2026年6月27日

下顎臼歯部・不可逆性歯髄炎・アルチカイン補助浸潤を、臨床判断として整理する

はじめに:局所麻酔不奏効を「薬剤名」だけで考えない
歯科臨床で、局所麻酔が思うように効かない場面は決して珍しくありません。
下顎大臼歯の抜髄を始めたところで患者さんが強い痛みを訴える。下唇は十分にしびれているのに、髄腔開拡や根管口探索で痛みが残る。急性症状の強い歯で浸潤麻酔を追加しても、期待したほど痛みが取れない。あるいは、同じ麻酔量、同じ術式であっても、患者さんによって反応が大きく違う。
このような場面に遭遇すると、臨床ではつい「リドカインが効かなかった」「セプトカインなら効くかもしれない」「この患者さんは痛がりなのかもしれない」といった言葉で整理したくなります。しかし、局所麻酔が効きにくい症例を、麻酔薬の強弱だけで考えると、臨床判断を誤ります。
局所麻酔の不奏効は、単一の原因で起こるというより、複数の要因が重なって起こります。薬液が目的部位へ届いていない場合もあります。薬液は届いていても、炎症により神経の反応性が変化している場合もあります。通常想定している神経支配とは異なる副支配が関与していることもあります。さらに、過去の疼痛体験や強い不安によって、同じ侵襲でも痛みとして増幅されることもあります。
つまり、「麻酔が効かない」という現象は、少なくとも次の5つの層に分けて考える必要があります。
1つ目は、術者側・手技側の問題です。刺入点、刺入深度、骨接触、吸引、注入速度、投与量、待機時間、薬液の保存状態などです。2つ目は、解剖学的な問題です。下顎孔の位置、顎舌骨筋神経、二分下顎管、臼後孔、反対側切歯枝などが関係します。3つ目は、炎症の問題です。低pH、血流増加、炎症性メディエーター、神経感作が絡みます。4つ目は、不安や疼痛感受性の問題です。心理的反応は単なる接遇の話ではなく、麻酔戦略そのものに関わります。5つ目は、薬剤選択の問題です。リドカイン、メピバカイン、アルチカイン、プロピトカイン/プリロカイン、血管収縮薬の選択を、処置内容と患者背景に合わせて考える必要があります。
本稿では、局所麻酔が効きにくい症例を「薬剤名」ではなく、「病態と到達経路」から整理します。特に、下顎臼歯部、症候性不可逆性歯髄炎、いわゆる hot tooth(強い炎症性疼痛歯)、そしてアルチカイン/セプトカインの使いどころについて、歯科医師向けに臨床的に考えていきます。


1. まず術者側の要因を潰す:麻酔薬を変える前に見るべきこと
局所麻酔が効きにくい症例を考えるとき、最初に確認すべきことは、麻酔薬の種類ではありません。まず、効く条件を満たしていたかを確認する必要があります。
これは当たり前のようで、実際には最も見落とされやすい部分です。
局所麻酔薬は、神経膜の電位依存性ナトリウムチャネルを遮断し、活動電位の伝導を抑制することで痛覚伝導を止めます。しかし、その作用が臨床的に成立するためには、薬液が十分な濃度で、十分な時間、対象となる神経周囲に存在する必要があります。
局所麻酔薬の発現と持続には、組織のpH、つまり酸性度、薬剤のpKa、つまり解離定数、針先から神経までの距離、神経周囲から薬液が離れていく速度、神経形態、薬剤濃度、脂溶性などが影響します。つまり、同じカートリッジを使っていても、薬液が目的部位に届いていなければ効きません。届いていても、量が足りなければ効きません。十分な量を入れていても、開始までの待機時間が短ければ、まだ効いていない状態で切削や髄腔開拡を始めている可能性があります。
特に下顎孔伝達麻酔では、「入れたつもり」「骨に当たったつもり」「十分待ったつもり」が起こりやすいと感じます。
下顎枝内側の空間は、目で直接見える場所ではありません。粘膜上の刺入点、反対側小臼歯付近からのシリンジ方向、下顎枝前縁、翼突下顎縫線、咬合平面との関係をもとに、立体的に針先を置きにいく操作です。したがって、手技の再現性は術者の経験に依存します。
下顎孔伝達麻酔が効かないと感じたとき、まず確認したいのは次のような点です。
刺入点は低すぎなかったか。針先は前方すぎなかったか。骨接触を得た位置は適切だったか。骨接触後に針を少し戻して吸引したか。血液の逆流がなかったか。注入速度は速すぎなかったか。薬液量は十分だったか。注入後、十分な待機時間を取ったか。術前の強い炎症や開口障害により、通常のランドマークがずれていなかったか。
同様に、浸潤麻酔でも考えるべきことがあります。
根尖相当部から離れた位置に薬液を置いていないか。骨膜下へ強く入れすぎて患者さんの痛みを増やしていないか。粘膜下に膨隆を作っただけで、骨膜・皮質骨を越える拡散を期待できる位置に置けているか。血管収縮薬を含む薬液の保存状態に問題はないか。炎症部位の中心へ直接注入していないか。
麻酔が効かないときほど、術者は焦ります。焦ると追加投与を急ぎ、同じ部位に同じような麻酔を繰り返しがちです。しかし、それでは原因分析になりません。
局所麻酔不奏効を議論する前に、まず「効く条件を満たしていたか」を確認する必要があります。
これは、術者の責任を責めるという意味ではありません。麻酔が効きにくい症例の中には、どれだけ丁寧に打っても効きにくいものがあります。しかし、その判断に到達するためには、最初に手技要因を除外しておく必要があります。
麻酔薬を変える前に、針先の位置、薬液量、注入速度、待機時間、吸引、患者の姿勢、粘膜の状態を見直す。この順序を飛ばしてしまうと、「本当に薬剤差なのか」「解剖学的問題なのか」「炎症性不奏効なのか」が見えなくなります。

2. 下唇麻痺と歯髄麻酔は同じではない
下顎孔伝達麻酔後に、患者さんの下唇やオトガイ部がしびれている。この時点で、術者は「麻酔は入っている」と判断しがちです。
しかし、ここで注意が必要です。
下唇のしびれは、主にオトガイ神経領域の軟組織麻酔を確認しているに過ぎません。もちろん、下歯槽神経の走行上、下唇麻痺が得られていることは重要な臨床所見です。しかし、下唇麻痺は歯髄麻酔の十分条件ではありません。
実際、下唇はしびれているのに、歯髄処置では痛みが残る症例があります。特に下顎大臼歯の症候性不可逆性歯髄炎では、この現象は珍しくありません。
この「下唇麻痺と歯髄麻酔のズレ」は、臨床上かなり重要です。
まず、下唇麻痺はあくまで末梢側の軟組織領域の確認です。歯髄麻酔は、歯根尖付近から歯髄へ入る神経線維の機能を十分に遮断できているかどうかで決まります。下歯槽神経本幹の一部が麻酔されていても、歯髄に入る線維の遮断が不完全であれば、切削・露髄・髄腔開拡・根管口探索時に痛みが残ります。
次に、歯髄の痛みは閾値が低く、鋭敏です。軟組織のしびれ感が十分でも、歯髄刺激に対して完全な無痛域に達していないことがあります。患者さんの「しびれている」と術者の「歯髄処置ができる」は、必ずしも同義ではありません。
さらに、下顎臼歯部には副神経支配の問題があります。
代表的なのが顎舌骨筋神経です。顎舌骨筋神経は基本的には運動神経として扱われますが、症例によっては下顎歯や周囲軟組織の知覚に関与する可能性が指摘されています。通常の下顎孔伝達麻酔では、顎舌骨筋神経が分岐した後の下歯槽神経を狙うため、この副支配を取り残すことがあります。そのため、下唇がしびれていても、歯の痛みが残るという状況が起こり得ます。
二分下顎管も重要です。下顎管が通常と異なる走行をとる場合、一般的な下顎孔伝達麻酔で想定した位置に薬液を置いても、すべての知覚枝を十分に麻酔できない可能性があります。
臼後孔、いわゆる retromolar foramen、つまり臼後部の副孔も、下顎臼歯部の麻酔不奏効に関係することがあります。臼後部から副神経や血管が進入している場合、通常の下顎孔伝達麻酔だけでは取り残しが生じる可能性があります。
前歯部では、反対側切歯枝の交叉支配も考えます。下顎前歯部で片側の麻酔だけでは十分に効かない場合、反対側からの切歯枝の関与を考慮する必要があります。
また、骨格的な要素も無視できません。下顎後退症例や開口量が少ない症例では、下顎孔の位置や下顎枝の角度、針の進入方向が通常と異なり、一般的なランドマークだけでは針先位置がずれることがあります。
臨床的には、次のように考えるのが実用的です。
下唇がしびれていない場合は、まず下顎孔伝達麻酔そのものが成功していない可能性を考えます。刺入点、深度、薬液量、待機時間を見直します。一方、下唇はしびれているのに歯が痛い場合は、単に「もう一度同じ下顎孔伝達麻酔を足す」だけではなく、歯髄麻酔の不足、副神経支配、炎症性不奏効、補助麻酔の必要性を考えます。
ここを分けないと、追加麻酔の戦略が乱れます。
下唇麻痺がない症例と、下唇麻痺はあるが歯髄痛が残る症例は、同じ「麻酔が効かない」ではありません。前者はブロック不成功の可能性が高く、後者は歯髄麻酔不十分または副支配・炎症性不奏効の可能性があります。


3. 下顎孔伝達麻酔の解剖:なぜ「いつもの位置」で外れるのか
下顎孔伝達麻酔は、日常臨床で頻用される手技です。頻用されるがゆえに、慣れによる油断も起こります。
下顎孔伝達麻酔は、単に「下顎枝の内側に麻酔を入れる」手技ではありません。翼突下顎隙という空間に針先を進め、下歯槽神経が下顎孔へ入る前の位置に薬液を置く手技です。周囲には、下歯槽神経血管束、舌神経、蝶下顎靭帯、内側翼突筋、外側翼突筋、下顎枝、耳下腺などが関係します。
したがって、針先が前方すぎれば、神経に十分届きません。後方すぎれば、耳下腺方向へ入り、顔面神経麻痺を起こす可能性があります。下方すぎれば下顎孔より低くなり、薬液拡散が不十分になります。上方すぎても、狙った空間からずれる可能性があります。
このあたりは、学生時代に習った解剖ではあります。しかし、日常臨床では「なんとなくいつもの位置」で行ってしまうことがあります。効く症例ではそれでも問題が表面化しません。問題は、炎症が強い、開口量が少ない、骨格形態が通常と違う、患者さんが強く緊張している、といった条件が重なったときです。
たとえば、患者さんが十分に開口できていない場合、下歯槽神経と下顎孔周囲の位置関係は術者が想定する状態と変わります。開口量が不十分なまま通常通りの刺入角度で行うと、針先が目的部位からずれます。開口障害がある症例、智歯周囲炎、急性炎症で筋緊張が強い症例では、このズレが起こりやすくなります。
また、骨接触をどう解釈するかも重要です。
骨に当たったから正しい、とは限りません。どの骨に、どの深さで、どの方向から当たったのかが問題です。浅い位置で骨に当たった場合、針先は前方すぎる可能性があります。骨に当たらず深く入りすぎた場合、後方へ進みすぎている可能性があります。そこで無理に注入すれば、耳下腺方向へ薬液が入り、顔面神経麻痺を起こすリスクもあります。
Gow-Gates法、つまり高位下顎神経ブロックや、Vazirani-Akinosi法、つまり閉口法は、この通常法の限界を補う選択肢として位置づけられます。
Gow-Gates法は、下歯槽神経だけでなく、舌神経、顎舌骨筋神経、耳介側頭神経、頬神経などをより高位でまとめて麻酔する考え方です。副支配が疑われる症例では理論的に利点があります。一方で、発現に時間がかかり、術者の習熟度に左右されます。
Vazirani-Akinosi法は、閉口状態で行える伝達麻酔です。開口障害がある症例では有用です。ただし、骨接触を得ない手技であり、これも術者の空間認識が重要です。どちらも「効かないときの魔法の手技」ではありません。通常法の失敗原因を理解したうえで、適応を選ぶ必要があります。
ここで大切なのは、麻酔不奏効を薬剤差だけで語らないことです。
下顎孔伝達麻酔が効かない場合、薬剤が弱いのではなく、薬液が本当に目的空間に置かれていない可能性があります。あるいは、目的空間に置けていても、解剖学的な副支配により歯髄麻酔が不十分な可能性があります。
「いつもの位置で打ったのに効かない」という表現は、臨床的には十分ではありません。専門職としては、「いつもの位置」が、その患者さんにとって本当に適切な位置だったのかを問う必要があります。

4. 炎症歯ではなぜ効きにくいのか:pH低下だけで終わらせない
局所麻酔が炎症部位で効きにくい理由として、最もよく説明されるのはpHの低下です。
局所麻酔薬は、非イオン型、つまり脂溶性の形で神経膜を通過し、神経内でイオン型となってナトリウムチャネルを遮断します。炎症部位では組織が酸性に傾き、非イオン型の割合が低下します。そのため、神経膜を通過しにくくなり、麻酔の発現が遅れたり、不十分になったりします。
しかし、炎症歯で麻酔が効きにくい理由を「pHが低いから」だけで終わらせると不十分です。
炎症では、pH低下に加えて、血流が増加します。血流が増えれば、局所に置いた麻酔薬はその場に留まりにくくなります。いわゆる wash out、つまり血流による薬液の洗い流しが起こりやすくなります。薬液が神経周囲に十分な時間とどまらなければ、必要な濃度に達しにくくなります。
さらに、炎症組織では浮腫が起こります。組織圧が上がり、細胞外環境が変化し、薬液の拡散も均一ではなくなります。炎症が強い部位へ直接注入すると、注入痛も強くなり、患者さんの不安や防御反応をさらに増やすことがあります。
加えて、炎症では神経そのものの反応性が変わります。
プロスタグランジン、ブラジキニン、サイトカイン、神経ペプチドなどの炎症性メディエーターは、侵害受容器を直接刺激したり、閾値を低下させたりします。局所麻酔が不完全な状況では、同じ術中刺激でも、より痛みとして知覚されやすくなります。
つまり、炎症歯では、麻酔薬が届きにくいだけではありません。届いた先の神経が、通常より興奮しやすくなっています。
近年の歯髄痛や炎症性疼痛の議論では、電位依存性ナトリウムチャネル、特にNaV1.7、NaV1.8、NaV1.9などの関与が注目されています。NaVチャネルとは、神経細胞の活動電位発生に関わるナトリウムチャネルです。局所麻酔薬の主な標的もこのチャネルですが、炎症によりチャネル発現や機能が変化すると、神経の興奮性や薬剤感受性が変わる可能性があります。
また、TRPV1やTRPA1といった一過性受容体電位チャネルも、炎症性疼痛の感作に関与します。TRPV1は熱や酸、炎症性メディエーターに反応し、TRPA1は化学刺激や酸化ストレスなどに関与します。こうした受容体が感作されると、通常なら痛みとして強く認識されない刺激も、痛みとして増幅されます。
歯髄炎では、歯髄腔という閉鎖空間の中で炎症が進行します。血流、組織圧、神経線維の密度、硬組織に囲まれているという特殊性が重なります。そのため、単なる粘膜炎症や皮膚炎症とは異なる臨床像をとります。強い自発痛、冷温水痛、咬合痛、拍動痛、夜間痛がある症例では、局所麻酔薬の到達性だけでなく、歯髄神経の感作状態を前提に考える必要があります。
ここで、もう一つ重要なのが中枢性感作です。
中枢性感作とは、末梢からの持続的な痛み入力により、脊髄や三叉神経系の中枢側で痛みの処理が過敏になる状態です。歯科領域で日常的に「中枢性感作」という言葉を前面に出す必要はないかもしれませんが、強い疼痛が続いている患者さんで、局所刺激に対する反応が非常に大きい場合、末梢の歯だけを見ていても説明しきれないことがあります。
臨床的には、炎症歯の麻酔不奏効を次のように整理すると理解しやすいと思います。
まず、低pHにより麻酔薬が神経膜を通過しにくい。次に、血流増加により薬液が局所に留まりにくい。さらに、炎症性メディエーターにより侵害受容器が感作されている。加えて、NaVチャネルやTRPチャネルの反応性が変化している。そして、強い痛みが続けば、中枢側の疼痛処理も過敏になり得る。
この状態で、通常通りの下顎孔伝達麻酔だけで完全な無痛を期待するのは、時に過剰な期待になります。
炎症歯では、麻酔薬が届きにくいだけではなく、届いた先の神経が通常とは違う反応性を持っている。ここを理解しておかないと、「なぜ下唇がしびれているのに痛いのか」「なぜ追加しても効きが悪いのか」が説明できません。


5. hot tooth(強い炎症性疼痛歯)/症候性不可逆性歯髄炎をどう扱うか
歯内療法の臨床で、局所麻酔が最も難しくなる代表が、症候性不可逆性歯髄炎です。
英語圏では hot tooth と呼ばれることがあります。直訳すれば「熱い歯」ですが、臨床的には、強い炎症性疼痛歯、あるいは麻酔が効きにくい急性歯髄炎症例として理解した方が自然です。
症候性不可逆性歯髄炎では、患者さんはすでに強い痛みを持っています。自発痛、冷刺激後の持続痛、咬合痛、夜間痛、鎮痛薬が効きにくい痛みなどを伴うことがあります。この状態では、歯髄の神経が感作され、患者さんの不安も高く、処置に対する警戒も強くなっています。
このような症例では、下顎孔伝達麻酔単独で完全な無痛を得ることが難しくなります。
ただし、ここで「アルチカインなら効く」「補助浸潤をすれば解決する」と読むのは危険です。研究ごとに「麻酔成功」の定義が異なります。痛みがない、軽度の痛みまで許容する、歯髄電気診に反応しない、実際の根管治療中に追加麻酔が不要、など、評価基準に差があります。また、使用薬剤、注入量、補助浸潤の有無、対象歯、術者経験も完全にはそろいません。
したがって、数字だけを取り出して「アルチカインなら効く」「補助浸潤をすれば解決する」と読むのは危険です。むしろ重要なのは、症候性不可逆性歯髄炎では、従来の下顎孔伝達麻酔単独では不十分になりやすく、補助的な麻酔戦略を最初から想定しておく必要があるという点です。
hot toothの症例では、麻酔が効いているかどうかの確認も慎重に行う必要があります。
下唇がしびれているかどうかだけでは不十分です。歯肉や頬粘膜のしびれだけでも不十分です。歯髄処置に入る前に、できれば対象歯の反応、打診、冷刺激の既往、術中刺激への反応を総合的に見ます。
また、歯髄電気診で反応が消失したからといって、実際の髄腔開拡で無痛になるとは限りません。電気刺激と切削刺激、露髄時の圧刺激、髄腔内圧の変化、炎症歯髄への直接刺激は、同じではありません。
臨床的には、症候性不可逆性歯髄炎の下顎大臼歯では、最初から「下顎孔伝達麻酔単独で十分だろう」と考えない方が安全です。
もちろん、全症例で最初から過剰な麻酔を行う必要はありません。しかし、術前痛が強い、冷刺激後の痛みが長く続く、夜間痛がある、根尖部圧痛を伴う、開口量が少ない、強い不安がある、過去に麻酔が効きにくかった既往がある。このような場合は、通常よりも麻酔不奏効の可能性を高く見積もります。
そのうえで、下顎孔伝達麻酔を適切に行い、十分な待機時間を取り、必要に応じて頬側補助浸潤や舌側浸潤、歯根膜内注射、骨内麻酔、歯髄腔内麻酔へ進む準備をしておきます。
重要なのは、痛みが出てから場当たり的に考えるのではなく、術前診断の時点で麻酔戦略を設計しておくことです。
たとえば、急性症状の下顎第一大臼歯で、冷水痛が長く残り、自発痛があり、患者さんが前夜眠れていない。こうした症例で、通常の下顎孔伝達麻酔を行い、下唇麻痺だけを確認してすぐにタービンを当てる。これは、あまり良い設計とは言えません。
十分に待つ。患者さんへ「炎症が強い歯では、途中で追加の麻酔が必要になることがあります」と先に伝える。痛みが出たらすぐ止める合図を決める。必要な補助麻酔を準備しておく。これだけでも、患者さんの不安と術者の焦りはかなり減ります。
hot toothは、単に「麻酔が効きにくい歯」ではありません。単一経路の麻酔では臨床的無痛に届きにくい病態です。炎症性神経感作、下顎臼歯部の解剖、厚い皮質骨、補助神経支配、心理的緊張が重なった状態として扱う必要があります。

6. 追加麻酔の順序:同じことを足すのではなく、到達経路を変える
では、実際の臨床で麻酔が不十分だったとき、どのようにリカバリーすべきでしょうか。
ここで最も避けたいのは、「効かないから、同じ場所に同じ麻酔をもう一度足す」という反応です。もちろん、最初の麻酔量が明らかに不足していた場合や、下唇麻痺が得られていない場合には、再度下顎孔伝達麻酔を行う意味があります。しかし、すでに下唇麻痺があり、十分な待機時間を取っているにもかかわらず歯髄痛が残る場合、同じ経路を繰り返しても臨床的には効率が悪いことがあります。
局所麻酔不奏効に対する追加麻酔は、「量を足す」よりも「到達経路を変える」と考えた方が実践的です。
たとえば、下顎孔伝達麻酔で十分な歯髄麻酔が得られない場合、次の選択肢は症例によって変わります。頬側補助浸潤、舌側浸潤、歯間乳頭部浸潤、歯根膜内注射、骨内麻酔、歯髄腔内麻酔などです。それぞれ、狙っている解剖学的経路と効かせ方が異なります。
最初に確認するのは、下顎孔伝達麻酔そのものが成立しているかです。下唇麻痺がない、オトガイ部のしびれが弱い、舌側軟組織のしびれがほとんどない。このような場合は、まず伝達麻酔の刺入点・深度・針先位置・薬液量・待機時間を再評価します。ここで補助浸潤に進んでも、主経路が不十分なままでは、結果が安定しません。
一方、下唇麻痺は明らかにある。それでも対象歯の髄腔開拡や根管口探索で痛みが残る。この場合は、歯髄麻酔の不足、炎症性不奏効、副神経支配を疑います。この場面で有効になりやすいのが、頬側補助浸潤です。
特に下顎臼歯部では、従来、浸潤麻酔は下顎骨の厚い皮質骨に遮られて効きにくいと考えられてきました。しかし、アルチカインのように組織浸透性が期待される薬剤が登場したことで、下顎臼歯部への頬側補助浸潤は実践的な選択肢になっています。
ただし、ここでも「アルチカインなら何でも効く」という話ではありません。頬側補助浸潤は、頬側皮質骨を越えて根尖周囲に薬液を届ける発想です。歯根の位置、骨幅、根尖位置、炎症の程度、薬液量、待機時間によって結果は変わります。特に第二大臼歯遠心や根尖が舌側寄りにある症例では、頬側だけで十分かどうかを考える必要があります。
舌側浸潤も、ときに有効です。下顎臼歯部では、舌側皮質骨や舌側軟組織を介した補助的な薬液到達が意味を持つことがあります。頬側補助浸潤だけでは不十分な場合、舌側からの補助浸潤を追加することで、根尖周囲の薬液濃度を高められる可能性があります。ただし、舌側は痛みを伴いやすく、舌神経の位置にも注意が必要です。乱暴に行うべきではありません。
歯間乳頭部浸潤や歯間中隔内注射は、歯根膜や海綿骨側への薬液到達を狙う補助手段として考えられます。根尖相当部への浸潤だけではなく、歯間部から歯槽骨内へ薬液を拡散させる発想です。特に限局した単歯の麻酔補助として使いやすい方法です。
次に歯根膜内注射です。PDL injection、つまり歯根膜内注射とも呼ばれます。歯肉溝から歯根膜腔へ針を進め、高圧で少量の麻酔液を注入し、歯根膜腔から周囲骨へ拡散させる方法です。
歯根膜内注射の利点は、対象歯に限局した麻酔を得やすいことです。下顎孔伝達麻酔の補助として、単歯の処置を進めたいときには有用です。軟組織麻酔範囲が広がりにくい点も利点です。
一方で、欠点もあります。高圧注入になりやすく、注入時痛が出やすい。歯根膜や周囲組織への負荷がある。炎症の強い歯周組織では避けるべきです。また、乳歯では後継永久歯への影響が指摘されるため、安易に用いない方がよいとされています。歯内療法における補助としては有効ですが、万能ではありません。
さらに進むと、intraosseous anesthesia、つまり骨内麻酔があります。骨内麻酔は、皮質骨に小孔を作り、海綿骨内へ直接麻酔液を注入する方法です。理論的には、薬液を神経末梢にかなり近い位置へ届けるため、発現が速く、下顎臼歯部の不奏効症例では強力な選択肢になり得ます。
ただし、骨内麻酔は「効くからよい」と単純に言えません。薬液が骨内から血流へ入りやすく、血管収縮薬を含む製剤では一過性の心拍数上昇など循環動態への影響を考える必要があります。心血管リスクのある患者さんでは、血管収縮薬入りの歯根膜内注射や骨内麻酔に慎重になる必要があります。
最後の救済手段として、intrapulpal anesthesia、つまり歯髄腔内麻酔があります。
歯髄腔内麻酔は、露髄後、あるいは髄腔内に到達した段階で、髄腔や根管内へ麻酔液を圧入する方法です。ここで重要なのは、歯髄腔内麻酔の効果は、薬液の薬理作用だけではなく、圧そのものによる面が大きいということです。
そのため、歯髄腔内麻酔は、最初から頼る方法ではありません。患者さんに強い痛みを与えやすく、心理的負担も大きい。十分な伝達麻酔、補助浸潤、歯根膜内注射などを行ってもなお処置が困難な場合の、最後の救済手段として位置づけるべきです。
ここまでをまとめると、追加麻酔の実践的な順序は次のようになります。
まず、伝達麻酔が成立しているかを確認する。成立していなければ、下顎孔伝達麻酔を再評価する。下唇麻痺があるのに歯髄痛が残るなら、頬側補助浸潤、必要に応じて舌側浸潤を考える。それでも不十分なら、歯間乳頭部・歯間中隔・歯根膜内注射を検討する。さらに必要な場合に骨内麻酔を考える。髄腔に到達後、どうしても痛みが残る場合に歯髄腔内麻酔を用いる。そして、どの段階でも、無理に進めるより撤退した方がよい症例がある。
局所麻酔不奏効への対応は、同じことを足す作業ではありません。到達経路を変え、作用させる部位を変え、患者さんの反応を見ながら安全域の中でリカバリーする作業です。


7. アルチカイン/セプトカインはどこで活きるか
今回の記事は、セプトカイン記事の実践版として位置づけています。しかし、最初に強調しておきたいのは、セプトカイン、つまりアルチカイン製剤を「リドカインより強い麻酔薬」とだけ捉えないことです。
アルチカインは、確かに従来のリドカインとは異なる特徴を持ちます。分子構造にチオフェン環を持ち、脂溶性が高いこと、アミド型でありながらエステル側鎖を持ち、血中エステラーゼによる代謝を受けることが特徴です。
この特徴から、アルチカインは浸潤麻酔、特に下顎臼歯部の補助浸潤で活きる可能性があります。厚い皮質骨を越えて根尖周囲に薬液を到達させたい場面では、薬剤の拡散性・脂溶性が臨床的な差につながることがあります。
一方で、アルチカインを「下顎孔伝達麻酔を成功させる万能薬」と考えるのは危険です。
症候性不可逆性歯髄炎に対する麻酔では、薬剤差だけでなく、炎症性神経感作、低pH、血流増加、副神経支配、不安、手技要因が重なります。アルチカインを使っても、これらの要因が消えるわけではありません。
特に、アルチカインを下顎孔伝達麻酔として使う場合には、知覚異常や神経障害に関する議論も避けて通れません。
患者さんへ不必要な不安を与える必要はありません。実際、局所麻酔による重大な神経障害は稀です。しかし、歯科医師向けに議論するなら、「4%製剤」「下顎孔伝達麻酔」「舌神経/下歯槽神経近傍」「神経内注入・高圧注入・長時間曝露」のリスクを切り分けて考える必要があります。
アルチカインが有用であることと、どの投与経路でも無条件に使ってよいことは別です。
臨床的には、次のように整理するとよいと思います。
アルチカインは、下顎臼歯部の頬側補助浸潤で使いどころがあります。症候性不可逆性歯髄炎で下顎孔伝達麻酔が不十分なとき、補助浸潤として使う価値があります。処置時間や麻酔持続を考慮した選択肢にもなります。一方で、下顎孔伝達麻酔そのものをアルチカインに置き換えればすべて解決する、とは考えません。
また、アルチカインは4%製剤であることも忘れてはいけません。
4%製剤は、同じ1カートリッジでも含有される局所麻酔薬量が多くなります。リドカイン2%は20mg/mL、アルチカイン4%は40mg/mLです。1.8mLカートリッジで考えると、リドカイン2%は36mg、アルチカイン4%は72mgです。つまり、カートリッジ数だけで投与量を感覚的に判断すると、実際のmg量を見誤ります。
セプトカインを使うときに重要なのは、「効きそうだから足す」ではなく、「どこに、何mL、何mg、どの経路で、何を目的として使うか」です。
たとえば、下顎第一大臼歯の症候性不可逆性歯髄炎で、リドカインによる下顎孔伝達麻酔後に下唇麻痺はあるが、髄腔開拡で痛みが残る。この場合、アルチカインの頬側補助浸潤は合理的な選択肢になります。狙いは「伝達麻酔の置き換え」ではなく、根尖周囲への追加到達です。
一方、下顎孔伝達麻酔自体が明らかに不成功で、下唇麻痺もない症例では、まず手技を見直すべきです。そこへアルチカインを追加しても、原因の解決にならないことがあります。
また、高齢者、低体重患者、肝腎機能低下、心血管疾患、複数部位処置、長時間処置では、総投与量、アドレナリン量、血圧・脈拍、血管内迷入リスクを同時に考える必要があります。
アルチカイン/セプトカインは、有用な薬剤です。特に浸潤麻酔・補助浸潤では、臨床的な利点があります。しかし、それは「強い薬だから効く」という話ではありません。
下顎臼歯部の厚い皮質骨、炎症歯の神経感作、補助浸潤という到達経路、患者背景、安全域。これらを合わせて考えたときに、アルチカインの使いどころが見えてきます。


8. 薬剤選択は強い・弱いではなく、患者背景と処置時間で決める
局所麻酔薬の選択は、「どの薬が一番強いか」を選ぶ作業ではありません。
処置内容、処置時間、必要な止血、炎症の強さ、麻酔範囲、患者背景、全身疾患、服薬、体重、年齢を見て選択する作業です。
リドカインは、現在も基準薬として扱いやすい局所麻酔薬です。安全性と有効性の蓄積があり、妊娠中や小児においても選択肢として考えやすい薬剤です。アルチカインやメピバカインを使う場合でも、リドカインを基準に比較して考えることが多いと思います。
メピバカインは、血管拡張作用が比較的弱く、血管収縮薬なしでも短時間の麻酔効果を得やすい薬剤です。そのため、血管収縮薬を避けたい症例、短時間処置、小児や高齢者の一部症例で候補になります。ただし、血管収縮薬を含まないから常に安全というわけではありません。血管収縮薬がない分、局所麻酔薬本体の血中移行が速くなる可能性もあり、総投与量には注意が必要です。
プロピトカイン/プリロカインにフェリプレシンを組み合わせた製剤は、循環器疾患の患者さんで使われることがあります。フェリプレシンはアドレナリンとは異なる血管収縮薬で、主に静脈側に作用するとされます。しかし、「循環器疾患ならフェリプレシンが安全」と単純化するのは危険です。フェリプレシンは血圧上昇側に影響する可能性があり、妊娠では理論的な子宮収縮リスク、プリロカインではメトヘモグロビン血症の問題もあります。
アルチカインは、前章で述べた通り、浸潤麻酔・補助浸潤で有用性を発揮しやすい薬剤です。特に下顎臼歯部や炎症歯の補助麻酔としては重要な選択肢です。一方で、4%製剤であること、下顎孔伝達麻酔での知覚異常議論、総投与量を意識する必要があります。
ブピバカインやロピバカイン、レボブピバカインのような長時間作用性局所麻酔薬は、日常の虫歯治療や急性歯髄炎の麻酔不奏効対策というより、術後疼痛管理や長時間処置の文脈で考える薬剤です。強い炎症歯に対して「長く効く薬を使えばよい」という話ではありません。発現時間、心毒性、しびれの長時間残存、術後咬傷なども含めて考える必要があります。
有病者に対する薬剤選択では、さらに注意が必要です。
たとえば、心血管疾患といっても、安定狭心症、最近の心筋梗塞、不整脈、心不全、高血圧、抗血栓薬内服ではリスクの意味が異なります。糖尿病でも、血糖コントロール、低血糖リスク、感染、腎機能、心血管リスクを併せて見ます。肝機能障害でも、軽度の肝機能異常と非代償性肝硬変では全く違います。
つまり、薬剤選択は「疾患名」だけではなく、疾患の安定性、処置の侵襲、処置時間、投与量、血管収縮薬量、モニタリング体制で決まります。
ここで大切なのは、局所麻酔薬を「強い薬」「弱い薬」で並べないことです。
リドカインは基準薬として使いやすい。メピバカインは血管収縮薬を避けたい短時間処置で候補になる。フェリプレシン含有製剤はアドレナリンを避けたい症例で候補になるが、血圧や妊娠には注意する。アルチカインは浸潤・補助浸潤で利点がある。長時間作用性薬剤は術後疼痛管理で使いどころがある。
このように、それぞれの薬剤には「得意な場面」と「注意すべき場面」があります。
局所麻酔が効きにくい症例ほど、強い薬を選びたくなります。しかし、専門職として重要なのは、強い薬を選ぶことではありません。効かせたい部位へ、安全域の中で、必要な時間だけ、適切な薬剤を届けることです。


9. 不安・恐怖・疼痛閾値を麻酔戦略として扱う
局所麻酔が効きにくい症例を語るとき、炎症や解剖に比べて軽視されやすいのが、不安と恐怖です。
しかし、不安は単なる気分の問題ではありません。歯科治療における不安は、疼痛閾値、つまり痛みとして感じる閾値を下げます。さらに、交感神経反応を高め、心拍数や血圧、呼吸、筋緊張、体動にも影響します。局所麻酔の注射そのものが過去の痛み体験を呼び起こし、治療開始前から患者さんを痛みに対して過敏な状態にすることがあります。
実際、患者さんの反応には大きな個人差があります。同じ麻酔手技、同じ薬液、同じ処置でも、ほとんど反応しない患者さんもいれば、粘膜への刺入時点で強い恐怖を示す患者さんもいます。
ここで、「痛がりだから仕方ない」と片づけてはいけません。
患者さんの不安を下げることは、優しさだけではなく、局所麻酔を成立させるための条件整備です。
まず、表面麻酔の使い方です。表面麻酔は万能ではありませんが、針の刺入痛を軽減し、患者さんの最初の警戒反応を下げる効果があります。粘膜表面を乾燥させ、必要な時間を置くことが重要です。濡れた粘膜に塗ってすぐ刺すだけでは、効果は限定的です。
次に、針を見せないこと。これは小児だけの話ではありません。成人でも、針の視覚刺激によって不安が一気に上がる患者さんは多いです。トレー上のシリンジを見せっぱなしにしない。説明のときに針を患者さんの視界に入れない。こうした配慮は、心理的な準備に関わります。
注入速度も重要です。局所麻酔の痛みは、刺入痛だけではなく、薬液注入時の組織圧上昇によって起こります。急速注入は痛みを増やし、組織損傷、血管内迷入時の急激な反応、患者さんの防御反応にもつながります。特に口蓋や歯根膜内、炎症部位周囲では、緩徐注入が重要です。
電動注射器やコンピューター制御局所麻酔注入装置は、注入速度を一定にしやすい点で有用です。デバイスがすべてを解決するわけではありませんが、術者の手圧に左右されにくいという利点があります。注射痛を減らすことは、患者さんの不安を下げ、次の治療協力度にも影響します。
声かけも麻酔戦略の一部です。
「今から少しチクッとします」「ゆっくり入れます」「痛かったら左手を挙げてください」「途中で止められます」といった言葉は、単なる接遇ではありません。患者さんにコントロール感を与え、予期しない痛みへの恐怖を下げます。
特に炎症歯の処置では、事前説明が重要です。
「炎症が強い歯では、通常より麻酔が効きにくいことがあります。途中で痛みが出たら、我慢せずに手を挙げてください。必要に応じて追加の麻酔をします」
この説明があるだけで、患者さんは「痛みが出たら失敗だ」と感じにくくなります。術者側も、痛みが出た瞬間に焦って処置を進めるのではなく、予定通り補助麻酔に移行できます。
笑気吸入鎮静や静脈内鎮静は、すべての医院で日常的に行うものではありませんが、不安が非常に強い患者さん、過去の歯科治療で強いトラウマがある患者さん、局所麻酔だけでは体動や恐怖反応が強い患者さんでは、選択肢として考えるべき場面があります。
局所麻酔が効きにくい症例では、炎症と解剖だけに目を向けがちです。しかし、患者さんが強く緊張し、口腔周囲筋が硬くなり、呼吸が浅くなり、手足に力が入り、術者の声が入りにくい状態では、同じ麻酔手技でも臨床的な成功は下がります。
不安を下げること、注射痛を減らすこと、途中で止められる合図を決めること、術前に麻酔が効きにくい可能性を説明すること。これらはすべて、麻酔を成功させるための戦略です。


10. 効かないときに増量へ逃げない:最大投与量・血管内迷入・神経障害
麻酔が効きにくい症例では、追加投与が増えます。
ここで危険なのは、カートリッジ数だけで感覚的に判断することです。特に4%製剤では、少ないカートリッジ数でも局所麻酔薬のmg量は多くなります。
4%製剤は、同じ1カートリッジでも含有量が多くなります。1.8mLカートリッジで考えると、2%リドカインは36mg、4%アルチカインは72mgです。つまり、同じ「1本」でも、局所麻酔薬の量は倍です。
局所麻酔薬の毒性は、主に血中濃度上昇によって起こります。原因は、過量投与、短時間での反復投与、血管内迷入、血流豊富な部位への急速注入などです。初期症状としては、めまい、耳鳴り、金属味、口唇周囲のしびれ、興奮、不安、構音障害、筋攣縮などがあり、重症化すると痙攣、意識障害、呼吸抑制、循環抑制へ進む可能性があります。
血管収縮薬も同時に考えます。
アドレナリンは局所麻酔の深さと持続を改善し、血中移行を遅らせ、止血にも役立ちます。しかし、血管内へ急速に入った場合や大量投与では、心拍数上昇、血圧上昇、動悸、不整脈様症状を起こすことがあります。
したがって、麻酔が効かない症例ほど、吸引、緩徐注入、少量分割投与、投与量記録が重要になります。
特に下顎孔伝達麻酔では、血管近接部へ針先を進めます。吸引を行うこと、骨接触後に少し戻してから吸引すること、急速に入れないことが基本です。血液の逆流があれば、位置を変える必要があります。
神経障害にも注意が必要です。
神経障害は、局所麻酔薬そのものの神経毒性だけで起こるわけではありません。針による直接損傷、神経内注入、高圧注入、神経周囲血管の損傷、血腫、局所血流低下、長時間曝露、患者背景としての糖尿病性神経障害や末梢血管障害など、複数の要因が重なります。
ここで大事なのは、神経障害を過度に恐れて必要な麻酔を避けることではありません。必要な麻酔は行うべきです。ただし、効かないからといって同じ場所へ高圧で何度も注入する、針先を無理に進める、電撃痛があるのにそのまま注入する、投与量を記録しない、といった行為は避けるべきです。
小児や高齢者では、さらに投与量管理が重要です。
これは小児歯科だけの問題ではありません。日常的に使う局所麻酔だからこそ、投与量や記録が感覚的になりやすいということです。
成人でも、体格の小さい患者さん、高齢者、肝腎機能低下、複数部位処置、長時間処置では、最大投与量と総アドレナリン量を把握しておく必要があります。
麻酔が効かないときこそ、追加投与の前に一度立ち止まるべきです。
今まで何mL入れたのか。何mg入れたのか。アドレナリン量はどの程度か。血圧・脈拍はどうか。患者さんの訴えは痛みなのか、不安なのか、血管内迷入様の動悸なのか。追加するなら、同じ経路でよいのか、別経路にすべきか。撤退した方がよいか。
局所麻酔が効きにくい症例ほど、術者の冷静さが問われます。


11. 撤退する判断:今日やり切ることが正解とは限らない
局所麻酔が効きにくい症例で、最も大切な判断の一つが「撤退」です。
歯科医師は、処置を完遂したいと思います。急性症状がある患者さんであれば、なおさら「今日なんとかしてあげたい」と考えます。しかし、局所麻酔が十分に効いていない状態で、無理に髄腔開拡や抜髄、抜歯を進めることは、患者さんに強い恐怖体験を残します。
その恐怖体験は、次回以降の治療をさらに難しくします。
一度「麻酔をしても痛かった」「止めてほしいと言ったのに進められた」と感じた患者さんは、その後の歯科治療で強い不安を持ちます。次の局所麻酔も効きにくくなり、さらに不安が増え、悪循環になります。
もちろん、急性炎症症例では、原因除去が最も重要です。根管治療であれば髄腔開拡と減圧、感染源へのアクセス、排膿が必要なことがあります。膿瘍であれば切開排膿が必要なことがあります。咬合痛が強ければ咬合調整が有効なこともあります。
しかし、それは「どんな状態でも今日すべてやり切る」という意味ではありません。
麻酔が不十分で、患者さんの反応が強く、補助麻酔を行っても無痛域に入らない。あるいは、追加投与量が増え、全身状態や循環動態が気になる。強い不安や過換気傾向がある。こうした場面では、応急処置に切り替える、消炎・鎮痛を優先する、日を改める、鎮静や専門施設への紹介を考えるという判断も必要です。
撤退は敗北ではありません。
むしろ、効いていないことを認識しながら処置を進める方が危険です。
撤退する場合にも、患者さんへの説明が重要です。
「今日は炎症が非常に強く、通常より麻酔が効きにくい状態です。無理に進めると強い痛みを伴う可能性があるため、今日は痛みを落ち着かせる処置に切り替えます。次回、状態を見て改めて麻酔を効かせやすい条件で治療します」
このように説明すれば、患者さんは「治療に失敗した」とは受け取りにくくなります。むしろ、「無理に痛いことをされなかった」という信頼につながります。
局所麻酔不奏効の臨床判断には、効かせる技術だけでなく、やめる判断も含まれます。

12. 終わりに:局所麻酔不奏効は、原因を分けて潰す臨床判断である
局所麻酔が効きにくい症例を、薬剤名だけで考えるべきではありません。
「リドカインが効かない」「セプトカインなら効く」「痛がりの患者さんだから仕方ない」という表現は、臨床の一部を説明しているようで、実際には多くの要因を見落とします。
まず、手技を確認します。刺入点、刺入深度、骨接触、吸引、薬液量、注入速度、待機時間、薬液保存を見直します。
次に、下唇麻痺と歯髄麻酔を分けます。下唇がしびれていても、歯髄麻酔が成立しているとは限りません。顎舌骨筋神経、二分下顎管、臼後孔、反対側切歯枝など、副支配を疑う必要があります。
さらに、炎症を考えます。炎症歯では、pH低下によって局所麻酔薬の非イオン型が減少するだけでなく、血流増加、浮腫、炎症性メディエーター、NaVチャネル、TRPチャネル、末梢性感作、中枢性感作が関与します。
症候性不可逆性歯髄炎、いわゆる hot tooth、つまり強い炎症性疼痛歯では、下顎孔伝達麻酔単独に過剰な期待をしない方がよいでしょう。補助麻酔を前提に、術前から戦略を立てる必要があります。
追加麻酔は、同じことを足すのではなく、到達経路を変えることです。頬側補助浸潤、舌側浸潤、歯間乳頭部、歯根膜内注射、骨内麻酔、歯髄腔内麻酔を、症例に応じて段階的に考えます。
アルチカイン/セプトカインは、有力な選択肢です。特に浸潤麻酔・補助浸潤・下顎臼歯部で活きる薬剤です。しかし、下顎孔伝達麻酔を万能化する薬ではありません。4%製剤であること、総投与量、神経障害議論、患者背景を理解して使う必要があります。
不安管理も麻酔戦略です。表面麻酔、粘膜乾燥、緩徐注入、針を見せない配慮、声かけ、途中で止められる合図、必要時の鎮静は、単なる接遇ではなく、臨床的無痛を得るための条件整備です。
そして、効かないときに増量へ逃げないこと。最大投与量、アドレナリン量、血管内迷入、神経障害、全身疾患を冷静に見ます。
最後に、撤退する判断を持つことです。今日やり切ることが、常に正解とは限りません。無痛域に入らないまま進めることは、患者さんの信頼とその後の治療協力度を損ないます。
局所麻酔不奏効は、麻酔薬の強弱の問題ではありません。
炎症、解剖、不安、薬剤選択、そして術者の判断が重なった臨床現象です。だからこそ、原因を分けて潰す必要があります。
局所麻酔が効きにくい症例に対して、最も重要なのは「もっと強い麻酔を使うこと」ではありません。
今、何が原因で効いていないのかを読み、どの経路で、どの薬剤を、どの量で、どこまで進めるかを判断することです。
それが、局所麻酔不奏効に対する本当の臨床力だと思います。
《参考文献》
- Yagiela JA. Local anesthetics. Anesth Prog. 1991;38(4-5):128-141.
- Haas DA. An update on local anesthetics in dentistry. J Can Dent Assoc. 2002;68(9):546-551.
- Moore PA, Hersh EV. Local anesthetics: pharmacology and toxicity. Dent Clin North Am. 2010;54(4):587-599.
- Becker DE, Reed KL. Essentials of local anesthetic pharmacology. Anesth Prog. 2006;53(3):98-109.
- Mathison M, Pepper T. Local Anesthesia Techniques in Dentistry and Oral Surgery. StatPearls. Treasure Island: StatPearls Publishing; 2023.
- Hargreaves KM, Keiser K. Local anesthetic failure in endodontics: mechanisms and management. Endodontic Topics. 2002;1(1):26-39.
- Claffey E, Reader A, Nusstein J, Beck M, Weaver J. Anesthetic efficacy of articaine for inferior alveolar nerve blocks in patients with irreversible pulpitis. J Endod. 2004;30(8):568-571.
- Kanaa MD, Whitworth JM, Corbett IP, Meechan JG. Articaine and lidocaine mandibular buccal infiltration anesthesia: a prospective randomized double-blind cross-over study. J Endod. 2006;32(4):296-298.
- Robertson D, Nusstein J, Reader A, Beck M, McCartney M. The anesthetic efficacy of articaine in buccal infiltration of mandibular posterior teeth. J Am Dent Assoc. 2007;138(8):1104-1112.
- Ashraf H, Kazem M, Dianat O, Noghrehkar F. Efficacy of articaine versus lidocaine in block and infiltration anesthesia administered in teeth with irreversible pulpitis: a prospective randomized double-blind study. J Endod. 2013;39(1):6-10.
- Fan S, Chen WL, Pan CB, Huang ZQ, Xian MQ, Yang ZH. Anesthetic efficacy of inferior alveolar nerve block plus buccal infiltration or periodontal ligament injections with articaine in patients with irreversible pulpitis in mandibular first molars. Oral Surg Oral Med Oral Pathol Oral Radiol Endod. 2009;108(5):e89-e93.
- Reisman D, Reader A, Nist R, Beck M, Weaver J. Anesthetic efficacy of the supplemental intraosseous injection of 3% mepivacaine in irreversible pulpitis. Oral Surg Oral Med Oral Pathol Oral Radiol Endod. 1997;84(6):676-682.
- Nusstein J, Reader A, Nist R, Beck M, Meyers WJ. Anesthetic efficacy of the supplemental intraosseous injection of 2% lidocaine with 1:100,000 epinephrine in irreversible pulpitis. J Endod. 1998;24(7):487-491.
- Nusstein J, Reader A, Beck M. Anesthetic efficacy of the supplemental X-tip intraosseous injection in patients with irreversible pulpitis. J Endod. 2003;29(11):724-728.
- Nagendrababu V, Pulikkotil SJ, Suresh A, Veettil SK, Bhatia S, Setzer FC. Efficacy of local anaesthetic solutions on the success of inferior alveolar nerve block in patients with irreversible pulpitis: a systematic review and network meta-analysis of randomized clinical trials. Int Endod J. 2019;52(6):779-789.
- Brandt RG, Anderson PF, McDonald NJ, Sohn W, Peters MC. The pulpal anesthetic efficacy of articaine versus lidocaine in dentistry: a meta-analysis. J Am Dent Assoc. 2011;142(5):493-504.
- Katyal V. The efficacy and safety of articaine versus lignocaine in dental treatments: a meta-analysis. J Dent. 2010;38(4):307-317.
- Malamed SF, Gagnon S, Leblanc D. Efficacy of articaine: a new amide local anesthetic. J Am Dent Assoc. 2000;131(5):635-642.
- Malamed SF, Gagnon S, Leblanc D. Articaine hydrochloride: a study of the safety of a new amide local anesthetic. J Am Dent Assoc. 2001;132(2):177-185.
- Luo W, Zheng K, Kuang H, Li Z, Wang J, Mei J. The potential of articaine as new generation of local anesthesia in dental clinics: a review. Medicine. 2022;101(48):e32089.
- Li X, Chen X, Wang Q, Gui Y, Huang F, Zhong D, et al. Evaluation of the effectiveness of local anesthesia approaches for symptomatic irreversible pulpitis: a systematic review and meta-analysis. Front Dent Med. 2026;6:1679706.
- Oleson M, Drum M, Reader A, Nusstein J, Beck M. Effect of preoperative ibuprofen on the success of the inferior alveolar nerve block in patients with irreversible pulpitis. J Endod. 2010;36(3):379-382.
- Stanley W, Drum M, Nusstein J, Reader A, Beck M. Effect of nitrous oxide on the efficacy of the inferior alveolar nerve block in patients with symptomatic irreversible pulpitis. J Endod. 2012;38(5):565-569.
- Aggarwal V, Singla M, Kabi D. Comparative evaluation of anesthetic efficacy of 2% lidocaine, 4% articaine, and 0.5% bupivacaine in patients with irreversible pulpitis. J Endod. 2010;36(12):1961-1965.
- Aggarwal V, Singla M, Miglani S, Kohli S. Efficacy of articaine versus lidocaine administered as supplementary buccal infiltration after inferior alveolar nerve block in patients with irreversible pulpitis: a randomized double-blind study. J Endod. 2009;35(7):925-929.
- Tan YZ, Shi RJ, Ke BW, Tang YL, Liang XH. Paresthesia in dentistry: the ignored neurotoxicity of local anesthetics. Heliyon. 2023;9(7):e18031.
- Garisto GA, Gaffen AS, Lawrence HP, Tenenbaum HC, Haas DA. Occurrence of paresthesia after dental local anesthetic administration in the United States. J Am Dent Assoc. 2010;141(7):836-844.
- Haas DA, Lennon D. A 21 year retrospective study of reports of paresthesia following local anesthetic administration. J Can Dent Assoc. 1995;61(4):319-330.
- Hillerup S, Jensen RH. Nerve injury caused by mandibular block analgesia. Int J Oral Maxillofac Surg. 2006;35(5):437-443.
- Ghafoor H, Haroon S, Atique S, Ul Huda A, Ahmed O, Mohamed Bel Khair AO, et al. Neurological complications of local anesthesia in dentistry: a review. Cureus. 2023;15(12):e50790.
- Gazal G, Omar E, Elmalky W. Rules of selection for a safe local anesthetic in dentistry. J Taibah Univ Med Sci. 2023;18(6):1195-1196.
- Gazal G, Omar E, Alofi HA, Nassani MZ. Selection of the safest local anesthetic for dental treatment in medically compromised patients: a comprehensive review. Saudi J Anaesth. 2026;20(1):150-155.
- Bani-Hani T, Al-Fodeh R, Tabnjh A, Leith R. The use of local anesthesia in pediatric dentistry: a survey of specialists’ current practices in children and attitudes in relation to articaine. Int J Dent. 2024;2024:2468502.
- Pahade A, Bajaj P, Shirbhate U, John HA. Recent modalities in pain control and local anesthesia in dentistry: a narrative review. Cureus. 2023;15(11):e48428.
- Patel BJ, Surana P, Patel KJ. Recent advances in local anesthesia: a review of literature. Cureus. 2023;15(3):e36291.
- Ueno T, Tsuchiya H, Mizogami M, Takakura K. Local anesthetic failure associated with inflammation: verification of the acidosis mechanism and the hypothetic participation of inflammatory peroxynitrite. J Inflamm Res. 2008;1:41-48.
- Renton T. Dental local anaesthesia and nerve injury. Br Dent J. 2011;210(4):175-180.
- Pogrel MA, Bryan J, Regezi J. Nerve damage associated with inferior alveolar nerve blocks. J Am Dent Assoc. 1995;126(8):1150-1155.
- 一戸達也, 久木留智. 局所麻酔を効かせるためには? 浸潤麻酔のコツとポイント. 歯界展望. 2025.
- 日本麻酔科学会. 局所麻酔薬中毒への対応プラクティカルガイド. 日本麻酔科学会.
- 日本麻酔科学会. 局所麻酔薬使用に関する安全管理指針. 日本麻酔科学会.
- OKAD01研究グループ. アルチカイン塩酸塩・アドレナリン酒石酸水素塩注射剤の歯科領域における第Ⅱ相臨床試験.
- OKAD01研究グループ. アルチカイン塩酸塩・アドレナリン酒石酸水素塩注射剤の下顎半埋伏智歯抜歯における第Ⅲ相臨床試験.
