歯周治療では、歯石だけを見ているのではありません。
歯周ポケットの深さ、出血、排膿、アタッチメントロス、骨吸収、プラークの付着状態などを含めて評価します。
歯周病治療が終わったあとも、プラークや歯石の再付着、出血、歯周ポケットの変化を継続して確認する必要があります。
歯磨きの際に出血する場合も、単に力を入れすぎたと決めつけず、歯肉炎、歯周ポケット、歯石、磨き残しなどを確認する必要があります。
しかし、考古学では同じ歯石が全く違う意味を持ちます。
歯石は、歯面で成長した微生物性バイオフィルムが繰り返し石灰化し、口腔微生物を強固なリン酸カルシウム基質の中へ固定したものです。
微生物や生体分子が硬い石灰化物の内部へ取り込まれることで、死後の外界からある程度隔離され、長期間保存される可能性があります。
古代歯石は、微生物や宿主のDNA、タンパク質、代謝物、食物に由来する花粉やデンプンなどを保存し得る資料であり、過去の口腔マイクロバイオーム、食生活、健康状態を研究するために利用されています。
骨や象牙質にもDNAは残ります。
ただし、そこから得られる情報の中心は、基本的にはその人自身、つまり宿主のDNAです。そこから性別や血縁、集団の由来などを調べることができます。
これに対して歯石は、宿主だけではなく、口腔内に生息していた微生物のDNAを大量に含むことがあります。
歯石を調べることで、次のような情報へ近づけます。
- どのような口腔微生物が存在したか
- 歯周病と関連する微生物がいたか
- 宿主の免疫反応が起きていたか
- 微生物がどのような機能遺伝子を持っていたか
- 食生活や生活様式の変化と菌叢が関係していたか
- 微生物の系統が時代や地域によって異なっていたか

もちろん、歯石はその人の口腔内全体を均等に保存した「完全な標本」ではありません。
歯石が付着していた歯の種類や部位、歯肉縁上か歯肉縁下か、唾液腺開口部との位置関係、歯周病の程度、バイオフィルムの成熟度などによって、内部に取り込まれる微生物は変わり得ます。
歯石から検出された微生物の割合を、そのまま生前の唾液中や歯周ポケット内の割合と同一視することもできません。
歯石は、その人の口腔内をある一日に撮影した写真ではなく、形成と石灰化を繰り返してきたバイオフィルムの累積記録だからです。
それでも歯石には、ほかの組織には残りにくい口腔内の情報が保存されています。
現代の歯科医師にとっては除去対象である歯石が、数百年後にはその人の健康、食生活、文化、人口移動を読み解く資料になる。
この視点の反転が、古代口腔マイクロバイオーム研究の出発点です。

歯石は口腔内のDNAタイムカプセルです
古代歯石研究が大きく進んだ背景には、次世代シーケンサーとメタゲノム解析技術の発達があります。
以前の微生物研究では、特定の菌を培養したり、あらかじめ狙いを定めた菌のDNAをPCRで増幅したりする方法が中心でした。
しかし、古代の試料に含まれるDNAは短く断片化しています。
現代の口腔細菌のように、生きた状態で培養することもできません。
そこで利用されるのが、試料中に含まれるDNA断片を広く読み取るショットガン・メタゲノム解析です。
これは、最初から「この菌を探そう」と一つに絞るのではなく、歯石から回収された多数のDNA断片を読み、その配列を既知の細菌、古細菌、ウイルス、真菌、ヒトなどの配列データベースと照合していく方法です。
ただし、古代DNA研究では、「DNAが検出された」というだけでは不十分です。
問題になるのが、コンタミネーション、つまり外部からの混入です。
発掘された歯や歯石は、長期間土壌に埋まっています。
発掘や保管の過程で人が触れ、現代人の皮膚や唾液に由来するDNAが付着することもあります。
DNA抽出に使う試薬自体に、微量の微生物DNAが含まれている場合さえあります。
したがって研究者は、検出されたDNAが本当に生前の口腔内に由来するのかを、複数の方法で確認しなければなりません。
まず、歯石表面に付着した現代DNAや環境由来成分を減らす処理を行います。
その後、歯石を粉砕し、石灰化した基質を溶かしてDNAを抽出します。
さらに、歯石と同時に何も入っていない抽出用の陰性対照を処理し、試薬や実験室環境に由来するDNAを確認します。
古代DNAには、時間の経過によって生じる特徴的な変化もあります。
DNA断片が短くなり、断片の末端ではシトシンがチミンとして読み取られやすくなるなど、古代DNAに特徴的な損傷パターンが見られます。
これらを確認することで、配列が現代の混入DNAではなく、古い試料に由来する可能性を評価できます。
2020年の日本の研究では、専門の古代DNA施設で試料を処理し、抽出時の陰性対照と比較しながら汚染の可能性を検討しました。
さらに、皮膚、土壌、腸管、唾液、現代プラーク、古代歯石などのデータと照合し、検出された微生物群がどの環境に最も近いかを推定しています。
2026年の研究でも、古代歯石は古代DNA専用の設備で処理されました。
土壌由来の汚染を試料ごとに評価し、検出された配列の中から、Human Oral Microbiome Databaseに登録されている既知の口腔微生物へ絞って解析しています。
同じフィルターを土壌試料へ適用した場合、口腔微生物として残った配列は平均1.1%にすぎませんでした。
土壌汚染を完全にゼロにすることはできませんが、既知の口腔微生物へ解析対象を絞ることで、環境由来微生物の影響を減らしています。

古代DNAの解析で、特に注意しなければならない点を整理すると、次のようになります。
- 発掘後に付着した現代人由来DNA
- 土壌や保管環境に由来する微生物
- 試薬や実験室に由来する微量DNA
- 古代DNAの断片化と塩基損傷
- 試料によって異なる保存状態
- 現代の微生物データベースに含まれない系統

それでも、古代歯石の解析に完全な方法があるわけではありません。
現在使われる口腔微生物データベースは、欧米の現代人由来の微生物ゲノムに偏っている可能性があります。
古代日本人に存在した微生物が、現代のデータベースに登録されていなければ、「何の微生物か分からない配列」として残ります。
2020年の研究では、古代日本人の歯石から得られたDNAのうち、分類できたのは平均約49.8%でした。
残りの半分近くには、DNAの保存状態が悪くて分類できなかったものだけでなく、現在のデータベースでは捉えられない古代特有、あるいは東アジア特有の微生物が含まれていた可能性もあります。
つまり歯石はタイムカプセルですが、開ければ過去がそのまま完全な形で現れるわけではありません。
保存された断片を慎重に拾い、土壌や現代人のDNAを除き、現在の不完全なデータベースと照合しながら、過去の口腔環境を少しずつ再構成していく研究です。
マイクロバイオームは「菌の名簿」ではありません
ここで、「マイクロバイオーム」という言葉を整理しておきます。
日常的には、マイクロバイオータとマイクロバイオームは、ほぼ同じ意味で使われることもあります。
厳密には、マイクロバイオータは、ある環境に存在する微生物の集団を指します。
一方のマイクロバイオームは、そこに存在する微生物だけでなく、それらが持つ遺伝子、作り出す物質、微生物同士の関係、宿主との相互作用、周囲の環境までを含めて捉える概念です。
口腔マイクロバイオームを調べるというのは、単に、
A菌がいました。
B菌はいませんでした。
という名簿を作ることではありません。
同じ菌種が検出されても、その意味は量や部位によって異なります。
唾液、舌の表面、頬粘膜、歯肉縁上プラーク、歯周ポケット内のプラークでは、微生物の構成は同じではありません。
酸素濃度、栄養、pH、唾液の流れ、歯肉溝滲出液、清掃のしやすさなどが異なるからです。
口腔内は一つの空間に見えますが、微生物の側から見れば、性質の異なる多数の小さな生息場所が集まった環境です。
唾液の量や性質が変化すれば、歯面の洗浄、緩衝作用、微生物への栄養供給、抗菌成分の働きも変化します。
また、「病気に関連する菌がいる」ことと、「その菌が病気を起こしている」ことも同じではありません。
歯周炎は、一種類の菌だけによって成立する感染症ではありません。
プラークの蓄積、歯周ポケットの形成、酸素環境の変化、炎症による歯肉溝滲出液の増加、宿主の免疫反応などが重なり、微生物群集全体の関係が変化します。
健康な状態では少数だった微生物が、環境の変化によって増えることもあります。
ある微生物が別の微生物の代謝産物を利用し、互いに生存を助け合う場合もあります。
したがって、ある菌が検出されたという事実だけから、
この菌が歯周病の原因だった。
この菌が多いから不健康だった。
と断定することはできません。
さらに、同じ菌種の中にも遺伝的な違いがあります。
たとえば同じ「ヒト」であっても、すべての人のゲノムが完全に同じではありません。
同じように、同じ名前で呼ばれる微生物にも、異なる株や系統が存在します。
一見すると同じ菌種でも、
- どの遺伝子を持っているか
- どの栄養を利用しやすいか
- どの環境に適応しているか
- バイオフィルムを作る能力
- 他の微生物との代謝関係
- 宿主の免疫反応への影響
が異なる可能性があります。
菌種レベルの解析が「どの名字の微生物がいたか」を調べるものだとすれば、株や系統の解析は「その一族の中のどの家系だったか」まで調べることに近いかもしれません。

古代歯石研究でも、当初はどの微生物が含まれているかという菌種構成の解析が中心でした。
しかし現在は、特定の微生物についてDNA断片をつなぎ合わせ、ゲノムを再構築し、系統樹を作る研究へ進んでいます。
それによって、
縄文時代と江戸時代にいた微生物は同じ系統なのか。
人の移動と一緒に微生物の系統も移動したのか。
現代では減少した古い系統があるのか。
生活習慣によって特定の系統が選ばれたのか。
という問いを検討できるようになりました。
今回の2026年研究で重要なのも、単にM. oralisが江戸時代の歯石から検出されたことではありません。
M. oralisという一つの種の内部に、異なる二つの系統が見つかったことです。
そして、その系統の分布が宿主の性別や、お歯黒という文化的習慣と関係している可能性が示されたことに、この研究の新しさがあります。
2020年、日本の古代歯石から最初の手がかりが見つかりました
日本の古代口腔マイクロバイオームを本格的に解析した最初の研究は、2020年にEisenhoferらが発表したものです。
研究対象となったのは、縄文時代の5人と、江戸時代の10人でした。
縄文時代の試料は約2400~3000年前のもので、岩手県の蝦島貝塚と宮野貝塚、愛知県の伊川津貝塚から採取されました。
江戸時代の試料は、東京都台東区の池之端七軒町遺跡から出土した、約400~150年前の人骨に付着した歯石です。
江戸時代の10人は、男性5人、女性5人でした。
この研究では、古代歯石から平均約899万本のDNA配列が得られました。
DNA断片の平均長は約78塩基で、長い時間を経た古代DNAとして矛盾しない短さでした。
得られた配列を、当時利用可能だった4万7000以上の細菌・古細菌ゲノムと比較し、どの微生物に由来する可能性が高いかを調べました。
陰性対照から検出された微生物を差し引き、皮膚、土壌、腸管、唾液、現代プラーク、古代歯石などのデータと比較した結果、日本の古代歯石試料は、土壌や実験室の陰性対照ではなく、既報の古代歯石に近い微生物構成を示しました。
ただし、すべての試料が同じように良好だったわけではありません。
縄文時代の1試料では、重複したDNA配列が約81.9%を占め、口腔由来と分類できた微生物も少なかったため、その後の菌叢構成の比較から除外されています。
古代DNA研究では、試料数を増やすことだけでなく、保存状態の悪い試料を無理に解析へ残さないことも重要です。
研究者たちはまず、狩猟採集を中心とする縄文時代と、農耕社会である江戸時代との間で、口腔微生物叢が異なるかを調べました。
ヨーロッパの古代歯石研究では、狩猟採集から農耕への移行や、産業化に伴う食生活の変化と口腔マイクロバイオームの変化が報告されていました。
日本でも、縄文時代と江戸時代では食生活も暮らしも大きく異なります。
ところが2020年の研究では、縄文時代と江戸時代の間に、微生物の多様性や全体的な菌種構成の明確な統計学的差は確認されませんでした。
これは「縄文人と江戸人の口腔環境が同じだった」という意味ではありません。
縄文時代の解析対象が実質4人、江戸時代が10人と少なく、歯の種類も揃えられていませんでした。
また、分類できたDNA配列は平均約半分にとどまっており、現代のデータベースでは分類できない微生物を見落としていた可能性もあります。
菌種全体の比較では大きな差を検出できませんでしたが、特定の微生物のゲノム系統を調べると、興味深い違いが見つかりました。
古代日本人の全試料に存在し、歯石内で比較的多く検出されたAnaerolineaceae sp. oral taxon 439という細菌について系統解析を行ったところ、縄文時代の系統と江戸時代の系統が別々の集団を形成しました。
つまり、菌種名だけを見れば同じ細菌が縄文時代にも江戸時代にも存在していましたが、その内部の系統は同じではなかった可能性があります。
この結果は、人の人口移動や集団の混合、生活様式の変化とともに、口腔微生物の系統も入れ替わったり、特定の系統が減少したりする可能性を示すものでした。
しかし、今回の話につながる最も重要な手がかりは、縄文時代と江戸時代の比較ではなく、江戸時代の男性と女性の違いから見つかりました。

江戸時代の女性では、お歯黒と歯周病が重なっていました
2020年研究に含まれた江戸時代の女性5人には、共通する二つの特徴がありました。
一つは、全員の歯に黒く染めた痕跡があり、お歯黒を行っていたと判断されたことです。
もう一つは、全員に歯周病の痕跡が認められたことです。
そのため、女性と男性の口腔マイクロバイオームに差があったとしても、その差が、
- 性別によるものか
- お歯黒によるものか
- 歯周病の程度によるものか
- 女性特有の生活環境や社会的背景によるものか
を分けて考えることが難しい試料構成でした。
それでも解析を行うと、江戸時代の女性と男性では、微生物の量を考慮した菌叢全体の構成に統計学的な差が認められました。
一方、菌の有無だけを扱い、量を考慮しない解析では差は確認されませんでした。
また、個々の菌種について多重比較補正を行うと、男女間で有意に異なると断定できる菌種は残りませんでした。
つまり、
女性だけに特別な菌が存在した
という単純な結果ではありません。
同じような菌が男性にも女性にも存在しながら、その量の組み合わせや群集全体のバランスが異なっていた可能性があります。
その中で特に大きな差を示したのが、歯周炎との関連が報告されている古細菌、Methanobrevibacter oralisでした。
M. oralisが全微生物配列に占める平均割合は、女性では約32%、男性では約5%でした。
図だけを見ると、かなり大きな差に見えます。
実際、多重比較を行う前の統計解析ではp=0.028でした。
しかし、多数の菌種を同時に比較したことを考慮して補正すると、統計学的有意差は残りませんでした。
したがって2020年研究から、
江戸時代のお歯黒女性では、M. oralisが必ず増える。
お歯黒によってM. oralisが増殖した。
とは結論できません。
対象者は女性5人、男性5人にすぎません。
女性は全員がお歯黒を行い、全員に歯周病所見があったため、お歯黒と歯周病の影響を分離することもできません。
それでも、女性で平均32%、男性で5%という差は、単なる雑音として無視するには興味深いものでした。
統計学的な証明には至らなくても、次の研究で検証すべき仮説を生むシグナルにはなったのです。

2020年の研究者は、すでに「お歯黒」を疑っていました
2020年の論文は、江戸女性と男性の口腔マイクロバイオームが異なっていた理由として、まず歯周病の影響を挙げています。
現代の研究でも、歯周炎によって歯周ポケット内の酸素濃度、炎症性滲出液、栄養環境が変化し、口腔微生物叢の構成が変わることが分かっています。
M. oralisも歯周炎との関連が報告されているため、女性で多く検出された理由が、単に女性全員に認められた歯周病だった可能性は否定できません。
しかし研究者たちは、もう一つの可能性として、お歯黒を挙げました。
お歯黒では、一般に鉄を酢などへ浸して作った金水と、植物由来のタンニンを含む五倍子粉などを歯へ繰り返し塗布します。
つまり、お歯黒は見た目を黒くするだけの一時的な化粧ではありません。
鉄、タンニン、酸、植物由来成分を、歯面とそこに付着するバイオフィルムへ継続的に供給する生活習慣でもありました。
2020年論文の著者らは、培養した唾液由来マイクロバイオームでは鉄の利用可能性を変えると菌叢構成が変化したという先行研究や、茶の摂取と口腔微生物叢の関係を示した研究を引用しています。
さらに、同じ遺跡の骨に対する安定同位体分析では、男女の一般的な食生活に明瞭な差が確認されなかったことから、お歯黒によって口腔内へ直接導入された鉄や植物タンニンが、女性の口腔マイクロバイオームに影響した可能性を考察しました。
著者らは、実際の金水を用いた培養モデルで、口腔微生物叢がどのように変化するかを検証すべきだとも提案しています。
もちろん、これはあくまで仮説です。
歯面に残ったお歯黒の鉄濃度を測定したわけではありません。
女性のM. oralisが多かったことと、お歯黒の頻度や使用期間との関係を調べたわけでもありません。
金水を加えた培養環境でM. oralisが増えることを示したわけでもありません。
そもそも、当時使われた金水の作り方は、家庭や地域によって同一ではなかった可能性があります。
2020年の時点では、
江戸女性の口腔マイクロバイオームに男女差があった。
M. oralisは女性で多い傾向を示した。
女性は全員がお歯黒を行っていた。
お歯黒に含まれる鉄とタンニンが関与した可能性がある。
というところまででした。
しかし、対象者が少なく、菌種ごとの統計学的差も確定できませんでした。
そこで次に必要となるのは、より多くの江戸時代人の歯石を集め、菌種の量だけではなく、菌の内部にある遺伝的な違いまで調べることです。
その研究が、2026年のScientific Reports論文です。

2026年研究は、古代日本人118人まで解析対象を広げました
2026年に発表された研究では、主として江戸時代を中心とする日本の古代歯石が、これまでより大きな規模で解析されました。
新たに調べられたのは、現代日本人9人と、古代日本人118人です。
古代人の試料は、東京52人、埼玉4人、山梨15人、福岡8人、沖縄39人から集められました。
東京では大名家や旗本家の墓地、寺院、町人を含むと考えられる遺跡など、複数の場所が含まれています。
福岡や沖縄の試料も加わり、本土の一地点だけではなく、複数地域の比較が可能になりました。
ここに、2020年研究の縄文時代5人、江戸時代10人など、すでに公開されていたデータを加え、時代や地域をまたぐ系統解析が行われています。
ここで重要なのは、2026年研究が単なる「お歯黒の研究」ではないことです。
研究者たちは、
- 古代と現代の違い
- 本土と沖縄の地域差
- 大名・旗本とその他の社会階層の差
- 都市部と農村部の差
- 微生物が持つと予測される機能の違い
- 縄文時代と江戸時代における微生物系統の違い
- M. oralis内部の遺伝的多様性
を幅広く調べています。

古代歯石の解析では、菌種構成を調べるだけでなく、二つの方法で微生物の系統解析を行いました。
一つは、既知の参照ゲノムへDNA断片を対応させる参照配列ベースの解析です。
もう一つは、歯石中のDNA断片を組み立て、メタゲノムから微生物のゲノムを再構築する解析です。
後者で再構築されたゲノムは、metagenome-assembled genome、略してMAGと呼ばれます。
参照配列ベースの方法には、多くの試料を比較しやすい利点があります。
一方で、基準にした現代の参照ゲノムと大きく異なる領域は、正しく拾えない可能性があります。
アセンブリーベースの方法は、参照ゲノムへの依存が小さく、未知の遺伝子領域も再構築できる可能性があります。
ただし、古代DNAは短く断片化しているため、ゲノムを正確につなぎ合わせるのは簡単ではありません。
このように長所と短所が異なる二つの方法で、同じような系統構造が見えるかを確認したのです。
研究対象となった現代日本人9人は、プロービングポケットデプス、つまり歯周ポケットの深さの平均が5.2±2.2mmで、全員が中等度から重度の歯周炎を有していました。
この点も重要です。
今回の「現代日本人」は、口腔内が健康な一般集団を代表する9人ではありません。
古代人の歯石と現代人の歯石を比較する場合、時代、食生活、生活環境、歯周病の程度、歯石の形成期間、試料の保存状態、DNA抽出や解析条件が重なります。
したがって、古代と現代の差をすべて「近代化の影響」と説明することはできません。
それでも、DNA回収量や検出菌種数の違いを考慮して解析条件を揃えたうえで、古代と現代の口腔マイクロバイオームに差が残るかを調べたことは、この研究の重要な点です。
古代と現代では、口腔マイクロバイオームが異なっていました
2026年研究では、現代日本人9人と古代日本人118人から、合計285種の既知口腔微生物が検出されました。
まず、1000本以上の口腔微生物配列が得られた試料を用いて菌種構成を比較すると、古代人と現代人は異なる集団を形成しました。
ただし最初の解析では、古代歯石の方が検出できた菌種数が少ない傾向がありました。
古代DNAは断片化し、一部が失われています。
検出できた菌種数が少ないだけでも、統計解析上は現代試料と離れて見える可能性があります。
そこで研究者たちは、現代人で確認された最少菌種数に合わせ、81種以上の微生物が検出できた保存状態の比較的良い古代試料26人だけを選び、現代人9人と再比較しました。
その条件でも、古代と現代の口腔マイクロバイオームには統計学的な差が残りました。
つまり、古代と現代の違いは、単に古代DNAの回収量が少なかっただけでは説明しきれない可能性があります。
その差に強く関係していた微生物の一つが、M. oralisでした。
M. oralisは古代歯石で多く検出され、今回解析された現代日本人9人からは検出されませんでした。
しかし、ここでも表現には注意が必要です。
この結果から、
M. oralisは現代日本人の口腔内から消滅した
とは言えません。
現代日本人は9人だけであり、M. oralisは個人差が大きく、現代人でも検出されることがある微生物です。
論文の著者も、現代日本人で検出されなかったのは、試料数が少なかったためかもしれないと述べています。
地域差については、本土と沖縄の古代歯石で、わずかながら菌叢構成の違いが認められました。
一方、社会階層については、大名・旗本とそれ以外の人々で最初の解析では統計学的差が見られたものの、検出菌種数の条件を厳しく揃えると有意差はなくなりました。
東京の都市部と山梨の農村部との比較も同様で、最初は差が見えましたが、保存状態の良い試料へ限定すると明確ではなくなりました。
古代歯石研究では、解析条件を少し変えるだけで、差が見えたり消えたりすることがあります。
それは研究が間違っているという意味ではありません。
土壌による汚染、DNAの断片化、古代DNA特有の損傷、検出菌種数の違い、試料数の少なさなどが、統計解析へ大きく影響するということです。
2026年研究は、地域や社会階層による差を強く主張するのではなく、条件を厳しくしたときに結果が維持されるかを検討し、維持されなかった差については慎重に解釈しています。

研究者が注目したのは、細菌ではなく古細菌でした
Methanobrevibacter oralisは、一般に「口腔細菌」と一括りにされがちな微生物ですが、厳密には細菌ではありません。
古細菌、あるいはアーキアと呼ばれる生物です。
生物を大きく分類すると、細菌、古細菌、真核生物という三つの領域に分ける考え方があります。
人間や動物、植物、真菌は真核生物です。
Streptococcus、Porphyromonas、Actinomycesなど、歯科でよく扱う微生物の多くは細菌です。
それに対して古細菌は、見た目や大きさは細菌に似ていますが、細胞膜の構造、遺伝情報を読み取る仕組み、酵素の構成などに大きな違いがあります。
古細菌という名前からは、太古の地球や高温の温泉、塩湖、深海など、極端な環境だけに生きる特殊な微生物を想像するかもしれません。
しかし現在では、古細菌は人の腸管、皮膚、鼻腔、そして口腔内にも存在することが分かっています。
口腔内で特に研究されている古細菌が、Methanobrevibacter属です。
その中でも、人の口腔内から分離・培養され、性質が比較的よく調べられている代表的な種がM. oralisです。
古代歯石の研究では、M. oralis以外にも、現代の口腔内からは十分に記載されていない複数のMethanobrevibacter系統が見つかっています。
古代イタリア人20人の歯石を解析した研究では、11個のMethanobrevibacterゲノムが再構築され、そのうちM. oralisと判定されたのは1個だけでした。残りは、従来知られていなかった二つの系統、TS-1とTS-2へ分かれました。
古細菌の中には、ほかの生物にはない代謝を行うものがいます。
その代表が、メタン生成です。
メタン生成は、細菌ではなく、古細菌に特有の代謝経路です。
M. oralisは酸素が少ない環境に生息し、水素を利用しながら、二酸化炭素などからメタンを作るメタン生成古細菌です。
口腔内では、深い歯周ポケットや成熟したバイオフィルムの内部など、酸素の届きにくい場所が、その生息環境になり得ます。

M. oralisは、ほかの微生物が作った水素を利用します
口腔バイオフィルムの中では、さまざまな微生物が糖質やアミノ酸を分解しています。
その過程で、乳酸、酢酸、ギ酸、二酸化炭素、水素、硫化水素など、多様な代謝産物が作られます。
ある微生物にとって不要な排泄物が、別の微生物にとっては重要な栄養源になることがあります。
M. oralisは、その代表例です。
周囲の細菌が発酵によって放出した水素を消費し、メタン生成へ利用します。
この関係は、単にM. oralisが細菌から「食べ物をもらう」だけではありません。
バイオフィルム内部に水素が蓄積すると、水素を産生する細菌側の代謝反応が進みにくくなることがあります。
M. oralisが水素を消費すれば、水素濃度が低く保たれ、周囲の細菌はさらに発酵を進めやすくなります。
つまり、
細菌が水素を作る。
M. oralisが水素を消費する。
その結果、細菌の代謝も進みやすくなる。
という相互依存関係が成立する可能性があります。
このように、異なる微生物が互いの代謝産物をやり取りしながら生活する関係は、代謝的共生、あるいはシントロフィーと呼ばれます。
口腔マイクロバイオームは、菌種の集まりではありません。
微生物が互いに酸素、栄養、電子、代謝産物を受け渡す、複雑な代謝ネットワークです。
M. oralisは、う蝕菌のように糖から直接酸を大量に作る微生物でも、Porphyromonas gingivalisのように歯周病研究で頻繁に名前が挙がる細菌でもありません。
しかし、水素を取り除くことによって周囲の微生物の代謝を支えるのであれば、少数であってもバイオフィルム全体へ影響する可能性があります。

M. oralisは歯周病の原因菌なのでしょうか
M. oralisは、現代の研究では歯周炎との関連が繰り返し報告されています。
深い歯周ポケット、重度歯周炎患者の歯肉縁下プラーク、嫌気性の強い部位などで、メタン生成古細菌が検出されることがあります。
しかし、ここで重要なのは、
M. oralisが検出された。
だからM. oralisが歯周炎を起こした。
とは言えないことです。
歯周炎が進行すると、歯周ポケットが深くなり、内部の酸素濃度が低下します。
炎症によって歯肉溝滲出液が増え、タンパク質やヘムなど、微生物が利用できる栄養環境も変わります。
先に定着した細菌群によって、水素などの代謝産物も供給されます。
つまり、歯周炎によって形成された環境が、M. oralisに適している可能性があります。
逆に、M. oralisが水素を消費することで、ほかの嫌気性細菌の代謝を支え、病的なバイオフィルムを維持する可能性もあります。
現時点では、歯周炎の結果として増えるのか、バイオフィルムの病原性を高めるのか、その両方なのか、特定の細菌との組み合わせでのみ影響するのかを、完全には分けられていません。
したがって、M. oralisは「単独で歯周炎を起こす原因菌」というよりも、歯周炎に関連する微生物群集の一員、あるいは病的環境で増え得る代謝的協力者として考える方が適切です。
歯周病は、数種類の「悪い菌」だけで説明できる疾患ではありません。
歯内、歯周、咬合、補綴、清掃状態、全身状態まで含めて口腔全体を統合して診る必要があります。
【専門分化時代にかかりつけ歯科医が口腔全体を統合して診る意味】
古代歯石でMethanobrevibacterが多い理由は一つではありません
M. oralisを含むMethanobrevibacter属は、現代のプラークや歯石よりも、古代歯石で多く検出されることがあります。
古代イタリア人の歯石研究では、Methanobrevibacterは0.11~47.3%の相対量で検出され、5人では口腔マイクロバイオームの22.5~47.3%を占める優占微生物でした。
また、古代歯石では、現代歯石より古細菌門の相対量が平均約8倍高かったと報告されています。
これだけを見ると、
昔の人の口腔内には、M. oralisが非常に多かった。
近代化によってM. oralisが減少した。
と考えたくなります。
実際に、食生活、口腔清掃、抗菌薬、歯科治療、寿命、歯の喪失時期などが変わり、古代と現代でMethanobrevibacterの生態が変化した可能性はあります。
しかし、古代歯石で多く検出される理由には、別の可能性もあります。
第一に、古代歯石は長期間かけて成熟したバイオフィルムを保存しています。
現代人から採取するプラークや比較的新しい歯石とは、バイオフィルムの成熟段階が異なる可能性があります。
Methanobrevibacterは、酸素の少ない成熟バイオフィルムへ後から加わる後期定着者として検出されることがあります。
そのため、古代歯石が成熟したバイオフィルムを強く反映していれば、M. oralisが多く見える可能性があります。
第二に、DNAの保存されやすさが、微生物によって異なる可能性があります。
細胞壁や細胞膜の構造、ゲノムのGC含量、石灰化物への取り込まれ方によって、死後にDNAが残りやすい微生物と残りにくい微生物が存在し得ます。
第三に、歯石は一瞬の口腔内を切り取ったものではありません。
その人が生きている間に、何度も形成と石灰化を繰り返してきたバイオフィルムの累積記録です。
ある時期に多かった菌と、別の時期に多かった菌が、同じ歯石に保存されている可能性があります。
第四に、死後の変化や土壌環境によって、DNAの構成比が変化する可能性も完全には除外できません。
したがって、古代歯石でM. oralisが30%検出されたとしても、
生前の歯周ポケット内で、常に全微生物の30%を占めていた
と解釈することはできません。
古代歯石は非常に価値の高い資料ですが、微生物の相対量を読むときには、保存過程、バイオフィルムの成熟度、歯周状態を同時に考える必要があります。
M. oralisは、クレードAとクレードBに分かれました
2026年の研究では、M. oralisのDNAが比較的よく保存されていた古代日本人の試料を用い、系統解析が行われました。
研究者たちは、二つの異なる方法を用いています。
参照配列ベースの解析では、合計49検体のM. oralisを比較できました。
その結果、古代日本人のM. oralisは、大きく二つのクレードへ分かれました。
さらに、クレードの所属と宿主の性別との間に統計学的な関連が認められ、Fisherの正確確率検定でp=0.042でした。
アセンブリーベースの解析では、ゲノムの完全性が50%以上、混入率が5%以下という条件を満たした34個のMAGが用いられました。
この方法でも二つのクレードが再現され、性別との関連は同じ方向を示しましたが、p=0.057であり、統計学的には境界的な結果でした。
研究者たちは、二つの系統を、クレードA、男性関連クレードと、クレードB、女性関連クレードと名づけました。
ただし、これは、
男性にはクレードAしか存在しない。
女性にはクレードBしか存在しない。
という意味ではありません。
性別との関連は見られたものの、完全に分離していたわけではありません。
性別が不明の検体も多く含まれており、著者らも慎重な解釈が必要だとしています。
さらに、性別そのものがM. oralisの系統を選んだとは限りません。
江戸時代では、男性と女性で、化粧、婚姻後の生活、居住環境、口腔清掃習慣、社会的な交流、家族との接触などが異なっていた可能性があります。
生物学的な性差だけでなく、性別と結びついた文化的・社会的習慣が、微生物の伝播や生存環境に影響した可能性があります。
お歯黒の痕跡があった女性は、全員クレードBでした
この研究で最も注目される結果が、2020年研究でお歯黒の痕跡が報告されていた女性検体の分布です。
該当する女性のM. oralisは、すべて同じクレードBに分類されました。
2020年の研究では、江戸女性5人すべてにお歯黒と歯周病の痕跡があり、M. oralisの平均相対量は女性32%、男性5%でした。
しかし、対象者が少なく、多重比較補正後には有意差が残らなかったため、お歯黒とM. oralisの関係は仮説にとどまりました。
2026年研究では、単にM. oralisの量を比較するのではなく、M. oralis内部の遺伝的な系統を比較しました。
その結果、お歯黒の痕跡があった女性が、同じ系統へ集まっていたのです。
これは、2020年に提示された仮説を支持する方向の結果です。
しかし、ここでも因果関係が証明されたわけではありません。
最も大きな問題は、2026年研究のすべての古人骨について、お歯黒の有無が同じ方法で記録されていたわけではないことです。
「お歯黒あり」と分かっている女性がクレードBだったことは確認できました。
しかし、クレードBのほかの人にもお歯黒があったのか、クレードAの女性には本当にお歯黒がなかったのかは、全検体で系統的に評価されていません。
黒い色が肉眼的に残っていなくても、過去にお歯黒を行っていた可能性があります。
反対に、歯面の黒色がすべてお歯黒とは限りません。
将来この関係を検証するには、歯面の肉眼的評価、歴史的・考古学的背景、鉄やタンニン残留物の化学分析、性別、年齢、歯周病所見、遺跡、社会階層を、統一した方法で記録する必要があります。

父と娘が別のクレードだったことは何を意味するのか
研究には、父と娘と考えられる一組の血縁者が含まれていました。
父親のM. oralisは男性関連のクレードAに入り、娘のM. oralisは女性関連のクレードBに入りました。
この結果は興味深いものです。
口腔内の微生物は、家族内の接触、食器の共有、育児、共同生活などを通じて伝わる可能性があります。
仮にM. oralisが単純に父親から娘へ伝わり、その後も同じ系統が維持されるのであれば、父娘から近い系統が見つかることも予想されます。
しかし実際には、父と娘は別々のクレードでした。
このことは、父から娘へ直接伝わったとは限らないこと、母親やほかの家族から伝わった可能性、婚姻後に別の共同体から獲得した可能性、男女で異なる生活習慣が定着する系統を変えた可能性などを考えさせます。
同じ人の口腔内に複数の系統が存在し、環境によって優勢な系統が変わった可能性もあります。
ただし、これは父娘一組の観察です。
一組の結果から、M. oralisの伝播様式を決めることはできません。
父娘で違っていたことは、単純な父系伝播だけでは説明できない可能性を示しますが、性別特異的な適応を証明するものでもありません。
遺跡ごとの偏りも無視できません
性別とクレードの関連を考えるとき、地域や埋葬地の影響にも注意が必要です。
2026年研究では、一橋高校遺跡の11検体が、すべて同じクレードに属していました。
これは、クレードの分布が性別だけでなく、地域、共同体、血縁集団、社会階層、生活圏、同じ水や食物の利用、微生物の局地的な伝播によって構造化されていた可能性を示します。
たとえば、ある遺跡に女性が多く、別の遺跡に男性が多ければ、地域差が性差に見えることがあります。
逆に、同じ地域の中で男女の生活圏が分かれていれば、地域差の中に性別と文化習慣の差が含まれることもあります。
古代人の研究では、現代の臨床研究のように、年齢、歯周病、食生活、地域、社会階層などを揃えた対照群を新たに集めることはできません。
残された人骨と歯石から、交絡する要因を一つずつ検討しなければなりません。
したがって、現段階で確認されたのは、
二つのクレードがあり、性別との関連が見られ、お歯黒痕跡のある女性がクレードBへ集まった
という観察結果です。
その理由としてお歯黒は有力な仮説の一つですが、唯一の説明ではありません。
お歯黒が二つのクレードを生み出したわけではありません
ここは、今回の論文を読むうえで非常に重要です。
クレードAとクレードBの違いが、お歯黒と関連している可能性があるからといって、
江戸時代のお歯黒によって、M. oralisが二つの系統へ進化した
と考えることはできません。
研究者たちは、古代試料の年代を基準にして、二つのクレードがいつ分岐したかを推定しました。
参照配列ベースの解析では、分岐時期は西暦366年ごろと推定され、95%信頼区間は西暦209~1096年でした。
アセンブリーベースの解析では、紀元前289年ごろと推定され、信頼区間は紀元前831年~西暦469年でした。
二つの推定値には大きな幅があります。
古代微生物の分岐年代推定は、限られたゲノム情報、DNAの欠損、試料年代の幅、進化速度の仮定などに強く影響されるため、特定の年を断定することはできません。
しかし、二つの解析に共通しているのは、分岐が江戸時代よりもはるかに前、紀元前後を中心とする時期に起きた可能性が高いという点です。
江戸時代は17世紀から19世紀です。
お歯黒が江戸社会で成人女性や既婚女性の習慣として広く定着するよりも、クレードAとクレードBの共通祖先の分岐は、千年以上前に起きていた可能性があります。
したがって、お歯黒が突然変異を起こしてクレードBを誕生させた、という物語は成立しにくいのです。
より妥当なのは、すでに存在していた複数のM. oralis系統のうち、
お歯黒を含む特定の口腔環境でクレードBが生存しやすかった。
クレードBが排除されず維持された。
クレードBが相対的に増えた。
女性の生活圏や伝播経路の中でクレードBが広がった。
という考え方です。
文化が微生物の新しい系統を一から作ったのではなく、すでに存在していた多様性に選択圧をかけ、どの系統が残りやすいかを変えた可能性です。
遺伝子へ突然変異が生じることと、その変異を持つ系統が特定の環境で残ることは、別の現象です。
お歯黒が関係していたとしても、それは変異の発生原因ではなく、既存の系統を選び分ける生態学的フィルターとして働いた可能性があります。

ここから問題になるのが、二つのクレードにどのような遺伝的な違いがあり、その違いがお歯黒の鉄環境と本当に結びつき得るのかという点です。
2026年の研究者たちは、クレードAとクレードBの保有遺伝子を比較し、その中でもメタン生成と、鉄を含む電子伝達系に関わるmvhAとmvhBへ注目しました。
クレードAとクレードBでは、保有遺伝子にも違いがありました
2026年の研究者たちは、比較的高い品質で再構築できたMethanobrevibacter oralisのゲノムを使い、クレードAとクレードBが持つ遺伝子を比較しました。
この比較に使われたのは、ゲノムの完全性が80%以上、ほかの微生物由来配列の混入率が5%以下という、より厳しい条件を満たしたMAGです。
該当したのは、
- クレードA:15個
- クレードB:16個
でした。
研究者たちは、一方のクレードの80%以上に存在し、もう一方では10%以下にしか存在しない遺伝子を「クレード特異的遺伝子」と定義しました。
その結果、
- クレードAに特異的な遺伝子:18個
- クレードBに特異的な遺伝子:7個
が見つかりました。
ただし、見つかった遺伝子のすべてについて、具体的な機能が分かったわけではありません。
既知の遺伝子データベースを用いて機能を予測できたのは、クレードAで7遺伝子、クレードBで2遺伝子でした。
クレードAでは、アミノ基転移酵素、エピメラーゼ・デヒドラターゼ、膜タンパク質、セリン脱水素酵素、zinc-ribbonドメイン、SpoVT/AbrB様ドメインなどが候補として挙げられました。
クレードBでは、古細菌に多いATPaseドメインと、糖などの輸送に関係すると予測される遺伝子が注釈されました。
SpoVT/AbrB様ドメインは、ほかの微生物では、バイオフィルム形成や抗菌薬耐性に関係する遺伝子発現の調節へ関与することがあります。
しかし、今回見つかったM. oralisの遺伝子が、実際に同じ働きをすることを確認したわけではありません。
配列が似ていることから、機能を予測した段階です。
また、古代DNAから組み立てたMAGは、元のゲノムを完全に再現したものではありません。
「ある遺伝子が検出されなかった」という結果も、本当にその系統が遺伝子を持っていなかったのか、DNAが保存されず再構築できなかったのかを、完全には区別できません。
したがって、クレード特異的遺伝子についても、
クレードAには18個の特別な遺伝子があり、クレードBには7個ある
と固定的に理解するのではなく、
現在得られた比較的良好な古代ゲノムの範囲では、そのような遺伝子構成の偏りが観察された
と読む必要があります。


研究者は、mvhAとmvhBの違いに注目しました
お歯黒と鉄との関係を検討するため、研究者たちは、二つのクレードに共通して存在する遺伝子の中から、鉄を利用する酵素機能に関係し得る遺伝子を調べました。
そこで注目されたのが、mvhAとmvhBです。
mvhAとmvhBは、メタン生成古細菌のMvh系を構成する遺伝子です。
mvhAは、水素の酸化に関わるhydrogenaseの構成要素をコードします。
mvhBは、複数の鉄硫黄クラスターを介して電子を運ぶ、MvhB型polyferredoxinをコードします。
メタン生成古細菌は、単に水素を細胞内へ取り込めばメタンを作れるわけではありません。
水素分子から電子を受け取り、その電子を複数の補酵素やタンパク質へ順番に受け渡し、最終的に二酸化炭素などを還元する必要があります。
この電子伝達には、金属を含む酵素中心や、鉄と硫黄からなる鉄硫黄クラスターが関わります。
鉄硫黄クラスターは、タンパク質の内部で電子を受け取ったり、次の分子へ渡したりする構造です。
いわば、細胞内の微小な電子回路をつなぐ接点のような役割を担います。
ここで、非常に重要な点があります。
mvhAとmvhBは、鉄を細胞外から細胞内へ運ぶ「鉄輸送遺伝子」ではありません。
微生物が鉄イオンや鉄錯体を取り込むときには、別の輸送体や受容体が使われます。
mvhAとmvhBが関係するのは、鉄やほかの金属補因子を利用しながら、水素と電子のやり取りを行うエネルギー代謝系です。
したがって、
クレードBではmvhBが異なる
だからクレードBは鉄を多く吸収できた
とは書けません。
今回考えられているのは、
鉄を必要とするメタン生成酵素・電子伝達系の性質に、クレード間の差があった可能性
です。
2026年論文は、Mvh系にクレード特異的なアミノ酸置換を認め、鉄を含む口腔環境との関係を仮説として提示していますが、これらの置換が実際の酵素機能を変えたことまでは示していません。

mvhAには2か所、mvhBには3か所の違いがありました
クレードAとクレードBの配列を比較すると、クレードごとに異なるアミノ酸置換が、
- mvhAに2か所
- mvhBに3か所
見つかりました。
mvhAでは、306番目と423番目のアミノ酸が異なっていました。
クレードAでは、
- 306番目:グルタミン酸
- 423番目:アスパラギン酸
でした。
クレードBでは、
- 306番目:アラニン
- 423番目:主にグリシン
へ置き換わっていました。
ただし、mvhAの423番目については、クレードBの1検体でバリンが確認されています。
mvhBでは、173番目、236番目、372番目に違いがありました。
クレードAでは、
- 173番目:アスパラギン酸
- 236番目:アスパラギン酸
- 372番目:イソロイシン
でした。
クレードBでは、
- 173番目:グリシン
- 236番目:アスパラギン
- 372番目:メチオニン
に置き換わっていました。
研究者たちは、ほかのMethanobrevibacter種の参照配列とも比較しました。
その結果、クレードAの配列は、現在登録されているM. oralisの参照配列と一致していました。
一方、mvhBの173番目と372番目に見つかった置換は、比較したM. oralisの参照配列や近縁種では確認されず、クレードBに特有の置換と判断されました。
アミノ酸が置き換わると、タンパク質の性質が変化する可能性があります。
例えば、アスパラギン酸は負の電荷を持つ酸性アミノ酸ですが、グリシンは非常に小さく、側鎖をほとんど持ちません。
イソロイシンとメチオニンはいずれも疎水性のアミノ酸ですが、メチオニンは硫黄原子を含みます。
このような置換によって、
- タンパク質の折りたたまれ方
- 局所構造の柔軟性
- ほかのタンパク質との結合
- 酵素複合体の安定性
- 電子伝達の効率
- 水素代謝の速度
が変わる可能性はあります。
しかし、可能性があることと、実際に機能が変化したことは別です。
今回の研究では、クレードA型とクレードB型のMvhタンパク質を実際に作製し、酵素活性を比較したわけではありません。
水素消費量、メタン生成量、鉄濃度ごとの増殖速度、鉄硫黄クラスター形成の効率を測定したわけでもありません。
アミノ酸置換が活性中心や電子伝達経路のどの位置にあるかも、立体構造解析や生化学実験による検証が必要です。
したがって、
クレードBはクレードAより多くのメタンを作る
クレードBは鉄が多い環境で強い
という結論は、まだ出ていません。
現在分かっているのは、
お歯黒痕跡のある女性が属したクレードBには、鉄を必要とするメタン生成系に関係し得る遺伝子に、独自のアミノ酸置換があった
というところまでです。

論文は、反対方向の二つの仮説を示しています
研究者たちは、クレードBに見つかったmvhA・mvhBの置換と、お歯黒による鉄の導入を結びつける、二つの仮説を提示しました。
一つ目は、クレードBがエネルギー上の利点を得た可能性です。
お歯黒によって鉄を含む物質が繰り返し歯面へ塗られ、クレードBのMvh系がその環境で効率よく働いたのであれば、クレードBは水素利用やメタン生成で有利になった可能性があります。
利用できるエネルギーが増えれば、
- 増殖しやすくなる
- バイオフィルム内へ定着しやすくなる
- 競合する古細菌より残りやすくなる
- 周囲の水素産生細菌と共生しやすくなる
といった差が生じ得ます。
もう一つは、これとは反対の仮説です。
mvhA・mvhBの置換が、実は酵素の働きを低下させる代謝的に不利な変化だった可能性です。
通常の鉄環境では、クレードBはクレードAよりエネルギー代謝が不利だったかもしれません。
しかし、お歯黒によって鉄を含む成分が継続的に供給され、鉄を必要とする酵素系を維持しやすい環境になっていたのであれば、本来は不利な系統でも排除されずに残れた可能性があります。
これは、環境による代謝的な補償と考えることができます。
必要な補因子を効率よく利用できない酵素であっても、周囲にその補因子が豊富にあれば働けるかもしれません。
反対に、高性能な酵素を持っていたとしても、必要な金属や栄養が環境になければ機能できません。
微生物が環境へ適応できるかどうかは、遺伝子の性能だけで決まるのではなく、遺伝子と環境の組み合わせによって決まります。
論文が、あえて反対方向の二つの仮説を並べていることは重要です。
研究者たちは、
クレードBの変異は有利だった
と断定していません。
有利な変化だった可能性と、不利な変化が特殊な環境によって許容された可能性の、両方を残しています。
現段階では、置換がMvh系の機能を上げたのか、下げたのか、ほとんど変えなかったのかさえ分かっていません。

お歯黒は何を歯に塗っていたのでしょうか
ここで、お歯黒によって口腔内へ持ち込まれた「鉄」が、どのような状態だったのかを考えます。
お歯黒を、単に歯へ黒い塗料を塗る習慣だと捉えると、この問題の本質を見失います。
一般に、お歯黒では二つの材料を組み合わせました。
一つは、鉄を酢などへ浸して作る鉄液、金水です。
もう一つは、五倍子などから得られる、タンニンを多く含む粉末です。
金水の作り方は、時代、地域、家庭によって一定ではありませんでした。
古い釘や鉄片を、酢、茶、酒、麹、粥、飴などと混ぜ、一定期間保存して作る方法が伝えられています。
時間が経つと鉄が腐食し、液体は茶褐色となり、強い特有のにおいを発したとされています。
五倍子粉には、多量のタンニンが含まれます。
タンニンは、タンパク質、アルカロイド、金属イオンなどと結合し、難溶性の物質を形成する性質を持っています。
鉄液と五倍子粉を歯面で組み合わせると、鉄イオンとタンニンが反応し、黒色の鉄―タンニン錯体を形成します。
この反応は、かつて文書へ使われた鉄胆インクが黒くなる反応にも通じます。
ただし、お歯黒の歯面に存在する黒色物質を、一種類の純粋な化合物として考えることはできません。
実際の金水には、
- 二価鉄と三価鉄
- 酢酸などの有機酸
- 茶や植物に由来するポリフェノール
- 発酵や熟成によって生じた物質
- 糖質やタンパク質
- 唾液由来成分
- 歯面のペリクル
- 細菌性バイオフィルム
が混在した可能性があります。
塗布した直後と、酸素へ触れて時間が経過したあとでも、鉄の酸化状態や錯体の構造は変わり得ます。
したがって、
お歯黒では鉄を歯へ塗っていた
という表現と、
お歯黒をしていた人の口腔内では、微生物が利用できる鉄が豊富だった
という表現は、同じ意味ではありません。
ここが、2026年論文の仮説を読むうえで最も重要な点の一つです。

鉄とタンニンが黒くなることと、微生物が鉄を利用できることは別です
鉄は、多くの生物にとって必要な元素です。
人間の体内では、ヘモグロビンによる酸素運搬、ミトコンドリアでのエネルギー産生、DNA合成、さまざまな酵素反応に使われています。
細菌や古細菌にとっても、鉄は重要です。
鉄硫黄クラスター、酸化還元酵素、水素を利用する酵素など、多数のタンパク質が鉄に依存しています。
その一方で、鉄は多ければ多いほどよい物質ではありません。
自由な状態の二価鉄が過酸化水素と反応すると、Fenton反応によって反応性の高い活性酸素種が生じます。
これらはDNA、タンパク質、脂質などを傷害します。
人間にも微生物にも必要でありながら、過剰であれば毒性を示すため、生体内の鉄は厳密に管理されています。
さらに、鉄は環境条件によって性質を変えます。
二価鉄は比較的水へ溶けやすい一方、酸素のある中性付近の環境では三価鉄へ酸化され、溶けにくくなります。
pHが低ければ鉄は溶けやすくなり、pHが高くなると沈殿しやすくなります。
酢酸やクエン酸などの有機酸は、鉄と結合して溶解性を変えます。
タンニンやほかのポリフェノールは、鉄を強く結合して錯体を形成します。
つまり、お歯黒では、鉄が歯面へ供給されると同時に、タンニンによって捕捉されてもいた可能性があります。
タンニンは鉄を口腔内へ運ぶ材料である一方、鉄を微生物が利用しにくい状態へ変える物質でもあり得ます。
お歯黒によって歯面の総鉄量が増えたとしても、その鉄の大部分が強固な錯体へ取り込まれていれば、M. oralisが利用できたとは限りません。
反対に、唾液、酸、微生物が作る代謝産物、pHの変化、還元反応などによって、錯体から一部の鉄が徐々に動員された可能性もあります。
お歯黒は、一回塗って終わるものでもありませんでした。
日常的に塗り重ねることで、
- 新しい鉄化合物が繰り返し供給される
- タンニンが継続して供給される
- 歯面のpHや酸化還元状態が変わる
- バイオフィルムの付着面が変化する
- 歯面の濡れやすさや表面性状が変化する
- 特定の微生物が繰り返し選択される
という慢性的な環境変化が生じた可能性があります。
単回の金水塗布による一時的な抗菌効果と、数年、数十年にわたり塗布を繰り返した人のマイクロバイオームは、別の問題です。
2026年研究が提起したのは、後者の可能性です。
お歯黒の材料が一時的に細菌を殺したかという話ではなく、鉄、タンニン、酸、歯面被膜が作る環境の中で、どの微生物系統が長期的に残りやすかったのかという問いです。
タンニンにも、複数の作用が考えられます
タンニンは、鉄と結合するだけではありません。
タンニン酸を用いた実験では、細菌の増殖抑制、組織や表面への付着阻害、細胞表層への影響、コラーゲン分解の抑制などが報告されています。
しかし、これらの結果を、そのまま江戸時代のお歯黒へ当てはめることはできません。
実験で用いられたタンニン酸の濃度と、五倍子粉から歯面へ供給されたタンニンの濃度は同じではありません。
精製されたタンニン酸と、実際の五倍子や茶に含まれる複数のポリフェノールも同一ではありません。
一種類の細菌へ作用させる実験と、数百種の微生物が共存する口腔バイオフィルムでも、結果は異なります。
タンニンが一部の菌を抑えると、空いた生態的な場所を別の菌が占める可能性があります。
鉄を必要とする菌を抑えながら、鉄要求量の少ない菌を相対的に増やすこともあり得ます。
タンパク質と結合すれば、唾液ペリクルや細菌の付着状態を変える可能性もあります。
したがって、お歯黒の微生物学的影響は、
鉄が増えたからM. oralisが増えた
という一直線の関係では説明できません。
実際には、
鉄、タンニン、酸化還元状態、pH、唾液、歯周炎、宿主タンパク質、ほかの微生物
が同時に関係する、複雑な生態系だったと考える必要があります。
重要なのは「総鉄量」ではなく、「利用可能な鉄」です
鉄と微生物の関係を考えるとき、鉄の総量だけでは十分な説明になりません。
生物が実際に取り込み、代謝へ利用できる鉄を、bioavailable iron、利用可能な鉄と呼びます。
同じ量の鉄が存在していても、
- 水へ溶けているか
- 二価鉄か三価鉄か
- タンニンと結合しているか
- タンパク質と結合しているか
- ヘムの形で存在するか
- pHがどの程度か
- 酸素が存在するか
- 微生物が対応する獲得機構を持つか
によって、利用可能性は大きく変わります。
微生物は鉄を獲得するために、さまざまな仕組みを持っています。
鉄を強く捕まえるシデロフォアを分泌する細菌もいれば、ほかの微生物が作ったシデロフォアを利用するものもいます。
二価鉄を取り込む輸送系、三価鉄錯体を取り込む輸送系、ヘムを利用する仕組みなどもあります。
一方、宿主である人間は、微生物へ鉄を簡単に渡さないようにします。
宿主が鉄、亜鉛、マンガンなどの栄養金属を結合・隔離し、微生物の増殖を制限する防御機構は、栄養免疫と呼ばれます。
鉄をめぐる関係は、「宿主対病原菌」だけではありません。
健康時に共存している常在微生物同士も、限られた鉄を取り合います。
炎症が起きれば、宿主の鉄結合タンパク質が増え、鉄を獲得できる微生物と、獲得できない微生物の差が広がる可能性があります。
逆に、出血によってヘモグロビンやヘムが供給されれば、それを利用できる微生物が有利になる可能性もあります。
鉄は、単なる栄養ではありません。
微生物群集の構成を決め得る競争資源です。
宿主が鉄結合タンパク質や金属輸送系によって微生物へ利用可能な鉄を制限する仕組みは、感染防御だけでなく、常在微生物群集の構成にも関係すると考えられています。


口腔内では、ラクトフェリンが鉄を隠しています
口腔内で鉄の利用可能性を考えるとき、重要になる宿主タンパク質の一つがラクトフェリンです。
ラクトフェリンは、母乳に多く含まれることで知られていますが、唾液、涙、鼻汁、歯肉溝滲出液などにも存在します。
好中球にも多く含まれ、炎症部位では、好中球の脱顆粒によって局所へ放出されます。
ラクトフェリンは三価鉄へ強く結合します。
鉄を捕捉して微生物が利用しにくくすることに加えて、一部の微生物に対しては細胞表層へ作用し、膜構造やバイオフィルム形成へ影響することも報告されています。
基本的には、
ラクトフェリンが鉄を結合する
微生物が自由に利用できる鉄が減る
という働きがあります。
しかし、口腔内ではこれも単純ではありません。
歯周炎が起きると、ラクトフェリンは減るのではなく、むしろ増えることがあります。
木村江美子らが2001年に報告した研究では、唾液中ラクトフェリン濃度は、
- 健常者:7.72±3.74μg/mL
- 歯周病患者:25.42±14.25μg/mL
- 無歯顎患者:9.47±5.48μg/mL
でした。
歯周病患者の唾液中ラクトフェリン濃度は、健常者より有意に高い値を示しました。
さらに、唾液中ラクトフェリン濃度は、
- トランスフェリン濃度:r=0.318
- 唾液中白血球数:r=0.483
- プロービングデプス、つまり歯周ポケットの深さ:r=0.582
と正の相関を示しました。
これは、
ラクトフェリンが多いから歯周炎になった
という意味ではありません。
炎症によって好中球が増え、歯肉溝滲出液や血液由来成分が唾液へ流入し、その結果としてラクトフェリンが増えた可能性を示します。
同研究では、歯周病患者の唾液タンパク質分画において、アルブミン分画が濃く確認され、歯肉溝滲出液に由来する血清成分が唾液へ流入した可能性も示されました。
つまり、歯周炎の口腔内では、
- 出血や歯肉溝滲出液によってヘムや鉄を含む成分が増える
- 好中球や唾液由来のラクトフェリンも増える
- トランスフェリンやアルブミンなどのタンパク質も増える
- 微生物側の鉄獲得競争も変化する
という、相反する変化が同時に起きています。
外から鉄が供給される一方で、宿主は鉄を隠そうとする。
炎症が強ければ、鉄の供給源も、鉄を隔離するタンパク質も増える。
微生物の側から見ると、単純な「鉄が多い環境」ではありません。
さまざまな分子に結合した鉄を、どの微生物が利用できるかをめぐる競争が変化した環境です。
歯周病では、出血、口腔乾燥、糖尿病などの全身状態もメインテナンス時に確認する必要があります。
【糖尿病がある方の歯周病メンテナンスで確認する出血・口腔乾燥】

江戸女性の鉄環境は、お歯黒だけでは決まりません
2020年研究に含まれた江戸女性は、全員がお歯黒を行っていたと同時に、全員に歯周病の痕跡が認められました。
そのため、M. oralisが女性で多かったことや、2026年研究でクレードBへ集まったことを考える際には、少なくとも二つの鉄供給経路を考える必要があります。
一つは、お歯黒から供給される外因性の鉄です。
もう一つは、歯周炎、出血、歯肉溝滲出液から供給される宿主由来の鉄やヘムです。
さらに、それらをラクトフェリンやトランスフェリンが捕捉します。
したがって、考えるべき経路は、
お歯黒の鉄
↓
M. oralis
ではありません。
より現実的には、
お歯黒から供給された鉄とタンニン
+
歯周炎による歯肉溝滲出液、出血、ヘム
+
ラクトフェリン、トランスフェリンなどの鉄結合タンパク質
+
pH、酸素濃度、ほかの微生物の代謝
↓
実際に利用可能な鉄と水素の量
↓
M. oralisを含む微生物間競争と系統選択
というモデルです。
このモデルであれば、2026年論文が提示した二つの仮説も理解しやすくなります。
クレードBのMvh系が、特定の鉄環境で効率よく働いた可能性があります。
反対に、クレードBのMvh系が本来は不利であっても、鉄や水素が十分に供給される環境では排除されずに残れた可能性があります。
しかし、その鉄環境が、お歯黒によって作られたのか、歯周炎によって作られたのか、両方が関係したのかは、現在の資料だけでは分けられません。
小児のブラックステインは、現代のお歯黒なのでしょうか
現代の歯科診療で「黒い歯面」と聞いたとき、多くの歯科医師や歯科衛生士が思い浮かべるものの一つに、ブラックステインがあります。
ブラックステインは、特に小児で見られる外因性の黒色着色です。
歯頸部付近に、歯肉縁と平行な黒い線や点として付着することが多く、通常の歯磨きでは落ちにくいことがあります。
専門的に除去しても、再び形成されることがあります。
見た目だけを見れば、お歯黒と似ている部分があります。
どちらも歯面が黒くなり、鉄が研究上のキーワードになります。
しかし、ブラックステインとお歯黒は同じものではありません。
お歯黒は、人が意図的に鉄液と植物タンニンを歯へ塗る文化的習慣です。
ブラックステインは、人が黒くするために材料を塗るものではありません。
唾液、歯肉溝滲出液、細菌性バイオフィルム、石灰化、金属元素などが関係して、自然に形成される外因性の着色です。
お歯黒では、鉄―タンニン錯体が黒色形成の中心と考えられます。
ブラックステインでは、細菌が作る硫化水素と、唾液や歯肉溝滲出液中の鉄が反応し、硫化鉄などの黒色物質を作るという説が古くから提案されてきました。
ただし、この硫化鉄説も完全に証明されたわけではありません。
ブラックステインは、
- 黒色色素
- 石灰化したプラーク
- 有機物
- 硫黄
- 微量金属
- 特徴的な細菌群集
が組み合わさった現象と考えられます。
両者を同一視することはできませんが、
鉄を含む黒い歯面環境と、そこに成立する微生物群集
という比較の視点は、江戸時代のお歯黒を考えるうえで参考になります。
口臭の原因物質にも、細菌が産生する硫化水素などの揮発性硫黄化合物があります。
ただし、口臭とブラックステインを同じ現象と考えることはできず、共通するのは硫黄代謝という一部の要素です。


ブラックステインのプラークでは、鉄輸送関連機能が多いと予測されました
2022年に発表された中国・上海の研究では、3~4歳の就学前児250人を調査し、31人、12.4%にブラックステインが認められました。
ブラックステインがあった子どもでは、平均13.7本の歯に着色が見られました。
また、ブラックステイン群では対照群よりも、
- 可視プラーク指数
- dmft、乳歯のう蝕経験歯数
- dmfs、乳歯のう蝕経験歯面数
が低い値を示しました。
微生物解析では、ブラックステインがある子どもの中から、う蝕がなく、プラーク量も少ない21人を選び、ブラックステイン部位、非着色部位、唾液を採取しました。
対照群では、年齢、性別、幼稚園を対応させた48人から、プラークと唾液を採取しました。
ブラックステイン部位のプラークでは、対照プラークよりもOTU、DNA配列の類似性によってまとめた微生物の分類単位の種類は多い一方、均等性は低く、特定の微生物が偏って存在する群集構造が示されました。
ブラックステイン部位では、
- Pseudomonas fluorescens
- Leptotrichia sp. HMT 212
- Actinomyces sp. HMT 169
- Aggregatibacter sp. HMT 898
などが特徴的な微生物として挙げられています。
さらに研究者たちは、16S rRNA遺伝子の菌種構成から、それぞれの微生物群集が持つ可能性のある遺伝子機能をPICRUStで推定しました。
その結果、ブラックステイン部位のプラークでは、
- ferric iron関連
- iron complex transport system
- iron(III)transport system
に関わる機能が多いと予測されました。
鉄錯体外膜受容体、鉄錯体輸送系の基質結合タンパク質、透過酵素、ATP結合タンパク質などの予測値も高くなっていました。
一見すると、
ブラックステインでは、鉄を取り込む細菌が増えている
と解釈したくなります。
しかし、この結果にも重要な制限があります。
PICRUStは、実際にすべての遺伝子をショットガン・メタゲノム解析で直接読んだものではありません。
16S rRNA配列から菌種を推定し、近縁菌の既知ゲノム情報を使って、どのような機能遺伝子を持つ可能性があるかを予測する方法です。
したがって、
ブラックステイン部位で鉄輸送遺伝子が実際に多く発現していた
ことを証明したわけではありません。
さらに、この研究ではブラックステインのプラークや唾液に含まれる鉄濃度を測定していません。
鉄の量と、鉄輸送関連機能の予測値との相関も調べていません。
なお、唾液ではプラークと同じ傾向は認められませんでした。
鉄錯体輸送や三価鉄輸送に関する予測機能は、対照群と同程度、あるいは対照群の方が多い項目もありました。
したがって、この結果はブラックステイン児の口腔内全体の特徴というより、黒色着色が形成された局所プラークの特徴として読む必要があります。
研究者自身も、鉄が菌叢を変えたのか、菌叢が鉄化合物を作ったのか、食事や唾液など別の因子が両方へ影響したのかは分からないとしています。
それでも、黒い歯面バイオフィルムで、鉄の輸送や代謝に関係する機能が目立ったという結果は興味深いものです。
2026年のお歯黒研究では、M. oralisのクレードBに、鉄を含む酵素系と関係し得る遺伝子置換が見つかりました。
現代のブラックステイン研究では、黒色プラークで鉄輸送関連機能が多いと予測されました。
両者は同じ現象ではありません。
しかし、
黒色歯面
鉄
微生物群集
鉄獲得・鉄依存代謝
という共通の研究軸が見えてきます。

ブラックステイン研究は、採取器具の重要性も教えてくれます
ブラックステインに、本当に鉄が含まれているかを調べる研究は簡単ではありません。
試料が非常に少なく、歯面へ薄く付着しているためです。
さらに、金属製のスケーラーやキュレットで試料を採取すれば、器具自体から鉄やほかの金属が混入する可能性があります。
2013年の研究では、金属製器具で採取した試料では金属元素が検出された一方、グラファイト製器具を用いた試料では同様の金属元素が確認されず、過去の分析結果へ器具由来の汚染が含まれていた可能性が指摘されました。
そのため、2022年のブラックステイン研究では、金属イオンの混入を避けるため、滅菌したカーボン製キュレットで試料を採取しています。
一方、1998年に抜去歯へ付着した着色物を波長分散型X線分析で調べた研究では、着色物は高度に石灰化し、有機物を多く含み、鉄と銅は微量ながら硫黄と同じ領域に集中していたと報告されています。
研究者は、硫黄と金属イオンからなる複合体が、黒色形成へ関係した可能性を考察しました。
これらの研究は、単純に矛盾しているとは限りません。
歯面へ付着した黒色層を直接分析することと、器具で削り取った微量試料を分析することでは、測定対象が異なります。
黒色着色の一部に微量の鉄が局在していても、採取した試料全体では検出限界を下回る可能性があります。
逆に、わずかな器具由来金属でも、微量分析では大きな影響を与えます。
ここから分かるのは、
黒いから鉄が大量に含まれている
鉄が検出されたから鉄が黒色の主成分である
とは、簡単に言えないということです。
鉄が黒色形成の触媒や局所成分として働いているのかもしれません。
硫黄、銅、有機物、リン酸カルシウム、微生物由来色素などが組み合わさって黒く見えている可能性もあります。
分析方法、試料採取法、測定対象を区別して読む必要があります。
これは、お歯黒の研究にもそのまま当てはまります。
江戸時代人の歯面に鉄が検出されたとしても、それだけで生前のバイオフィルム内に利用可能な鉄が多かったとは言えません。
逆に、現存する歯面から鉄があまり検出されなかったとしても、生前に何度も鉄液を塗っていたことを否定するものではありません。

「黒い歯は虫歯になりにくい」は本当でしょうか
お歯黒には古くから、
- 虫歯を防ぐ
- 歯を強くする
- 歯周病を防ぐ
という言い伝えがあります。
ブラックステインの子どもに、う蝕経験が少ないという報告も複数存在します。
2022年研究でも、ブラックステイン群のdmft、dmfs、可視プラーク指数は、対照群より低い値を示しました。
しかし、
黒色物質が歯を覆ったから虫歯にならなかった
と結論することはできません。
ブラックステインがある子どもでは、着色を気にした保護者が歯磨きや定期受診へ注意していた可能性があります。
フッ化物使用、砂糖摂取、唾液量、唾液pH、カルシウム・リン酸濃度、鉄補充、家庭の健康意識なども関係します。
ブラックステインができやすい微生物群集が、酸を作りにくい構成だった可能性もあります。
反対に、う蝕が多く、酸性に傾いた口腔環境では、ブラックステインが形成されにくかった可能性もあります。
つまり、
ブラックステインが虫歯を減らした
だけではなく、
虫歯が少ない口腔環境だからブラックステインが形成された
という、逆方向の因果関係も考えられます。
両方へ第三の因子が影響している可能性もあります。
お歯黒についても同様です。
鉄―タンニン被膜が酸を遮断した可能性、タンニンが細菌の付着や酵素を抑えた可能性、鉄化合物が微生物へ影響した可能性はあります。
しかし、現在入手できる歴史資料や微生物研究だけで、お歯黒にう蝕予防効果があったと断定することはできません。
さらに、2020年研究でお歯黒の痕跡があった江戸女性は、全員に歯周病の痕跡が認められました。
もちろん、対象者は5人だけであり、お歯黒が歯周病を起こしたことを示すものではありません。
しかし、
お歯黒をしていたから口腔内全体が健康だった
という物語を支持する結果でもありません。
う蝕と歯周病は別の疾患です。
ある材料がエナメル質の脱灰を抑えたとしても、歯周ポケット内の炎症や歯槽骨吸収を防ぐとは限りません。
反対に、歯周病があっても、う蝕が少ない人は存在します。
黒い歯を、健康の象徴とも病気の象徴とも決めつけないことが重要です。

石川純先生らの古い研究を、どう扱うべきでしょうか
日本では1960年代から、お歯黒と歯質の関係を検討する研究が行われていました。
石川純先生による「お歯黒の歯牙エナメル質に及ぼす影響」という1968年の論文も、文献データベースには記録されています。
しかし現在、本文を容易に確認できる状態ではありません。
題名や後世の引用だけから、
- お歯黒がエナメル質へ深く浸透した
- 酸抵抗性を確実に高めた
- う蝕を予防した
- 歯周病を予防した
と、具体的な実験結果を復元することはできません。
研究史として、
昭和期の日本でも、お歯黒の歯質への影響が研究対象になっていた
と述べることはできます。
しかし、実験方法、対照群、材料濃度、評価方法を確認できない以上、現代の科学的根拠として具体的な効果を断定するためには使えません。
失われかけた古い研究を尊重することと、確認できない結果を都合よく引用することは別です。
今回のテーマでは、2020年と2026年の古代DNA研究を中心とし、お歯黒のう蝕予防効果は未確定として扱うのが妥当です。
お歯黒の発想は、フッ化ジアンミン銀へ受け継がれました
お歯黒と現代歯科をつなぐ興味深い歴史として、フッ化ジアンミン銀、SDFの開発があります。
銀硝酸は、古くから殺菌作用を持つ薬剤として歯科で利用されてきました。
一方、フッ化物には、歯質の脱灰を抑え、再石灰化を促進する働きがあります。
大阪大学の山賀禮一先生は、お歯黒という歯面塗布の発想と、銀硝酸・フッ化物のう蝕抑制作用を組み合わせ、銀とフッ化物を用いたう蝕管理法を発展させました。
銀フッ化物は不安定であったため、アンモニアを加えて安定化し、フッ化ジアンミン銀が作られたとされています。
ここで、お歯黒とSDFを同じものだと考えてはいけません。
お歯黒は、鉄と植物タンニンを中心とする文化的な歯面黒染です。
SDFは、銀イオンとフッ化物イオンを利用する医薬品です。
SDFでは、銀による抗菌作用、細菌酵素や象牙質分解酵素への作用、フッ化物による再石灰化、反応生成物の形成、象牙細管の封鎖など、複数の作用が考えられています。
SDFを塗布した活動性う蝕が黒く硬くなることは、お歯黒による歯面黒染とは異なる現象です。
2022年の日本人歯科医師を対象とした調査では、SDFの利点として、簡便、短時間、非侵襲的、疼痛が少ない、低コストといった点が評価されました。
一方、歯が黒くなることは最大の欠点の一つと考えられていました。
回答した歯科医師60人のうち、51人、85%が、歯の黒変を審美的な欠点として挙げています。
江戸時代には、均一に黒く染まった歯が、美、成熟、婚姻、身分を示すことがありました。
現代では、SDFによる黒変が治療の受け入れを妨げます。
同じ「歯が黒くなる」という現象でも、文化によって価値が逆転しています。
お歯黒からSDFへのつながりは、材料や作用機序が同じという意味ではありません。
歯面へ薬液を塗布し、金属の作用によって歯を守ろうとする発想が、異なる材料と科学的根拠を得て現代歯科へ受け継がれたという、研究史上のつながりです。

お歯黒がM. oralisを変えたとは、まだ証明されていません
ここまでの話を整理すると、非常に魅力的な仮説が浮かび上がります。
江戸女性はお歯黒をしていた。
お歯黒には鉄とタンニンが含まれていた。
江戸女性の歯石では、M. oralisが多い傾向を示した。
M. oralisは二つのクレードに分かれた。
お歯黒痕跡のある女性は、すべてクレードBに属した。
クレードBには、鉄を含むメタン生成酵素系に関係し得るmvhA・mvhBの置換があった。
これらの事実だけを順に並べれば、
お歯黒による鉄環境が、M. oralisクレードBを選択した
という説明は十分に考えられます。
しかし、現在の研究から因果関係を証明するには、いくつもの空白があります。
第一に、すべての検体で、お歯黒の有無が同じ方法によって評価されていません。
お歯黒痕跡が確認された女性がクレードBだったことは示されましたが、クレードBの全員がお歯黒を行っていたとは分かりません。
クレードAの女性に、お歯黒の痕跡が本当になかったかも、統一的には確認されていません。
第二に、お歯黒と性別を分離できません。
江戸時代のお歯黒は、成人女性や既婚女性と強く結びついた習慣でした。
クレードBが多かった理由が、お歯黒なのか、性別に関連する生活環境なのか、婚姻後の居住や微生物伝播なのかを区別できません。
第三に、歯周病の影響があります。
2020年のお歯黒女性は、全員に歯周病所見がありました。
M. oralisは歯周炎との関連が報告される古細菌です。
嫌気的な歯周ポケット、水素を産生する細菌、出血、ヘム、歯肉溝滲出液が、クレード分布へ影響した可能性があります。
第四に、地域や共同体の影響があります。
2026年研究では、一橋高校遺跡の11検体が、すべて同じクレードに入っていました。
性別ではなく、地域的な伝播、血縁、生活圏がクレードを分けていた可能性もあります。
第五に、mvhA・mvhBの置換が、実際に酵素機能を変えるかが分かっていません。
水素消費量、メタン生成量、鉄濃度別の増殖、鉄硫黄クラスター形成は測定されていません。
第六に、お歯黒歯面の鉄環境が測定されていません。
歯面に残った総鉄量だけでなく、
- 二価鉄と三価鉄の比率
- タンニンとの結合状態
- 溶出可能な鉄
- 微生物が利用可能な鉄
- pH
- 酸化還元状態
を測る必要があります。
第七に、二つのクレードは、江戸時代よりはるか前に分岐した可能性があります。
したがって、お歯黒がクレードBを新しく誕生させたとは考えにくく、影響があったとしても、すでに存在していた系統を選び分けたと考えるべきです。
2026年論文の著者たちも、クレードBが鉄の豊富な環境でエネルギー上の利点を得た可能性と、本来は代謝的に不利なクレードBが、鉄の豊富な環境によって存続できた可能性の両方を示しています。
著者自身が反対方向の仮説を示していることは、機能がまだ分からないことの表れです。
この論文の価値は、最終的な答えを出したことではありません。
文化、微生物系統、遺伝子変異、金属代謝を、一つの検証可能な問いとして結びつけたことにあります。
次に必要なのは、金水を実際に使った実験です
2020年論文はすでに、金水を用いたin vitro研究が必要だと提案していました。
2026年論文によって、調べるべき対象はさらに具体的になりました。
単に、
金水に抗菌作用があるか
を調べるだけでは不十分です。
本当に検証すべきなのは、
金水が口腔バイオフィルムの生態をどう変えるのか
その環境でM. oralisのクレード差が機能的な意味を持つのか
という問題です。
金水そのものを化学的に定義する
歴史的なお歯黒には、統一された一つの処方があったわけではありません。
複数の歴史的処方を再現し、
- pH
- 総鉄量
- 二価鉄・三価鉄
- 溶解鉄
- タンニン量
- ポリフェノール組成
- 酢酸などの有機酸
- 時間経過による変化
を測定する必要があります。
総鉄量だけではなく、微生物が利用できる可能性のある可動性鉄も測定する必要があります。
鉄液と五倍子粉を混ぜた直後、歯面へ塗布したあと、唾液へ浸したあとで、利用可能な鉄がどう変化するかを追うべきです。
ハイドロキシアパタイト板や抜去歯へ塗布し、Raman分光、XRF、FTIR、XPS、SEM-EDS、表面粗さ測定、接触角測定などを組み合わせれば、どのような被膜が形成されるかを調べられます。
ただし、実際の古人骨や文化財試料を分析する場合には、まず非破壊的なXRFやRamanを優先し、貴重な資料を推測のために破壊してはなりません。
鉄とタンニンを分けて比較する
金水をそのままバイオフィルムへ加えただけでは、何が作用したのか分かりません。
少なくとも、
- 鉄液単独
- タンニン単独
- 鉄液+タンニン
- pHだけを同じにした対照
- 酢酸だけの対照
- 茶や植物抽出物だけの対照
- 無処置対照
を比較する必要があります。
さらに、単回塗布と反復塗布を分けなければなりません。
お歯黒は、一度の薬剤処理ではなく、生活の中で塗り続ける習慣でした。
毎日、あるいは数日ごとに塗布したとき、バイオフィルムがどのように適応するかを追う必要があります。
一種類の菌ではなく、多菌種バイオフィルムで調べる
M. oralisは、周囲の細菌が作る水素を利用し、代謝的に依存している可能性があります。
したがって、M. oralisだけを純粋培養して鉄を加える実験では、江戸時代の口腔環境を再現できません。
唾液由来の多菌種バイオフィルム、あるいは構成菌を定義した合成バイオフィルムを使い、
- Streptococcus
- Actinomyces
- Fusobacterium
- Prevotella
- Porphyromonas
- Veillonella
- M. oralis
などが共存する系を作る必要があります。
そこで、菌種構成、M. oralisの相対量、水素濃度、メタン生成量、pH、バイオフィルム量、石灰化、鉄の取り込み、遺伝子発現、代謝物などを、時間経過とともに測定します。
16S rRNA解析だけでなく、ショットガン・メタゲノム、メタトランスクリプトーム、メタボロームを組み合わせれば、
菌が増えたのか
菌の量は同じでも代謝が変わったのか
を区別できます。
健康な口腔環境と歯周炎環境を分ける
江戸女性では、お歯黒と歯周病が重なっていました。
そのため培養実験でも、
- 健康な唾液・プラークを模した条件
- 歯周炎を模した嫌気性条件
- 歯肉溝滲出液を加えた条件
- ヘモグロビンやヘムを加えた条件
- ラクトフェリンを加えた条件
- ラクトフェリンとヘムの両方を加えた条件
を比較する必要があります。
総鉄量が同じでも、ラクトフェリン結合鉄、タンニン結合鉄、ヘム鉄では、利用できる微生物が異なります。
M. oralisクレードBが本当に有利になるのであれば、どの鉄形態、どのpH、どの水素濃度で差が出るのかを特定しなければなりません。
古代クレードそのものは培養できない
古代歯石から得られたのはDNAです。
数百年前のM. oralisクレードA・Bを、生きたまま培養できるわけではありません。
したがって、遺伝子機能を調べるには、別の方法が必要です。
現代のM. oralis分離株を基礎にして、クレードBに見つかったmvhA・mvhBの置換を導入する方法が考えられます。
あるいは、MvhA・MvhBの組換えタンパク質を作り、
- 酵素活性
- 金属補因子の取り込み
- 電子伝達効率
- タンパク質安定性
- 複合体形成
- pHや温度への耐性
を比較できます。
クレードA型からクレードB型へ一か所ずつ置換し、どの変異が機能差へ寄与するかを調べる必要があります。
mvhBの173番目と372番目はクレードBに特有でしたが、二つの置換を同時に持つ場合と、片方だけの場合で効果が異なる可能性があります。
考古資料側でも、比較対象を揃える
将来の古人骨研究では、単に検体数を増やすだけでなく、交絡因子を揃える必要があります。
理想的には、同じ墓地、同じ時代、近い年齢、同程度の歯周病、同じ歯種、同じ歯肉縁上・縁下部位の中で、
- お歯黒がある女性
- お歯黒がない女性
- お歯黒がある男性
- お歯黒がない男性
を比較します。
江戸時代に、男性のお歯黒が完全になかったわけではありません。
時代や階層によっては、男性もお歯黒を行っていました。
そのような検体が見つかれば、「女性」と「お歯黒」を分けて検討できる可能性があります。
肉眼的な黒色だけでなく、XRF、Ramanなどの非破壊分析で残留鉄や鉄―タンニン錯体の可能性を評価し、同じ基準でお歯黒の有無を判定する必要があります。


文化は微生物へ突然変異を命じるわけではありません
「文化が微生物を進化させる」という表現は、魅力的である一方、誤解を招きやすい表現です。
お歯黒という文化が、
M. oralisのこの位置を変異させよう
と、遺伝子へ指示するわけではありません。
突然変異は、DNA複製時のエラー、DNA損傷、組換えなどによって生じます。
文化が変える可能性があるのは、その変異が生じることそのものよりも、変異を持った系統が残りやすい環境かどうかです。
ある系統が偶然持っていた遺伝的特徴が、鉄、タンニン、水素、pH、歯周炎、宿主免疫と組み合わさったときに有利であれば、その系統は増えたり、長く維持されたりします。
反対に、通常の環境では不利な系統でも、文化によって作られた特殊な環境では、排除されずに残ることがあります。
お歯黒が関係していたとすれば、それは新しい系統を一から作ったというよりも、
すでに存在していた微生物の多様性へ、異なる生態学的フィルターをかけた
と考えるべきでしょう。
人は文化を作ります。
文化は、人が何を食べるか、何を歯へ塗るか、どのように清掃するか、誰と生活するかを変えます。
それによって、口腔内の栄養、pH、酸素、金属、植物成分、宿主免疫、微生物伝播が変わります。
その環境の中で、微生物もまた選ばれていきます。

歯石に封じ込められていたのは、微生物だけではありません
歯科診療では、歯石は取り除く対象です。
表面に細菌性バイオフィルムを保持し、歯周治療の妨げになるからです。
しかし、江戸時代の歯に残った歯石は、数百年後の私たちへ、当時の口腔内で起きていたことを伝えました。
そこには、
- 歯周病に関連する微生物
- 古代特有の微生物系統
- 人の移動や地域差
- 宿主の生活環境
- お歯黒という文化
の痕跡が残されていました。
2020年の研究は、江戸女性の歯石でM. oralisが多い傾向を見つけ、お歯黒による鉄とタンニンの影響を仮説として示しました。
2026年の研究は、検体数を大きく広げ、M. oralisの内部に二つのクレードを見つけました。
お歯黒痕跡が確認された女性は同じクレードBへ入り、そのクレードには、鉄を必要とするメタン生成系と関係し得る遺伝子置換がありました。
しかし、お歯黒がクレードBを選択したという因果関係は、まだ証明されていません。
そのために必要なのは、さらに大きな統計解析だけではありません。
金水を再現し、鉄の化学状態を測り、宿主タンパク質を加え、多菌種バイオフィルムを作り、Mvh系の機能を実験する必要があります。
考古学、微生物学、歯周病学、材料科学、分析化学、文化史が交わらなければ、答えには近づけません。
それでも、今回の研究が開いた問いには、大きな意味があります。
人間と微生物の関係は、病原菌と感染症だけではありません。
私たちが毎日何を食べ、何を塗り、どのように暮らすかが、体内外の微生物へ生存条件を与えています。
その影響は、一人の口腔内で終わらず、家族や共同体を通じて広がり、長い時間の中で特定の系統を残す可能性があります。
江戸時代の女性たちは、数百年後に自分の歯石がゲノム解析されるとは、想像していなかったでしょう。
美しさ、婚姻、身分、習慣のために歯へ塗った黒い材料が、目に見えない微生物の世界へ、どのような影響を与えたのかも知る由はありませんでした。
人は、歯石を歴史資料として残そうとして生きていたわけではありません。
それでも歯石は、人の暮らしを記憶していました。
そこに封じ込められていたのは、単なる微生物のDNAではありません。
人が何を美しいと考え、歯へ何を塗り、どのような環境で生きたのかという、文化そのものです。
人が文化を作り、文化が口腔環境を変え、その環境の中で微生物もまた選ばれていく。
江戸時代の歯石は、文化と微生物の進化が決して別々の歴史ではないことを、数百年の沈黙を越えて、私たちへ伝えています。
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