2026年8月20日

(院長の徒然コラム)

はじめに
2026年8月17日、トレジェムバイオファーマ株式会社は、先天性無歯症を対象として開発中の抗体医薬品TRG035について、第IIa相試験の治験計画届に対する医薬品医療機器総合機構(PMDA)の所定の調査が完了したと発表しました。
治験実施計画書番号はTR-002。対象は小児重症型先天性部分無歯症患者で、非対照・非盲検・多施設共同の用量探索試験、目標症例数は24例です。今後は治験実施医療機関の治験審査委員会による審査などを経て、被験者の組み入れとTRG035の投与へ進む予定とされています。
「歯が生える薬」が、いよいよ歯の欠損を持つ子どもを対象とした臨床試験へ進もうとしている。
この一文だけでも十分に大きなニュースです。
しかしTRG035の研究をたどっていくと、単に「薬を注射したら歯が生える」という話ではないことが分かります。
そもそも、TRG035は何を“再生”しようとしているのでしょうか。
何もない顎骨の中に、薬が一から新しい歯の設計図を作るのでしょうか。
発生を始めたものの途中で成長が止まっている歯胚を、もう一度動かすのでしょうか。
あるいは乳歯、永久歯のさらに次に存在すると考えられてきた「第三歯列」を発育させようとしているのでしょうか。
この三つは、似ているようで発生学的には同じ現象ではありません。
そして、この疑問をたどっていくと、2020年代の創薬研究だけでは終わりません。
研究史は、Lecheが哺乳類の第三歯列原基を報告した1893年、Röseがヒトの次世代歯列を論じた1895年、Ahrensの1913年、藤田恒太郎氏の1943年、そして1950年代からヒトの歯胚発生を追い続けた大江規玄氏へと、130年以上さかのぼります。大江氏自身も1969年の論文で、Leche、Röse、Ahrens、藤田氏へ続く研究史を整理しています。
TRG035という一本の抗体医薬品の後ろには、「人間は何回、自分の歯を作れるのか」という長い研究の歴史があります。
「歯が生える」には、少なくとも三つの違う意味がある
最初に、今回の話で最も重要な部分を整理しておきます。
第一は、先天性無歯症で発生途中に停止した歯胚の発育を再開させることです。
第二は、永久歯よりさらに次の世代に相当する第三歯列の原基を発育させることです。
第三は、虫歯、歯周病、外傷などによって永久歯を失った成人に、新しい歯を形成することです。

現在、TRG035で直接臨床開発されているのは主として第一の問題、すなわち小児の先天性無歯症です。
先天性無歯症と聞くと、「最初から歯胚そのものが存在しない」と考えたくなります。
しかし、少なくとも多くの先天性歯欠如モデルでは、発生は一度開始しています。
2026年に報告されたTRG035の画像バイオマーカー研究では、約40種類の先天性歯欠如モデルマウスの解析から、95%を超えるモデルで歯の発生が蕾状期までに停止し、残りの一部も鐘状期へ進む前の帽状期初期までに停止すると整理されています。
つまり、「歯がない」という最終的な見た目が同じでも、
歯を作る発生プログラムが一度も始まらなかった状態と、始まったものの非常に早い段階で止まった状態は違う
ということです。
TRG035の先天性無歯症治療を理解するには、この違いが出発点になります。
歯はどのように作られるのか――歯堤から蕾状期、帽状期、鐘状期へ
歯の発生は、口腔上皮の一部が厚くなって形成される歯堤から始まります。
そこから上皮が間葉側へ伸び、歯胚が作られていきます。
初期には上皮が小さな芽のように見える蕾状期となり、その後、歯乳頭を帽子のように覆う帽状期へ進み、さらにエナメル器の形態が複雑になって歯冠形態や細胞分化が進む鐘状期へ移ります。
その後、エナメル質や象牙質の形成、石灰化、歯根形成へ進み、顎骨内を移動して萌出に至ります。

TRG035の研究で重要なのは、この一連の発生過程のどこかで止まった歯胚が、再び次の段階へ進めるかどうかです。
「完成した歯があるか、ないか」だけを見るのではありません。
発生が動いているか、止まっているかを見る。
これが後にMRIを使った画像バイオマーカー研究にもつながっていきます。
TRG035は「歯の設計図を一から作る薬」ではない
TRG035は、USAG-1というタンパク質を中和するヒト化抗体です。
USAG-1は、歯の形成に重要なBMPやWntなどのシグナルに関係し、それらを抑制する側に働きます。
発生は多数の遺伝子とシグナルの相互作用で決まるため単純化は禁物ですが、TRG035の基本的な考え方を理解するうえでは、USAG-1を歯の発育にかかっている「ブレーキの一つ」と考えると分かりやすいでしょう。
このブレーキを抗体によって緩め、途中で止まっている歯形成を再び進めようという発想です。
2021年の Science Advances の研究では、野生型動物でも痕跡的な歯の原基が存在しており、USAG-1によってその成長が抑制されていると考察されています。研究者らは、こうした原基が存在するため、新しい歯胚そのものを一から作製する必要はなかったと説明しています。
したがって、現在の先天性無歯症治療におけるTRG035を、
「何もないところから薬が歯を創造する」
と説明するのは適切ではありません。
より近いのは、
「発生する能力を持ちながら途中で停止している歯胚の抑制を解除し、もう一度発育させる」
という理解です。
その結果、歯冠と歯根が形成され、最終的に口腔内へ萌出すれば、患者さんから見れば確かに「なかった歯が生えた」ことになります。
しかし、生物学的には「無からの創造」と「発育停止した原基の救済」は別の現象です。
永久歯そのものも「次の世代の歯堤」から作られる
第三歯列を考える前に、乳歯と永久歯の関係を見ておく必要があります。
切歯、犬歯、小臼歯では、乳歯歯胚の舌側から後継となる上皮性構造が伸び、その先に永久歯胚が形成されます。
つまり、人間の顎にはもともと、
一世代目の歯を作ったあと、その舌側に二世代目の歯を作る仕組み
があります。
大江規玄氏は1950年代から1960年代にかけて、ヒト胎児・乳幼児の連続組織切片と立体再構築を用い、乳歯と永久歯の歯胚がどのように形成され、発育に伴って位置を変えていくのかを詳細に研究しました。
1965年の A Study of the Ontogenetic Origin of Human Permanent Tooth Germs も、それ以前の1956年、1959年、1962年の一連の歯胚発生研究を背景としたものです。
ここから自然に一つの疑問が生まれます。
乳歯の舌側から永久歯が形成されるのなら、
永久歯のさらに舌側にも、もう一世代先の上皮性構造が形成されることはないのか。
これが第三歯列の問題です。
第三歯列研究は19世紀末までさかのぼる
大江規玄氏の1969年論文によれば、Lecheは1893年、一部の哺乳類で第三歯列の原基を観察しました。
Röseは1895年、ヒトで第三歯列と考えられる上皮性構造を記載しました。
Ahrensは1913年に同様の組織構造を観察しましたが、第三歯列の原基とはせず、歯堤の遊離端と解釈しました。
藤田恒太郎氏は1943年、この構造について系統発生学的意義を重視しました。

特に興味深いのがRöseの1895年論文です。
題名は、
Ueberreste einer vorzeitigen prälactealen und einer vierten Zahnreihe beim Menschen.
「ヒトにおける早期の前乳歯性歯列と第四歯列の遺残」といった意味の題名です。
ここで「第三歯列」ではなく「第四歯列」とされているのには理由があります。
Röseは乳歯より前にも、痕跡的な「前乳歯性歯列」が存在すると考えていました。
そのため、
前乳歯性歯列、乳歯列、永久歯列、永久歯のさらに次の歯列、
と数えれば、最後は第四世代になります。
現在一般に「第三歯列」と呼ばれているものを、Röseはより正確には第四歯列と表現していたわけです。
Röseが1895年に観察した「永久歯のさらに次」
Röseは14週、体長11.5cmのヒト胎児の下顎切片で、乳切歯の歯胚、歯堤、そして後に永久歯を作る後継歯堤に加え、前乳歯性と解釈した小さな上皮性構造を示しています。
さらに満期、体長46cmのヒト胎児では、乳中切歯のエナメル器と永久中切歯のエナメル器に続いて、
第三、あるいは第四歯列の原基のためのErsatzleiste(後継歯堤)
を記載しています。
永久切歯原基が歯堤から分離し始めたあと、そのさらに先に自由な後継歯堤が伸び始める。
そしてRöseは、その最初の形成様式が、乳歯から永久歯の原基が形成されたときと同様であると考えました。
この構造はRöseが保有していた満期児2例の連続切片の双方に認められたとされ、ヒトでは前乳歯性歯列、乳歯列、永久歯列、そして第三または第四歯列という、複数世代の歯原基が形成されると結論しています。
ただし、ここは重要です。
Röseが観察したのは、成人の顎骨内で完成した「第三の歯」が待機している姿ではありません。
胎児期に、永久歯よりさらに次の世代へ続き得る上皮性の後継構造を観察したのです。
この違いを曖昧にすると、「人間には誰にでも三本目の歯が眠っている」という話へ簡単に飛躍してしまいます。
大江規玄氏が第三歯列を系統的に追跡した
Röseから約70年後の1969年、大江規玄氏は、
Epithelial Anlagen of Human Third Dentition and Their Migrations in the Mandible and Maxilla
を発表しました。
大江氏の研究が重要なのは、単に一つの標本で「それらしい構造」を見つけたからではありません。
それ以前から10年以上にわたって、乳歯と永久歯が形成される位置、発育に伴う歯胚の移動を連続切片と再構築模型で追跡しており、その延長として永久歯のさらに次へ続く上皮性構造を調べています。1969年論文にも、1956年、1962年、1965年、1968年の自身の研究が引用されています。
大江氏は胎児・乳幼児資料だけでなく、永久歯を有する12~24歳の6標本も調べました。
この点は、第三歯列が成人まで残るのかを考えるうえでも重要です。
第三歯列と考えられる上皮原基はいつ現れるのか
大江氏は下顎側切歯を例に、永久歯胚の発育段階と第三歯列の上皮原基と考えられる構造の出現を比較しました。
永久側切歯が帽状期にある段階では、第三歯列原基はまだ明瞭ではありません。
しかし永久歯胚の発育が進み、鐘状期に近づくと、その舌側に次世代の歯列原基と考えられる上皮性構造が明瞭になります。
出生後、まだ乳歯が萌出していない時期には前歯部でこの構造が発達し始め、乳歯が萌出した標本群では、前歯部の第三歯列原基と考えられる構造がすべての標本で認められました。
永久歯胚の成長に伴って、その位置は永久歯胚に対して咬合側へ移動していきます。
小臼歯部では、永久小臼歯歯胚が鐘状期になった頃から第三歯列原基と考えられる構造が確認されます。
小臼歯がさらに発育し、乳臼歯の歯根間へ位置する頃には、上下顎の第一・第二小臼歯すべてでこの上皮原基が確認され、その位置は先行する永久小臼歯に対して咬合側、さらにわずかに近心側でした。

大江氏は、なぜこれを単なる「歯堤の端」と考えなかったのか
小さな上皮性突起が存在するだけで、それを次の歯の原基と断定することはできません。
この点は大江氏自身も慎重に検討しています。
乳歯から永久歯が形成される場合にも、乳歯歯胚の舌側にある上皮性突起が、本当に永久歯胚なのか、単なる歯堤の遊離端なのかという問題がありました。
永久歯については、上皮の立体形態、伸長方向、周囲間葉細胞の凝集などを根拠に、永久歯胚の原基と判断されています。
一方、第三歯列原基と考えられる初期上皮では、周囲の間葉凝集は明瞭ではありません。
それでも大江氏は、この構造が現れる頃には元の歯堤がすでに退縮し、永久歯胚同士が互いに分離していることから、永久歯胚の舌側に改めて現れる上皮性構造を単なる元の歯堤の遊離端として説明するより、第三歯列の原基と考える方が妥当ではないかと論じました。
そして、その出現時期は先行する永久歯胚が鐘状期、あるいはその少し前。
出現後は永久歯胚の成長に伴って咬合側へ移動し、小臼歯部ではやや近心へも移動します。
ただし、最終的にどこへ位置するのか、いつ消失するのかは確認できなかったとしています。
この「分からなかった」という結論も、第三歯列を考えるうえでは非常に重要です。
正常な12~24歳では、第三歯列由来の上皮は確認できなかった
さらに重要なのが、永久歯萌出後の標本です。
大江氏が調べた永久歯を有する12~24歳の標本では、
第三歯列に由来すると考えられる上皮性構造は確認できませんでした。
この結果から、
「成人の顎には、誰にでも完全な第三の歯胚が眠っている」
とは言えません。
発生期には、永久歯のさらに次へ続き得る上皮性原基が形成される。
しかし通常、その構造が永久歯萌出後まで明瞭な形で維持される証拠は乏しい。
むしろ、大江氏の観察では若年成人を含む永久歯萌出後標本で確認できなくなっています。
TRG035と第三歯列を語るなら、この否定的所見も同じ重さで扱う必要があります。
現代の発生学でも「永久歯のさらに次」という概念は残っている
第三歯列は19世紀の古い仮説として消えたわけではありません。
2018年の Journal of Anatomy に掲載されたヒト歯列発生のレビューでも、ヒトには乳歯と永久歯という二つの機能的歯列のほか、痕跡的な前乳歯性歯列と、永久歯後の後継歯列に相当する上皮性原基が報告されてきたことが整理されています。
永久歯胚の舌側に、さらに次の後継歯列の痕跡的上皮原基が子どもで認められるという記載には、Röse 1895と大江氏1969の研究が引用されています。
したがって、「第三歯列」という言葉自体を非科学的なものとして片づけるのも適切ではありません。
問題は、
その原基がどこまで本物の歯を形成する能力を持つのか。
なぜ通常は歯にならないのか。
そして成人まで利用可能な状態で残ることがあるのか。
という部分です。
なぜヒトは通常、乳歯と永久歯の二世代で終わるのか
この疑問に重要な手がかりを与えたのが、Buchtová氏らによる2012年の研究です。
題名は、
Early Regression of the Dental Lamina Underlies the Development of Diphyodont Dentitions
です。
歯を一世代だけ持つ動物、二世代持つ動物、何度も交換する動物では、歯堤の寿命が異なります。
二生歯性動物では、第二世代の歯が形成されたあと歯堤が断片化し、退縮します。
この歯堤退縮が、それ以上の後継歯形成を防ぐ重要な仕組みだと考えられています。
研究の中心に使われたのはミニブタであり、ヒトの歯堤を直接操作した研究ではありません。
しかし、ブタでもヒトと同様に第二世代形成後に歯堤が退縮します。
一方、ヘビのように何度も歯を交換する動物では歯堤が維持され、その先端部から次々と新しい歯世代が形成されます。

歯堤は自然に消えるのではなく、積極的に解体されている
Buchtová氏らの研究では、歯堤の退縮は単純な細胞死だけでは説明されませんでした。
最初に基底膜が失われ、上皮細胞が歯堤から離れて周囲の間葉へ移動できるようになります。
E-cadherinやcytokeratinなどの上皮性マーカーが低下し、SlugやMMP2が増加し、vimentinなど間葉系の特徴が現れます。
さらに残った歯堤細胞の一部がapoptosisによって除去されます。
つまり、
細胞移動、細胞性質の変化、細胞死
という複数の現象を組み合わせて、次の歯世代を作り得る歯堤そのものを解体していると考えられます。
この視点から見ると、ヒトが通常二世代しか歯を持たない理由は、
「三本目を作る能力そのものが最初から存在しない」
とは限りません。
第二世代を作ったあと、次世代を供給し得る上皮構造を積極的に消している
とも考えられます。
さらにBuchtová氏らは、歯堤を退縮させるシグナルを制御できれば、歯堤を維持して追加の歯世代を形成し、失った歯、先天的に欠損した歯、損傷した歯を置き換えられる可能性にまで言及しています。
第三歯列を再生医療へ応用する考え方は、TRG035だけから生まれたものではありません。
もし歯堤が十分に消えなかったら――鎖骨頭蓋異形成症というヒトの「自然実験」
ここで非常に重要になるのが、鎖骨頭蓋異形成症、cleidocranial dysplasia(CCD)です。
CCDはRUNX2の異常を背景に生じ、多数の埋伏歯、永久歯萌出遅延、過剰歯など特徴的な歯科所見を示します。
第三歯列との関係を考えるうえで特に重要なのが、Jensen氏とKreiborg氏が1990年に発表した縦断研究です。
CCD患者では、正常永久歯の形成初期自体は比較的正常でした。
ところが約3~4年遅れて、多くの患者に過剰歯が発生します。
しかもその発生位置は無秩序ではありませんでした。
正常永久歯の歯冠形成が完了する頃、その舌側または咬合側という予測可能な位置に過剰歯が形成されました。
大臼歯部でも同様の規則性がみられます。
第三大臼歯のさらに遠心に第四大臼歯、さらには第五大臼歯が形成された症例があり、それらも前の大臼歯の歯冠完成後に、ほぼ一定の時間差で形成されました。
さらに2例では、第一大臼歯より前方にほぼ完全な追加の永久歯列が形成されていました。
過剰歯の形態も、対応する正常永久歯によく似ていました。
これは「過剰歯がたくさんできる疾患」という一言だけでは説明しにくい規則性です。
CCDでは「消えなかった歯堤が再び動く」という仮説が提案された
Jensen氏とKreiborg氏は、この現象を後継歯堤の退縮異常で説明しました。
通常であれば永久歯形成後に退縮する後継歯堤がCCDでは十分に消失せず、正常永久歯の歯冠形成完了頃に残存した歯堤が再活性化し、過剰歯を形成するという仮説です。
2018年にKreiborg氏とJensen氏がまとめたレビューでも、この考え方が整理されています。
後継歯堤や永久大臼歯部の歯堤が予定された時期に完全に退縮せず、その残存部が約4年遅れて再び活動し、先に形成された永久歯に似た過剰歯を形成する。
大臼歯部では歯堤が遠心へ延長し、第四、第五大臼歯を形成すると考えられています。
この研究群では145本の過剰歯が確認され、一人あたり1~21本、平均8本でした。
2人ではほぼ完全な「第三歯列」と呼べる追加歯列が形成され、約3分の1の患者には第四・第五大臼歯が認められています。
ただし、これら145本の過剰歯はいずれも自然萌出していません。
CCDは正常なヒト発生ではありません。
それでも、
正常なら消失するはずの歯形成系が残存した場合、ヒトの顎がどこまで追加の歯世代を作り得るのか
を考える「自然実験」として非常に興味深い疾患です。
58歳でも歯原性上皮が残存することがある
では、歯の発生に由来する上皮組織は成人まで残り得るのでしょうか。
Kreiborg氏とJensen氏の2018年レビューでは、Lukinmaa氏らが1995年に行った組織学研究が紹介されています。
CCD患者4人、年齢9~58歳の歯および歯周囲組織を調べたところ、発育中・未萌出歯の周囲だけではなく、完全に形成された歯の周囲にも歯原性上皮が局所的に豊富に存在し、58歳の患者でも確認されたと報告されています。
この結果は、
「歯の発生に由来する上皮は成人になると必ず完全に消失する」
とは言えないことを示します。
しかし、ここにも大きな注意点があります。
これはCCDという特殊な発生異常を背景とした患者での観察です。
したがって、
「健康な58歳にも第三歯列の歯胚が残っている」
ことを示した研究ではありません。
成人まで歯原性上皮が残存し得ることと、正常成人にTRG035で再活性化できる完全な第三歯列原基が存在することは、まったく別の問題です。
現代のCBCTでも、CCDの追加歯には規則性がみられる
2024年の BMC Oral Health では、16~18歳のCCD患者3人に存在した36本の過剰歯を、CBCTと3次元再構築を用いて解析しています。
36本のうち17本は対応永久歯の根尖側、15本は舌側に位置し、小臼歯部に最も多く認められました。
前歯、犬歯、小臼歯部の過剰歯では、隣接する正常永久歯に似た歯冠形態も観察されています。
この研究だけで「第三歯列由来」と証明できるわけではありません。
しかし、Jensen氏らが縦断的に見いだした、
永久歯に対応した位置と、対応歯種に似た形態
という規則性が、現代の3次元画像でも確認されている点は興味深いところです。
ところが大江規玄氏は「過剰歯=第三歯列」とは考えていなかった
第三歯列研究の歴史は一直線ではありません。
大江規玄氏は1969年、第三歯列原基と過剰歯との関係についてむしろ否定的な見解を示しています。
大江氏の所有する167例の胎児顎組織の中には3例の過剰歯胚が存在しました。
しかし、それらは大江氏が追跡していた第三歯列の上皮原基とは関係していないと判断されています。
そのため大江氏は、第三歯列の上皮原基は一般的な過剰歯を形成する傾向を持たないのではないかと結論しました。
つまり、
Röseが発見し、大江氏が確認し、そのまま現代の第三歯列再生研究へつながった、
という単純な歴史ではありません。
大江氏自身は、発生期の第三歯列原基と臨床でみる過剰歯を同一視していなかったのです。
その問題が、約50年後に改めて検討されます。
2019年、喜早ほのか氏らが第三歯列と過剰歯の関係を再検討した
2019年、喜早ほのか氏らは Journal of Dental Research に、
Third Dentition Is the Main Cause of Premolar Supernumerary Tooth Formation
を発表しました。
京都大学医学部附属病院を受診し、初診時にパノラマX線撮影を受けた15,008人のうち、過剰歯を認めた患者は215例でした。
そのうちCT画像を評価できた78例について、第三歯列由来と考えられる過剰歯の特徴を詳しく解析しています。
第三歯列由来と判断する臨床基準には、永久歯の舌側に位置すること、永久歯形成後に発育すること、先行する永久歯に似た形態を持つことなどが用いられました。
重要なのは、これは組織学的な系譜を直接追跡した研究ではないことです。
CT上の位置、発育時期、形態をもとに「第三歯列由来と考えられる」と分類した臨床研究です。
この区別は必要ですが、それでも結果は非常に興味深いものでした。
78例中26例――しかし小臼歯部では13例中11例
78例のうち、第三歯列由来と判断されたのは26例でした。
逆に言えば52例、約3分の2は第三歯列以外の原因と考えられています。
したがって、
「ヒトの過剰歯はすべて第三歯列である」
とは言えません。
ところが小臼歯部だけを見ると様子が大きく変わります。
上下顎小臼歯部の過剰歯13例中、第三歯列由来と分類されたのは11例、84.6%でした。
他部位と比較した調整オッズ比は16.77、95%信頼区間3.17~88.77、P=0.001です。
さらに過剰歯を3本以上持つ7例では、7例すべてが第三歯列由来と判断されました。
調整オッズ比は38.79でしたが、95%信頼区間は1.49~1007.89と非常に広く、症例数が少ないことには注意が必要です。
男性では36.0%、女性では28.6%でしたが、統計学的に明確な性差は示されていません。

この研究から最も慎重に言えるのは、
ヒトの過剰歯すべてが第三歯列なのではない。しかし、とくに小臼歯部や多数過剰歯では、第三歯列が退縮を免れて発育したと考えると整合する症例が多い
ということでしょう。
大江氏が1969年に否定的だった問題が、50年後に別の方法で再検討されたことになります。
過剰歯を作る仕組みは第三歯列だけではない
喜早氏らの2019年研究には、もう一つ重要な結果があります。
第三歯列以外の原因と分類された過剰歯の周囲では、SOX2陽性の歯原性上皮幹細胞が認められた症例がありました。
CK15、CK17など歯原性上皮の特徴に加え、SOX2やLGR5陽性細胞が確認されています。
一方、第三歯列由来と分類された症例ではCK17陽性上皮は認められたものの、SOX2やLGR5陽性細胞は確認されませんでした。
この結果は、ヒトの過剰歯形成に複数の経路が存在する可能性を示します。
一つは、
第三歯列として形成された次世代歯原基が退縮を免れて発育する経路。
もう一つは、
残存した歯原性上皮幹細胞が関与する別の歯形成経路。
成人の歯再生を考えるとき、この二つを同じものとして扱うことはできません。
第三歯列原基を再び発育させることと、成人まで残った歯原性上皮を新しい歯形成へ誘導することは、発生学的には別の問題です。
USAG-1研究は「本来消える歯」を救済するところから発展した
ここでUSAG-1へ戻ります。
USAG-1の作用を失わせた動物では、本来なら発育しきらずに消えていく痕跡的な歯が残り、過剰歯として発育することが分かってきました。
その後、BMP7とUSAG-1の関係、RUNX2とUSAG-1の拮抗、先天性歯欠如モデル、歯原性上皮幹細胞、USAG-1を標的とするsiRNAなど、歯数を分子レベルで制御する研究が積み重ねられました。
開発グループのレビューでも、BMP7-USAG-1、RUNX2-USAG-1、歯原性上皮幹細胞、第三歯列、USAG-1 siRNAへ続く研究の流れが整理されています。
「歯の数は発生時に決まって終わり」ではなく、
発育する歯と退縮する歯の境界を、分子シグナルが制御している。
そのブレーキの一つとしてUSAG-1が注目されるようになったわけです。
2021年、5種類の抗USAG-1抗体が比較された
2021年の Science Advances 論文は、現在のTRG035開発を理解するうえで重要な研究です。
研究では、
#12、#16、#37、#48、#57
という5種類のUSAG-1中和抗体が比較されました。
ここで重要なのは、単に「USAG-1を強く止めればよい」と考えられていなかったことです。
USAG-1はBMPとWntの双方に関係するため、それぞれの抗体がどのシグナルへの抑制を解除するのかが調べられました。
#16はUSAG-1とLRP6の相互作用をほぼ完全に阻害し、#48も部分的に阻害しました。
一方、#12、#37、#57はLRP6との結合にほとんど影響せず、USAG-1によるWnt抑制を十分には解除しませんでした。
それでも歯の欠損回復や一本の歯としての形成には、Wnt側よりBMPに対するUSAG-1の抑制を解除する方が大きな効果を示したと結論されています。

この点は、創薬として非常に重要です。
発生シグナルを広く刺激すればよいわけではありません。
歯形成に必要な作用を残しつつ、不要な別経路への影響をできるだけ避ける必要があります。
#37と#57にも違いがあった
歯形成作用を示した#37と#57も、同じ特徴を持つ抗体ではありません。
#37はUSAG-1上の特定領域を認識し、USAG-1によるWnt1抑制作用にはほとんど影響しませんでした。
一方#57では、USAG-1と同じDANファミリーに属するSOST、いわゆるsclerostinへの弱い交差反応が確認されました。
#37では、この交差反応は認められていません。
歯を形成させる能力だけでなく、抗原認識部位や他タンパクへの交差反応まで比較しながら臨床開発候補を選ぶ必要があることが分かります。
なお、この2021年論文から、
「実験抗体#37=現在のTRG035」
と断定することはできません。
#37や#57はTRG035開発につながった抗USAG-1研究を理解するうえで重要な実験抗体ですが、そのまま臨床開発品TRG035と同一視するのは避ける必要があります。
野生型マウスでは一本の歯が形成された
野生型マウスに#57を投与すると、上顎切歯、下顎切歯、臼歯部などで用量依存的に過剰歯が形成されました。
研究者らは、単回の全身投与によって一本の歯としての形成が誘導されたと報告しています。
また、EDA1欠損による先天性歯欠如モデルでは、BMP抑制解除を主とする#37、#57によって欠損していた歯が救済されました。
ここでも重要なのは、研究者らが「新しい歯胚を一から作った」と考えていないことです。
痕跡的に残っていた歯の原基がUSAG-1によって抑えられており、その抑制を解除することで発育したと考えています。
フェレットでは第三歯列様の歯が形成された
マウスは歯の交換様式がヒトとは異なるため、二生歯性動物での確認も必要になります。
そこで研究では、乳歯と永久歯を持つフェレットに#37を投与しました。
その結果、上顎切歯部に第三歯列のような過剰歯が形成されました。
その歯は通常の永久切歯に似た形を持ち、永久歯の舌側に位置し、短い歯根が発育しているように見えました。
ただし、実験条件は軽くありません。
マウスより5倍高い濃度、3回の抗体投与、さらに免疫抑制が必要でした。
したがって、
「フェレットでも一回注射すれば第三の歯が生えた」
と説明するのは不正確です。
それでも、ヒトと同じ二生歯性の非げっ歯類で、永久歯の舌側に第三歯列様の一本の歯が形成されたことには大きな意味があります。
実験抗体から臨床開発品TRG035へ
高橋克氏の日本薬理学会資料では、BMP・Wntシグナルに対する作用様式、抗原認識部位などを考慮しながら5種類の中和抗体に絞り込み、知的財産化したことが説明されています。
その研究成果を基盤として、2020年5月にトレジェムバイオファーマ株式会社が設立されました。
USAG-1タンパク質はヒト、マウス、ビーグル犬の間で約97%の高いアミノ酸相同性を持ち、抗USAG-1抗体による欠損歯の回復は先天性無歯症モデルマウスとビーグル犬でも確認されました。
さらに試験管内・動物での活性や予備毒性試験をもとに、ヒト抗USAG-1抗体の最終開発候補としてTRG035が選定されたとされています。
その後、PMDAのRS戦略相談を通じ、臨床試験へ進むための非臨床試験項目が決められました。

TRG035は、単に「動物で歯ができた抗体」をそのまま人へ投与しているわけではありません。
創薬候補としての選抜と非臨床評価を経て臨床開発へ進んでいます。
小児に投与する薬だからこそ、非臨床安全性が重要になる
歯の発生を操作する薬を、発育途中にある子どもへ投与する。
当然、安全性評価は大きな課題です。
2024年のAMED開発資料では、TRG035についてEda1KO、Wnt10A KOなどの先天性歯欠如モデルマウス、ビーグル犬、野生型マウスを用いた薬効試験が実施済みとされています。
安全性薬理では、サルの2週間反復投与毒性試験と6週間回復試験の中で心血管系・呼吸器系を評価し、マウスでは中枢神経系を評価しています。
一般毒性としてはマウス、サルの単回投与予備毒性試験、2週間反復投与毒性試験+6週間回復試験、さらにヒト組織交差性試験が実施済みと記載されています。
トキシコキネティクスや抗薬物抗体も、反復投与試験の中で評価されています。
しかし、小児治験との関係で特に気になる項目があります。
幼若マウス毒性試験は「第II相前まで」と計画されていた
同じAMED資料には、
「幼若マウス毒性試験(予試験、本試験) 実施予定(第II相前まで)」
と明記されています。
現在、TRG035はまさに小児を対象とする第IIa相へ進もうとしています。
したがって、幼若動物でどのような安全性評価が行われたのかは非常に重要です。
一方、2026年8月20日時点の公開資料では、幼若マウス毒性試験の具体的な用量、観察期間、毒性所見、無毒性量などの結果値は示されていません。
ここは推測で補うべきではありません。
現在公開されている範囲で言えるのは、
開発計画上、第II相前までに幼若マウスを用いた予備試験・本試験を行う予定とされていた
というところまでです。
2024年、TRG035は人への投与へ進んだ
TRG035の第I相試験は、
jRCT2051240154
治験実施計画書番号 IACT21031
として行われました。
公開情報では、30歳以上65歳未満の健康成人男性で、臼歯の欠損または欠如を1本以上持つ人を対象とし、TRG035またはプラセボを単回静脈投与しました。
設定された用量は、
0.4mg/kg、1.2mg/kg、4.0mg/kg、12.0mg/kg、24.0mg/kg
です。
主要評価項目は安全性、副次評価項目は薬物動態と血清抗TRG035抗体でした。
京都大学医学部附属病院Ki-CONNECTで実施され、治験責任医師は中島貴子氏です。
第I相の主目的は、「人間で歯が生えるか」を証明することではありません。
まず、人に投与したときの安全性と薬物動態を調べる段階です。
第I相は完了した――しかし詳細な臨床データはまだ見えない
2025年9月には最終被験者のデータ回収が完了したとされ、同年10月23日には京都大学の治験審査委員会でモニタリング・監査結果報告が審議されています。
そして2025年11月27日、トレジェムは国内第I相試験が完了し、安全性を確認したと公式発表しました。
これは重要な前進です。
一方、2026年8月20日時点で公開されている資料には、用量別の有害事象・重篤な有害事象の詳細集計、臨床検査値、心電図・バイタル、Cmax・AUC・半減期などの具体的な薬物動態値、抗薬物抗体や中和抗体の陽性率、歯・歯胚の画像変化、査読済み第I相結果論文などは示されていません。
したがって現時点では、
「第I相で人の歯が生えた」
とは言えません。
また、
「30人全員に有害事象が一件もなかった」
とも言えません。
公式に公表されている「第I相を完了し、安全性を確認した」という情報と、個々の有害事象や薬物動態の詳細データが公開されていることは別です。
第I相終了後も「第3生歯」への影響を2030年まで追跡する
成人第I相終了後にも興味深い研究が続いています。
北野病院では研究番号2501011、
「MRIイメージングバイオマーカー開発とPI試験後観察研究」
が行われています。
第I相被験者を対象として、試験終了後も歯科検査・画像検査を行い、第3生歯への影響および安全性を長期観察する研究で、研究期間は2030年までとされています。
この研究が存在することは、
「第I相参加者に第三歯列が形成された」
ことを意味しません。
第I相終了後も、第3生歯への影響と安全性を画像検査などで長期間追跡する研究が組まれている、ということです。現時点でその歯胚変化の結果は公開されていません。
TRG035が効いたかを「歯が生えるまで待つ」わけにはいかない
小児治験では、もう一つ大きな問題があります。
歯胚の発生が再開したとしても、翌日に歯が口の中へ出てくるわけではありません。
初期歯胚が石灰化してX線で明瞭に見えるまでにも時間がかかり、最終的な萌出まで待てば何年も必要になります。
そこで重要になるのが、画像バイオマーカーです。
2026年の Journal of Oral Biosciences では、TRG035など先天性無歯症の再生治療を評価するため、MRIとCT・X線を組み合わせて、石灰化前の歯堤や初期歯胚まで観察する方法が報告されています。
0~25日齢のフェレットで、歯胚がいつ画像に見えるのかを対応させた
この研究ではまず、0~25日齢のフェレットを用い、組織学的な発生段階とmicro-CT所見を対応させています。
歯堤から蕾状期、帽状期、鐘状期へ進み、やがて石灰化が始まる。
どの段階からX線系画像で検出できるようになるのか、どの時期までは軟組織として観察する必要があるのかが調べられました。
2~5歳頃のヒトでは、石灰化前の非常に早期の歯胚をX線だけで評価することは難しい。
そこでMRIを使い、石灰化していない歯堤や歯胚を軟組織として捉えます。
23人・26回分のMRIから、AIで歯胚を3次元化する
ヒトでは2~6歳の23人の頭部MRIが用いられました。
3人は2回分のMRIデータがあったため、合計26シリーズ。
23シリーズを学習データ、3シリーズを検証データとして、歯胚を自動認識する深層学習モデルが構築されています。
MRIの2次元画像を一枚ずつAIで分割・認識し、それを積み重ねて歯胚を3次元再構築する。
これによって、
どこに歯胚があるのか
だけではなく、
その歯胚がどれくらいの体積を持っているのか
まで計測できます。

これはTRG035にとって極めて重要です。
投与後に歯が萌出するまで何年も待たなくても、
停止していた歯胚がもう一度成長を始めたか
を比較的早い段階で確認できる可能性があるからです。
「歯が出たか」ではなく「発生が次の段階へ進んだか」を見る
MRIとCT・X線を組み合わせることで、
歯堤、蕾状期、帽状期、鐘状期初期、鐘状期後期、石灰化、萌出
へ続く歯胚の発生段階を評価することができます。
さらに、2回以上のMRIで同じ歯胚の体積を比較すれば、本当に歯胚が成長しているかを定量的に評価できます。
論文では、歯種によって歯胚の成長を評価できる時期は異なり、およそ1~2年から3~5年程度の幅があることも示されています。
この画像評価法は、TRG035の臨床試験で治療効果を確認するだけでなく、
その患者の歯胚がどの発生段階で止まっているのかを調べ、投与に適した時期を判断する
ためにも利用できる可能性があります。
つまり「歯が生える薬」の臨床試験では、
完成した歯が突然出てくるかを見るのではありません。
止まった歯の発生が、再び一段ずつ進み始めるかを見る。
これが実際の評価に近いのです。
人間ですでに「歯形成を救済した」別の例もある
なお、TRG035を「人間で初めて歯を再生する可能性のある治療」と単純化するのも適切ではありません。
2026年の画像バイオマーカー論文では、EDA変異を持つ患者に対するrEDAタンパク補充療法で、永久歯形成の救済が確認された先行例にも触れられています。
これはUSAG-1抗体とは別の治療法ですが、
発生途中で停止した歯形成を治療によって再び進める
という考え方が、完全にTRG035だけの仮説ではないことを示しています。
TRG035の特徴は、USAG-1という歯数制御に関わる分子を抗体で標的とし、より広い先天性歯欠如への応用を目指している点にあります。
2026年8月、いよいよ小児の第IIa相試験へ
そして現在地です。
TRG035の第IIa相試験TR-002は、
小児重症型先天性部分無歯症患者
を対象とする非対照・非盲検・多施設共同の用量探索試験で、目標症例数は24例です。
2026年8月17日、PMDAによる治験計画届の所定の調査が完了し、今後は各実施医療機関の治験審査委員会による審査などを経て、被験者の組み入れ・治験薬投与へ進む予定とされています。
ここで言葉には注意が必要です。
「PMDAの調査完了」は、TRG035の有効性が認められたという意味ではありません。
また、医薬品として承認されたという意味でもありません。
これから実際の患者に投与し、有効性と安全性を探索する段階へ進む、ということです。
北野病院の歯再生治療研究サイトでは、P1試験はすでに終了し、P2試験は2026年冬ごろの開始を予定していると案内されています。
トレジェムバイオファーマの2026年8月17日の発表では、治験実施医療機関の治験審査委員会による審査などを経て被験者の組み入れ・投与を開始するとされているため、現在はまさに小児患者への投与開始に向けた準備段階にあると考えるのが適切でしょう。
過去の第II相計画と、現在のTR-002は同じではない
以前のAMED開発資料には、第II相試験案として、2~6歳、WNT10A変異またはEDA変異、12~20例、低用量群と4.0mg/kg群、安全性・薬物動態・有効性を評価する計画が記載されていました。
しかし、これは当時の臨床試験パッケージ案です。
現在公式に発表されたTR-002は目標24例であり、旧計画から変更されています。
したがって、
「TR-002は2~6歳限定である」
「低用量群と4mg/kg群で実施される」
などと、旧計画の内容を現在の治験プロトコルとして扱うことはできません。
ただし、その後に公開された北野病院の歯再生治療研究サイトでは、もう少し具体的な対象像も示されています。
同サイトでは、治験の第2段階について、レジストリ登録者の中から、4本以上の先天性欠如歯がある2歳~7歳の小児を対象とすると説明されています。
一方、2026年8月17日にトレジェムバイオファーマ株式会社が公表した現在の第IIa相試験TR-002は、小児重症型先天性部分無歯症患者24例を対象とする、非対照・非盲検・多施設共同の用量探索試験です。
したがって、以前のAMED資料に記載されていた2~6歳、WNT10A変異またはEDA変異、12~20例、低用量群と4.0mg/kg群という旧計画を、そのまま現在のTR-002の治験プロトコルとして扱うことはできません。
北野病院の研究サイトからは現在の第2段階の対象年齢と欠如歯数について追加情報が得られますが、実際の投与用量、詳細な選択・除外基準、主要・副次評価項目、画像評価の時期、追跡期間など、TR-002の完全なプロトコルについては、今後の公開情報を確認する必要があります。
第IIa相で本当に問われるのは「歯胚が再び動くのか」
TR-002の詳細評価項目はまだ公開されていませんが、この研究開発全体が最終的に確かめようとしている生物学的問題は明確です。
TRG035を投与すると、発生途中で停止していた歯胚が再び発育するのか。
それが次の発生段階へ進むのか。
歯胚の体積が増えるのか。
歯冠形成へ進むのか。
歯根形成へ進むのか。
そして最終的に萌出するのか。
さらに、新しく形成された歯が正常な歯種・形態を持つのか、適切な方向へ萌出するのか、隣在歯を圧迫しないのか、歯髄・歯根膜・歯槽骨との関係が正常なのかという問題もあります。
フェレットで形成された第三歯列様切歯は永久切歯に似ていましたが、歯根は短く発育しているように観察されています。
「一本の歯を形成できる」ことと、「正常な位置に正常な形態で萌出し、長期間咬合機能を担う歯を作れる」ことは同じではありません。
第IIa相以降では、この間をどこまで埋められるかが重要になります。
では、大人が虫歯や歯周病で失った歯も生えてくるのか
一般の患者さんにとって、最も気になるのはここでしょう。
虫歯で抜歯した歯。
歯周病で失った歯。
外傷でなくなった前歯。
インプラントやブリッジではなく、もう一度自分の歯を作ることができるのか。
2026年8月20日現在の答えは、
まだ分かりません。
TR-002が対象としているのは、成人の後天的歯牙欠損ではありません。
小児重症型先天性部分無歯症です。
北野病院の研究サイトでも、この点は明確に区別されています。
Q&Aでは、「虫歯や抜歯や事故などで後天的に歯が無くなった人でも治験に参加できるのか」という質問に対し、現在の研究は生まれながらに歯の欠如がある人を対象とした治療薬の開発であり、対象者以外は参加できないと説明されています。
つまり、将来的な成人の後天的歯牙欠損への応用構想と、現在進んでいる先天性無歯症の臨床試験は、明確に分けて考える必要があります。
先天性無歯症では、発生途中で停止した歯胚という治療標的を想定できます。
しかし、成人の抜歯後では、
何を再び動かすのか
という問題そのものが未解決です。
正常成人に「使える第三歯列」が残っているとはまだ証明されていない
ここまでの研究をつなぐと、かなり魅力的な仮説が見えてきます。
Röseは胎児で永久歯のさらに次へ続く後継歯堤を観察しました。
大江規玄氏は胎児・乳幼児で、永久歯胚の舌側に第三歯列の原基と考えられる上皮構造を認めました。
一方、永久歯萌出後の12~24歳では、その構造は確認できませんでした。
二生歯性では第二世代形成後、歯堤を積極的に退縮させる仕組みがあります。
CCDでは、後継歯堤の退縮不全・遅延が追加歯形成を説明する機序として提案されており、ほぼ完全な追加歯列や第四・第五大臼歯が形成されることがあります。
CCDという特殊な条件では、58歳でも歯原性上皮が残存していました。
さらに喜早ほのか氏らの研究では、一部のヒト過剰歯、とくに小臼歯部で第三歯列由来と考えるとよく整合する症例が多く認められました。
ここまでは研究で裏づけられています。
しかし、
「健康な成人全員に、TRG035で発育させられる第三歯列原基が残っている」
という証拠はありません。
この一線を越えてしまうと、科学的な説明ではなく期待の先取りになってしまいます。
成人歯再生では「第三歯列」と「残存歯原性上皮」を分けて考える必要がある
さらに、成人で新しい歯を作るために利用できる組織が、必ず第三歯列原基とは限りません。
喜早氏らの2019年研究では、第三歯列以外の機序と考えられた過剰歯に、SOX2陽性の歯原性上皮幹細胞が認められました。
CCDでは、成人の完成歯周囲にも歯原性上皮が残ることがあります。
したがって将来的な成人歯再生には、
第三歯列という「次世代歯の原基」を再び発育させる方法
と、
成人まで残存する歯原性上皮や幹細胞性組織を、新しい歯形成へ誘導する方法
という、少なくとも二つの異なる可能性があります。
そして現在のTRG035小児開発は、そのどちらとも完全に同じではありません。
現時点で最も直接的に狙っているのは、
すでに始まっているものの途中で停止した先天性無歯症の歯胚形成を救済すること
です。
この三者を分けて考えると、「歯が生える薬」という言葉の中身がかなり見えやすくなります。

もし歯が再生できても、歯科医療が不要になるわけではない
仮に将来、成人でも新しい歯を再生できるようになったとしても、「歯科医師が不要になる」という話にはならないでしょう。
歯が形成されれば終わりではありません。
どこに形成されたのか。
どの方向を向いているのか。
歯列内へ正常に萌出できるのか。
萌出スペースはあるのか。
隣在歯や神経、上顎洞などとの位置関係はどうか。
咬合は成立するのか。
形成後の歯を虫歯や歯周病からどう守るのか。
こうした問題は残ります。
むしろ歯の再生が本当に可能になれば、歯科医療は、
「失った歯を人工物で置き換える医療」
に加えて、
「新しく形成された生体の歯を適切な位置へ育て、萌出させ、機能させ、維持する医療」
へ広がっていくのかもしれません。
「歯が生える薬」という言葉は間違いなのか
私は、この表現を完全に間違いだとは思いません。
もしTRG035によって発育停止していた歯胚が再び成長し、
蕾状期から帽状期へ、
帽状期から鐘状期へ、
歯冠を作り、
歯根を作り、
顎骨内を移動し、
最終的に口腔内へ萌出すれば、
患者さんから見れば、
「なかった歯が生えた」
ことになります。
ただし、生物学的にはもっと面白い現象です。
TRG035は、歯の設計図を一から作る魔法の薬というより、
人間がもともと持っている歯形成プログラムのうち、途中で停止したものをどこまで薬理学的に再始動できるのか
を試す治療だからです。
そして成人の歯牙欠損にまで応用を広げるためには、
第三歯列原基が正常成人でどこまで残るのか。
残存歯原性上皮を利用できるのか。
歯種、位置、数、方向をどこまで制御できるのか。
形成した歯を正常に萌出させられるのか。
という、さらに大きな問題が待っています。
1895年の顕微鏡から、2026年の抗体治験へ
1895年、Röseは満期胎児の顕微鏡標本で、永久歯のさらに先へ続く後継歯堤を記載しました。
1969年、大江規玄氏はヒトの連続組織切片を追い、永久歯胚の舌側に第三歯列原基と考えられる上皮構造が現れ、発育に伴って位置を変えることを示しました。
しかし、永久歯萌出後にはその構造を確認できませんでした。
CCDでは、通常なら退縮する歯堤が残存・再活性化するという仮説で説明できるほど規則正しい追加歯が形成され、時にはほぼ完全な第三歯列や第四・第五大臼歯まで現れます。
現代の発生学は、二生歯性動物が次世代の歯を作り得る歯堤を積極的に解体していることを明らかにしました。
2019年、喜早ほのか氏らは、ヒトの一部の過剰歯、とくに小臼歯部で第三歯列由来という説明が強く支持されることを示しました。
2021年には、USAG-1を抗体で中和することで、動物の発育停止・痕跡的歯原基を救済し、マウスで一本の歯を形成し、フェレットで第三歯列様の歯を形成できるところまで進みました。
そこからTRG035が臨床開発候補として選ばれ、第I相で健康成人への投与が行われました。
そして2026年8月、小児重症型先天性部分無歯症患者24例を目標とする第IIa相試験TR-002が、被験者への投与を準備する段階まで進んでいます。

2030年の実用化を目標に、P2・P3・承認申請へ
北野病院の歯再生治療研究サイトでは、TRG035を含む先天性無歯症治療薬の今後の開発予定も示されています。
現在の計画では、2026~2028年にP2a・P2b試験を行い、有効性と安全性を確認し、2027~2029年には対象患者数を増やしたP3試験へ進む予定です。その後、2029年に国内承認申請を行い、2030年に国内で処方薬として患者さんへ届けることを目標としています。
また、現在の第2段階では4本以上の先天性欠如歯がある小児が対象とされていますが、将来的には先天性欠如歯が3本以下の患者にも適応を拡大することを目指すとされています。
もちろん、これは承認や上市が確定したという意味ではありません。臨床試験で有効性と安全性を確認し、承認審査を通過することが前提です。
それでも、かつては基礎研究として語られていた「歯数を薬で制御する」という考え方が、現在では具体的な治験計画と承認申請・実用化のロードマップを持つ段階まで進んでいることになります。
まとめ――TRG035が問いかけているのは「人間は何世代まで歯を作れるのか」
TRG035について、現時点で分かっていることと、まだ分からないことを分けて考える必要があります。
ヒトでは発生期に、永久歯よりさらに次へ続き得る第三歯列の上皮性原基が形成されることが、Röseや大江規玄氏の研究によって示されています。
しかし、正常な永久歯萌出後の若年者では、大江氏は第三歯列由来の上皮を確認できませんでした。
二生歯性動物では、第二世代形成後の歯堤退縮がさらなる歯世代形成を防ぐ重要な仕組みと考えられています。
CCDでは、後継歯堤の退縮不全・遅延が追加歯形成を説明する機序として提案され、ほぼ完全な追加歯列や第四・第五大臼歯が形成されることがあります。特殊な条件では、成人になっても歯原性上皮が残存し得ます。
喜早ほのか氏らの2019年研究では、過剰歯の一部、とくに小臼歯部で第三歯列由来という臨床的分類と強く整合する結果が得られました。
USAG-1を中和する抗体は、動物で発育停止・痕跡的歯原基を救済し、一本の歯として発育させることができます。
その研究から臨床開発品TRG035が選定され、成人第I相を経て、現在は小児重症型先天性部分無歯症を対象とする第IIa相試験へ進もうとしています。
しかし、
第I相で人の歯が生えたという公開証拠はまだありません。
小児患者でTRG035が実際に新しい歯の形成・萌出につながるかは、これから検証されます。
正常成人の抜歯部位にTRG035を投与すれば、新しい歯が再生することもまだ証明されていません。
それでも、1895年に顕微鏡で観察された「永久歯のさらに次へ続く上皮」と、2026年の抗体医薬品の臨床試験が、130年以上の時間を隔てて同じ研究史の中に並んだこと自体が非常に興味深いと思います。
人間の歯は、本当に乳歯と永久歯の二世代しか「作れない」のでしょうか。
それとも、三世代目を作る可能性は発生途中まで用意されていて、通常はそれを自ら退縮させているのでしょうか。
そして、その途中で停止した歯形成プログラムを、薬で再び動かすことはできるのでしょうか。
TRG035の第IIa相試験は、USAG-1という歯数制御に関わる分子を標的とする抗体医薬によって、
「停止したヒトの歯形成を、もう一度動かせるのか」
を患者で本格的に検証する段階でもあります。
「歯が生える薬」という一言だけでは、この研究の面白さの半分も伝わらないのかもしれません。
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- トレジェムバイオファーマ株式会社. 国内におけるTRG035第I相臨床試験完了および安全性確認に関する公表資料. 2025年11月27日.
- 公益財団法人田附興風会 医学研究所北野病院. MRIイメージングバイオマーカー開発とPI試験後観察研究. 研究番号2501011.
- トレジェムバイオファーマ株式会社. TRG035第IIa相試験に係る治験計画届のPMDA調査完了に関するお知らせ. 2026年8月17日.
- 公益財団法人田附興風会 医学研究所北野病院. 歯をふやす薬の研究「研究について」.
- 公益財団法人田附興風会 医学研究所北野病院. 歯をふやす薬の研究「Q&A」.
