2026年5月31日

(院長の徒然コラム)

はじめに
智歯は、日常臨床では「親知らず」として患者さんに説明されることが多い歯です。
しかし専門的に見ると、第三大臼歯ほど、顎骨の成長、歯列後方のスペース、第二大臼歯との関係、神経や上顎洞との位置関係、そして外科的介入の判断が重なり合う歯は多くありません。
単に「生えているか」「埋まっているか」「横を向いているか」だけではなく、なぜその位置にあるのか、今後どのような病変につながるのか、処置そのものにどのようなリスクがあるのかまで含めて評価する必要があります。
まず整理しておきたいのは、智歯における「変位」という言葉には、少なくとも二つの意味があるという点です。
一つは、萌出過程の中で歯軸がずれ、近心傾斜、水平位、遠心傾斜、頬舌側偏位、埋伏という形で現れる位置異常です。
もう一つは、抜歯操作中に歯牙や歯根片が顎下隙、舌下隙、側頭下窩、上顎洞などへ迷入する偶発症としての変位です。
この二つは同じ「変位」と表現されることがありますが、発生機序も予防も対応も異なります。
したがって、診断の段階では、発育上の位置異常としての変位と、外科処置に伴う偶発的変位を分けて考えることが大切です。

下顎智歯の萌出を左右する後方スペース
下顎智歯の萌出を考えるうえで、最も基本となるのは後方の萌出余地です。
第三大臼歯は第二大臼歯の遠心に位置しますが、そのさらに後方には下顎枝前縁があります。
つまり、下顎智歯が正常に萌出するためには、第二大臼歯遠心面と下顎枝前縁の間に、智歯の歯冠幅径を受け入れるだけの空間が必要になります。
下顎骨の成長や下顎枝前縁の吸収によって十分な空間が獲得される症例もありますが、その量には個体差があります。
萌出余地が不足すれば、智歯は垂直に萌出できず、近心に傾斜し、第二大臼歯遠心面に接触し、半埋伏あるいは水平埋伏として臨床的に認識されます。
この点について、20代の下顎智歯を対象としたX線学的観察は非常に示唆的です。
同研究では、20代学生642名に認められた下顎智歯1028歯について、歯軸傾斜角度、萌出の程度、下顎管との関係、歯根数、萌出余地が評価されています。
その結果、下顎智歯の72.2%が近心傾斜傾向を示し、萌出余地が智歯歯冠幅径より狭いクラス2が57.4%を占めたとされています。
これは、近心傾斜した下顎智歯が決して特殊な異常ではなく、後方空間の不足を背景に高頻度で現れる臨床像であることを示しています。

智歯の問題は第二大臼歯の問題でもある
ただし、近心傾斜や水平埋伏を「抜きにくい歯」としてだけ捉えるのは不十分です。
智歯の歯冠が第二大臼歯遠心面に接触している場合、問題は智歯単体にとどまりません。
清掃困難な環境が形成され、第二大臼歯遠心う蝕、遠心歯周ポケット、外部吸収が進行することがあります。
特に半埋伏智歯では、患者さんに強い症状がなくても、第二大臼歯の遠心面に不可逆的な病変が進んでいることがあります。
近年の研究でも、埋伏智歯は隣在第二大臼歯の遠心う蝕や外部吸収と関連し得ることが示されています。
このため、智歯の診断では「智歯を抜くかどうか」だけでなく、「第二大臼歯をどう守るか」という視点が欠かせません。
智歯そのものには症状がなくても、第二大臼歯遠心部にう蝕や歯周病変、吸収が認められる場合、介入の意義は大きくなります。
逆に、完全骨性埋伏で周囲組織に病変がなく、神経や上顎洞との関係から外科侵襲が大きい症例では、慎重な経過観察が妥当な場合もあります。
智歯の管理は、単純な「抜歯か保存か」ではなく、病変リスクと処置リスクの比較で決めるべきです。
分類は入口であり、最終判断ではない
Winter分類やPell and Gregory分類は、現在でも智歯診断の共通言語として有用です。
歯軸の方向、下顎枝前縁との関係、咬合平面に対する深さを整理することで、症例の全体像を短時間で共有できます。
紹介状や術前説明においても非常に便利です。
しかし、それらの分類だけで実際の抜歯難度や合併症リスクを正確に予測できるわけではありません。
歯根の湾曲、歯根数、肥大、骨の硬さ、開口量、炎症既往、患者年齢、術者の経験、そして頬舌的位置関係は、分類表だけでは十分に表現できません。
第三大臼歯抜歯の難度評価では、既存の分類を参考にしつつも、それだけに依存しない総合的な術前判断が必要になります。

下顎管・舌側皮質骨・CBCT評価
下顎智歯では、特に下顎管との関係と舌側皮質骨の状態が重要です。
パノラマX線写真で下顎管との重なりが疑われる場合、二次元画像だけでは、根尖と下顎管が本当に接しているのか、頬側に離れているのか、舌側に偏位しているのかを判断しにくいことがあります。
CBCTは、下顎管との三次元的位置関係、皮質骨の連続性、舌側皮質骨の菲薄化、歯根の頬舌的偏位を確認するうえで有用です。
パノラマ所見はスクリーニングとして重要ですが、外科リスクが高い症例では、三次元的な情報を加えることで術式の選択がより現実的になります。
この頬舌的な位置関係は、抜歯中の偶発的変位とも関係します。
歯根が舌側に偏位している症例や、舌側皮質骨が薄い症例では、挺子操作や分割方向によって歯根片が舌側軟組織方向へ迷入する可能性があります。
上顎智歯では、上顎洞や側頭下窩との関係が問題になります。
つまり、萌出異常として見えていた位置の問題は、外科処置の段階では迷入リスクとして表面化することがあります。
抜歯中の偶発的変位をどう考えるか
第三大臼歯の抜歯中に起こる偶発的変位については、近年のシステマティックレビューが参考になります。
同レビューでは50論文63症例が検討され、上顎智歯では側頭下窩への変位が多く、下顎智歯では顎下隙や舌下隙への変位が多いとされています。
また、変位の背景には、歯の位置、解剖学的空隙への近接、骨皮質の状態、視野不良、過剰な力、不適切な器具操作、術者経験などが関与し得ると考えられています。
診断にはCBCTが有用であり、変位後の正確な局在診断が重要とされています。
ここで強調したいのは、迷入が起きた場合に、その場で無理に追いかけることが常に正解とは限らないという点です。
位置確認が不十分なまま深部へ探索を進めると、さらに歯牙や歯根片を押し込んでしまったり、出血、神経損傷、感染拡大を招いたりする可能性があります。
先ほどのレビューでも、変位が起きた場合には即時摘出か待機的摘出か、あるいは症状とリスクによっては経過観察かを、個別に評価すべきとされています。

無症候の埋伏智歯をどう扱うか
では、無症候の埋伏智歯はどこまで積極的に介入すべきでしょうか。
この問題は、現在でも考え方が分かれています。
病変のない埋伏智歯を一律に予防的抜歯すべきではないという立場もあれば、将来的な病変リスクや加齢による抜歯難度の上昇を重視する立場もあります。
また、無症候かつ病変のない埋伏智歯については、抜歯すべきか保存すべきかを決める十分なエビデンスはないという整理もあります。
このような背景を踏まえると、現実的な結論は「全例予防的に抜く」でも「症状が出るまで放置する」でもありません。
智歯周囲炎の既往、第二大臼歯遠心う蝕、歯周ポケット、外部吸収、嚢胞性変化、清掃性、年齢、根形成、下顎管や上顎洞との関係、患者さんの通院継続性まで含めて、個別に判断することが重要です。
特に若年者では、根形成や骨の柔軟性、治癒能力の点で外科的介入が比較的行いやすい場合があります。
一方、高年齢では骨硬化、癒着傾向、全身疾患、術後合併症が問題になることもあります。
智歯診療では、現在の状態だけでなく、数年後にどのようなリスクが増えるかを読む時間軸が必要です。
智歯と下顎前歯叢生は分けて考える
また、智歯と下顎前歯叢生の関係については、説明に注意が必要です。
第三大臼歯が下顎前歯の叢生に関与する可能性を示す報告はありますが、その関連をもって直ちに全例の予防的抜歯を正当化できるほど単純ではありません。
したがって、「前歯がガタガタになるから親知らずは抜く」という説明だけで抜歯適応を語るのではなく、第二大臼歯への影響や智歯周囲の病変とは分けて考えるべきです。
私自身は、智歯を診るときに、最初から「抜くか抜かないか」の二択で考えないことが大切だと思っています。
まず、なぜその位置にあるのかを読みます。
後方スペースは足りているのか、歯軸はどちらを向いているのか、第二大臼歯に接触しているのか、下顎管や上顎洞との距離はどうか、舌側皮質骨は保たれているのか。
そこまで見たうえで、現在すでに病変があるのか、今後病変が起こりやすいのか、処置そのもののリスクはどの程度なのかを考えます。
智歯診療の本質は、介入と観察の境界を見極めること
智歯は「よくある歯」ですが、決して軽く扱ってよい歯ではありません。
萌出できなかった背景には、下顎骨の成長、下顎枝前縁との関係、歯列後方空間の不足が関わっています。
近心傾斜や水平埋伏は、抜歯難度だけでなく、第二大臼歯の保存可能性にも影響します。
さらに、抜歯時には周囲の解剖学的空隙への偶発的変位という外科的問題にもつながり得ます。
智歯の萌出と変位を正しく捉えることは、第三大臼歯そのものの診断にとどまりません。
第二大臼歯を守り、不要な外科侵襲を避け、必要な時期に必要な介入を行うための臨床判断そのものです。
だからこそ、親知らずの診断では、画像上の角度だけを見るのではなく、その歯がなぜそこにあり、今後何を起こし得るのかを読む姿勢が求められます。
智歯診療の本質は、抜歯技術だけではなく、介入と観察の境界を見極める診断力にあるのだと思います。
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