2026年9月14日

(院長の徒然コラム)

はじめに
2026年9月9日、Science Advancesに、歯科医師として非常に気になる研究が掲載されました。
舞台はインドネシア・南スラウェシ。
農耕が始まるよりはるか前に生きた狩猟採集民2個体の歯に、普通の食事による咬耗とはかなり様子の違う、深く丸みを帯びた特殊な摩耗が残っていました。
古い方の個体は約25,000〜16,000年前。もう一人は約7,600〜6,300年前です。
研究者たちは、歯の摩耗形態だけで結論を出したわけではありません。
歯のどこが、どのように削れているのか。何年も同じ行動を繰り返した痕跡なのか。その歯に植物由来の化学物質は残っていないのか。さらに、候補となった植物を丸ごと口に含むだけでも、生理作用に関係する成分が外へ出てくるのか。
そうした証拠を一つずつ積み上げた結果、浮かび上がったのが、ビンロウの種子を丸ごと口の中へ入れ、歯の間に保持しながら、長時間吸ったり軽くかじったりしていたのではないかという仮説です。
しかも、二人から採取した一部の歯試料からは、ビンロウに含まれる主要アルカロイドの一つ、arecoline(アレコリン)が検出されました。
さらに一方の個体CPL-R2aでは、歯の摩耗が象牙質を越えて進み、複数箇所で歯髄腔が露出し、長期間の慢性感染まで起きていたと報告されています。
ここまででも十分に強烈な話です。
しかし、歯科医師としてもう一つ引っかかる言葉があります。
betel nut。
つまり、現代の口腔医学では口腔粘膜下線維症や口腔がんとの関連でよく知られているビンロウです。
2万年以上前には、ひょっとすると「痛みを紛らわせるため」に使われていたかもしれない植物を、現代の歯科医師は「口腔がんの重要なリスク因子」として知っている。
今回は、古代人の歯列に残った奇妙な摩耗から、人類と向精神性植物、歯痛、習慣、依存、そして現代の口腔がんまでをたどってみます。
「ビンロウ」「areca nut」「betel nut」「betel quid」は同じものではない
最初に言葉を整理しておきます。
今回の話は、名称を曖昧にすると途中からかなり分かりにくくなります。
ビンロウはヤシ科の植物で、現在もっとも広く利用されている種の一つがAreca catechuです。
その果実の中にある種子がareca nutです。日本語ではビンロウの実、檳榔子などと呼ばれます。
そして英語では、このareca nutが一般にbetel nutとも呼ばれています。
ところが、本来の「betel」は別の植物です。
betel leafはキンマ、すなわちPiper betleの葉を指します。
現代の典型的なbetel quidは、areca nutに消石灰を加え、betel leafと組み合わせて使用するものです。地域によって香辛料、カテキュー、タバコなどが加わる場合もあります。
つまり、areca nut=ビンロウの種子と、betel leaf=キンマの葉は別物です。
今回の古代人について研究者が推定しているのは、こうした現代型のbetel quidを噛んでいたという行動ではありません。
想定されているのは、脱殻したAreca属の種子を丸ごと口腔内へ入れ、歯の間に保持しながら吸う行動です。
原著ではこれを“betel nut sucking”と表現しています。

2万5000〜1万6000年前の歯に残っていた、普通ではない摩耗
最も古い個体Maros-LBB-1aは、南スラウェシのLeang Bulu Bettue遺跡から出土しました。
年代は約25,000〜16,000年前と推定されています。
したがって、ここでいう「2万5000年前」は、この年代幅の最も古い側を使った表現です。「ちょうど25,000年前に亡くなった人物」と判明しているわけではありません。
もう一人のCPL-R2aはLeang Cappalombo 1から出土し、約7,600〜6,300年前と推定されています。
二人の歯で研究者が注目したのが、通常の咀嚼によって生じる咬耗とは異なる、特殊な円周状の歯質喪失でした。
とくにCPL-R2aでは、臼歯だけではなく、小臼歯や犬歯などにも深く丸みを帯びた摩耗が認められています。
ただ上下の歯が噛み合って平らになったわけではありません。
何か硬い物体を歯の横や歯間へ繰り返し当て、その物体を移動させながら長期間保持していたことを思わせる形態です。
研究者は摩耗の形と大きさから、直径約10〜20mm程度の硬い球状物を反復して歯の間へ保持していた可能性を考えました。
歯は、本人が生前に何度も繰り返した行動を、驚くほど長く記録することがあります。
以前、ネアンデルタール人の歯に残された「歯科治療」の可能性について紹介しましたが、考古歯科学では、歯面に残った摩耗や溝、微細な傷から、食生活だけではなく「歯を道具のように使った」「何かを歯間へ繰り返し通した」といった行動まで推定されることがあります。
2025年のAmerican Journal of Biological Anthropologyの研究でも、古人骨にみられるいわゆるtoothpick grooveについて、植物繊維、木、骨などを繰り返し歯間へ通し、食片を除去したり、歯の不快感を軽減したりした可能性が長く議論されていることが整理されています。
ただし、ここには重要な注意点があります。
歯の溝の形だけを見て、その原因を一つに決めることはできません。
今回の円周状摩耗を、一般的なtoothpick grooveや現代歯科のNCCLと同一視することもできません。
ただ、歯に残った反復的な摩耗から、生前の行動を復元するという方法論そのものには共通点があります。
虫歯ではない歯質欠損、NCCLについて扱った記事でも触れていますが、現代歯科においても、歯の欠損形態だけを見て「原因はこれ」と短絡することには注意が必要です。
今回の研究が面白いのは、そこから先へ進んだことにあります。

硬い球状物の候補として浮かんだAreca属の種子
では、古代人が口の中で反復的に操作していた硬い球状物は何だったのでしょうか。
候補の一つとして研究者が挙げたのが、Areca属の種子です。
歯に残った摩耗のサイズは、比較的小型の野生Arecaの脱殻種子とも整合します。
原著では、その例として南スラウェシにも分布するAreca triandraが挙げられています。
ただし、この二人が使用していた植物がA. triandraだったと同定されたわけではありません。
歯の摩耗の大きさや地域に存在する植物相からみて、候補になり得るという話です。
もし証拠が歯の形態だけなら、ここで話はかなり推測的なままだったでしょう。
そこで研究者は、古代の歯そのものを化学分析しました。
古代の歯からarecolineが検出された
研究チームは、古代歯試料を液体クロマトグラフィー質量分析、LC-MSで解析しました。
Maros-LBB-1aでは、顎骨内に残っていた第二大臼歯を用いた試料からarecolineが検出されています。
CPL-R2aでも、円周状摩耗を持つ完全歯から得た試料でarecolineが検出されました。
arecolineは、Areca属の種子に含まれる代表的なアルカロイドです。
これは研究全体を一段強くする証拠です。
つまり、「丸い物体を口にしていたらしい」という形態学的な推定だけではなく、「その歯にAreca利用と整合する化学物質が残っていた」という別方向の証拠が加わったことになります。
ただし正確には、二人から分析したすべての歯でarecolineが検出されたわけではありません。
それぞれの個体の一部試料で陽性になったという結果です。
分析方法も興味深いものでした。
研究者は歯を粉砕してしまうのではなく、歯を溶媒中へ浸漬し、表面や内部に残った化学成分を抽出する、低侵襲な方法を用いています。
発掘された歯や歯石から過去の口腔環境や生活を復元する研究については、以前紹介した江戸時代人の歯石DNAと古代口腔微生物の研究にも通じるものがあります。
もちろん、今回のLC-MSによるアルカロイド分析と、古代歯石DNA解析は別の技術です。
共通しているのは、歯や歯石が、過去の人間の行動・食物・病気を保存する生物学的な記録媒体になり得るという点です。

ただし、現代型のbetel quidを噛んでいたとは考えにくい
古代歯試料からはarecolineが検出されました。
一方で、guvacine、guvacoline、arecaidineは検出されていません。
このうち、とくにguvacineとarecaidineは、ビンロウそのものでは少量ですが、消石灰の存在下でアルカリ加水分解が起こると増加することが知られています。
また二人の歯には、石灰を使用したbetel quidでみられるような明瞭な特徴的着色も認められませんでした。
こうした所見を合わせ、著者らは今回の特殊な摩耗について、現代型の石灰入りbetel quidを繰り返し噛んだ結果とは考えにくいとしています。
その代わりに提示したのが、脱殻したAreca属の種子を丸ごと口へ入れ、歯で保持しながら吸っていたという仮説でした。
ただし、少し興味深い結果もあります。
古代歯試料からは、eugenol、eucalyptol、citralなど、キンマPiper betleにも含まれる芳香成分が複数検出されました。
これらの検出だけで、キンマ葉をareca seedと同時に使用していたと確定することはできません。著者らは、香味や薬用目的などで芳香植物を別に摂取していた可能性も考えています。
この点から見ても、2万年以上前の利用法を、現在のbetel quid文化へそのまま当てはめることはできません。
丸ごとの実を吸うだけで、生理作用に関係する成分は外へ出るのか
ここで一つ疑問が生じます。
現代のbetel quidでは消石灰を加えるのが一般的です。
では、古代人が本当に丸ごとのビンロウだけを口へ入れていたとして、それだけでarecolineのような成分が利用できたのでしょうか。
研究者はこの点まで実験しています。
ここは正確に書いておきたいところです。
人工唾液を使った実験ではありません。
乾燥したA. catechu、新鮮なA. catechu、そしてA. triandraを用意し、丸ごとの種子と砕いた種子を、それぞれRinger液、すなわち生理的な塩類組成を持つ溶液中へ入れました。
36℃で約21〜26時間浸漬しています。
なお、この21〜26時間という時間は実験上の抽出条件です。「古代人が一粒の実を21時間以上ずっと吸っていた」という意味ではありません。
得られた抽出液を、ヒトM1・M3ムスカリン性アセチルコリン受容体を発現させたアフリカツメガエル卵母細胞へ作用させました。
すると、丸ごとの乾燥ビンロウを浸した液でも、ムスカリン受容体を活性化する明確な電流応答が確認されました。
著者らはこの結果から、丸ごとのビンロウを吸うだけでも、生理作用を生じ得る量のarecolineが放出される可能性が高いと解釈しています。
ただし、実験液中のarecolineを直接定量し、「丸ごとの実から何μMのarecolineが出た」と示した実験ではありません。
ムスカリン受容体の応答を利用し、arecolineの放出と整合するコリン作動性活性が、丸ごとの実を浸した液にも存在することを示した実験です。
さらに、areca nutに含まれるGABAについては、丸ごとの実から得た抽出液では明確なGABA受容体応答は確認されませんでした。
つまり、丸ごとの実から何でも同じように溶出するわけではなく、一部の低分子成分が選択的に外へ出る可能性があります。
そしてもう一つ。
この実験は、古代人の口腔環境を完全に再現した実験ではありません。
人間の唾液中での実際の濃度を測定したわけではなく、Ringer液を用いた実験系です。
したがって、「2万5000年前の人の口の中でも、この濃度のarecolineが放出されていた」とまで言うことはできません。
それでも、実を砕かなくてもムスカリン性の生理活性を持つ成分が外へ出るという結果は、丸ごとの種子を吸っていたという仮説を支える重要な材料になります。
数回では説明できない――何年も繰り返していた可能性
今回の歯の摩耗は、一度や二度ビンロウを口にした程度では説明できません。
非常に硬い歯質にこれほど深い摩耗を形成するには、長期間にわたり同じ行動を繰り返したはずだと著者らは考えています。
つまり、「珍しい木の実を一度口にした」という考古学的なエピソードではなく、習慣的な行動だった可能性があるということです。
そこで原著では、その背景としてAreca属種子の向精神作用や、身体依存の可能性まで議論しています。
ただし、arecolineが検出された=依存症だったということではありません。
areca nutはarecolineだけでできているわけではなく、多数の低分子・高分子成分を含む複雑な植物です。
areca nutの習慣化や依存を、一つのアルカロイドだけで説明することはできません。
したがって、長年繰り返した習慣が存在した可能性と、現代医学的な意味で依存症を診断できることは分けて考える必要があります。
CPL-R2aでは、摩耗が歯髄腔まで達していた
歯科医師として今回の研究でもっとも衝撃的なのは、CPL-R2aの歯です。
摩耗はエナメル質だけで止まりませんでした。
象牙質を越え、複数箇所で歯髄腔が露出し、長期の慢性感染が生じていたと原著には記されています。
これは単に、「昔の人は歯がよくすり減っていた」という話ではありません。
少なくともこの一人については、歯髄まで外界にさらされるほど歯質が失われていたということです。
現代歯科なら、歯髄や根尖歯周組織の状態を確認し、感染源を評価し、必要に応じて歯髄処置や根管治療、あるいは抜歯などを検討する状況です。
歯の痛みがどのように伝わるのかについては別の記事でも詳しく扱っていますが、歯髄腔まで外界へ開放されれば、疼痛や感染が大きな問題になることは想像に難くありません。
それでも、この人物は硬いAreca属の種子を口の中で操作する行動を続けていた可能性があります。
そこで研究者が考えたのが、今回もっとも興味深く、同時にもっとも慎重に扱うべき仮説です。
痛いからこそ、ビンロウを吸っていたのではないか。
arecolineは「歯痛の痛み止め」だったのか
原著では、arecolineに鎮痛・抗侵害受容作用が報告されていることを根拠の一つとして挙げています。
引用されているのは、2024年のMolecular Brainの研究です。
これは成体マウスを用いた研究で、arecolineが侵害受容行動を抑える方向に作用することが検討されています。
このためScience Advancesの著者らは、古代の狩猟採集民がAreca属の種子を“painkillers”として意図的に利用していた可能性を提示しています。
ただし、ここでは三つの話を分ける必要があります。
一つ目は、マウスで抗侵害受容作用が示されたこと。
二つ目は、ヒトの歯痛に臨床的な鎮痛効果があること。
三つ目は、2万年以上前の本人が歯痛を軽減する目的で使用していたことです。
この三つは同じではありません。
現在の資料が直接支持するのは、主として一つ目の段階です。
したがって、「ビンロウは人間の歯痛に効く」と現代の歯科治療へ置き換えて解釈することはできません。
本人がなぜ吸っていたのかも分かりません。
向精神作用を求めていたのかもしれない。気分転換だったのかもしれない。社会的・儀礼的な意味があったのかもしれない。口腔内の痛みを紛らわせていたのかもしれない。
複数の目的が重なっていた可能性もあります。
後世には、本当に「歯痛に檳榔」という記録が存在する
ここで興味深い民族植物学資料があります。
台湾およびミクロネシアにおける檳榔利用をまとめた研究です。
日本統治時代に記録された台湾原住民族の資料の中には、「歯痛には檳榔子の種の煎汁を用いて含嗽す」という記述があります。
つまり、人間社会がビンロウを口腔の痛みに対する薬用として使った実例は、少なくとも後世の民族誌には残っています。
これは今回の「歯痛目的だったのではないか」という仮説を考えるうえで、非常に興味深い補助線になります。
ただし、この資料は2万年以上前のスラウェシ人の使用目的を証明するものではありません。
地域も年代も大きく異なります。
言えるのは、人間社会の中に「ビンロウを歯痛に使う」という発想が実際に存在したというところまでです。
同じ民族誌を見ると、檳榔は薬としてだけでなく、婚姻、贈答、祭祀、交換、社会関係など、生活の非常に広い領域に組み込まれていました。
ビンロウはある社会において、嗜好品であり、薬であり、贈り物であり、儀礼用品であり、社会関係を媒介する物でもあったわけです。
単純に「昔のドラッグ」とだけ呼んでしまうと、この文化的な厚みは失われます。
「痛い→吸う→削れる→もっと痛い」という悪循環
今回の原著で、歯科的にもっとも印象に残る部分があります。
著者らは、歯痛や歯周組織の不快感を軽減するためにAreca属の種子を吸うことが始まり、その行動が長く続くことで歯がさらに摩耗し、歯髄腔露出や感染が進み、さらに痛みが増して、再び種子を吸う――そんな循環へ入った可能性を論じています。

もしこの仮説が正しければ、かなり皮肉な話です。
痛みを和らげるための行動だったかもしれないものが、その行動によって歯をさらに壊し、新たな痛みを生み出していた可能性がある。
ただし、これはあくまで研究者が提示した復元仮説です。
古人骨から本人の自覚症状や使用目的を直接読み取ることはできません。
それでも、特殊な摩耗、歯髄腔露出、慢性感染、arecolineの検出、動物実験で示された抗侵害受容作用が、一つの仮説へ収束していく点は非常に興味深いところです。
ここで歯科医師は気づく――betel nutは「あのビンロウ」である
ここまで古代の向精神性植物として話を進めてきました。
しかし、areca nut、betel nutという名前を見た時点で、別のことを思い浮かべた歯科医師も多かったのではないでしょうか。
口腔がんです。
現代の歯科・口腔医学においてビンロウが重要なのは、向精神作用があるからだけではありません。
長期使用が、口腔粘膜下線維症、白板症などの口腔潜在的悪性疾患、そして口腔扁平上皮癌と強く関連することが知られているからです。
IARCはareca nutそのものをGroup 1、すなわちヒトに対して発がん性があるものとして分類しています。
一方、主要アルカロイドの一つであるarecoline単体はGroup 2B、すなわちヒトに対して発がん性がある可能性があるものとして分類されています。
ここは非常に重要です。
areca nut全体の発がん性評価と、arecoline単独の発がん性評価は同じではありません。
2022年のJournal of Dental Researchのレビューでも、areca nut chewingが口腔がんの主要リスク因子であることが、ヒト研究を中心に改めて整理されています。
したがって、今回の古代研究を「天然植物を使った昔の鎮痛法」として現代人へ紹介することはできません。
むしろ現代では、長期使用による重大な口腔疾患のリスクを考える必要があります。
現代のビンロウ常用者でも、歯は激しく摩耗する
「ビンロウを使うと歯が削れる」という現象自体は、現代歯科でも以前から知られています。
2002年のAddiction Biologyのレビューでは、習慣的なareca nut chewingによって、切縁や咬合面に高度な咬耗が生じ得ることがまとめられています。
エナメル質が失われると、より軟らかい象牙質が露出します。
すると歯質の喪失はさらに速くなり、象牙質知覚過敏につながることがあります。
摩耗の程度は、実の硬さ、使用頻度、習慣期間に左右されるとされ、慢性使用者では根破折も報告されています。
これは今回の古代人を理解するうえで重要な現代歯科の知見です。
ただし、現代のareca nut常用者にみられる一般的な咬耗と、スラウェシ2個体にみられた特殊な円周状摩耗は同じものではありません。
現代人にも歯の摩耗が起きるからといって、それだけで古代人の特殊摩耗をビンロウ由来と断定できるわけではありません。
今回の研究では、歯の形態だけでなく、arecolineの検出と受容体を用いた実験まで組み合わせたところに強みがあります。
ビンロウと口腔粘膜下線維症
現代のareca nutを語るうえで外せないのが、oral submucous fibrosis(OSF:口腔粘膜下線維症)です。
これは口腔粘膜下の結合組織が慢性的に線維化していく疾患です。
初期には、口腔粘膜の灼熱感、辛い物を食べたときの痛み、粘膜の蒼白化や違和感などがみられることがあります。
進行すると、粘膜下に硬い線維性の帯が形成され、粘膜の柔軟性が失われます。
さらに進行すれば開口量が減少し、食事、会話、嚥下、口腔清掃が難しくなります。歯科治療そのものが困難になることもあります。
OSFは単なる「粘膜が硬くなる病気」ではありません。
口腔潜在的悪性疾患の一つであり、口腔扁平上皮癌へ進展する可能性があります。
2025年のDentistry Journalのレビューでは、areca nutとOSFとの関係について、arecoline、TGF-β、筋線維芽細胞、コラーゲン蓄積などを中心に病態が整理されています。
白板症や紅板症など口腔潜在的悪性疾患全般についてはこちらの記事で詳しく扱っています。
今回ここで重要なのは、areca nutの長期曝露が、単なる表面刺激ではなく、粘膜下組織の線維化に関わる生物学的変化まで引き起こし得るという点です。

発がんは「硬い実で粘膜を擦るから」だけでは説明できない
ビンロウによる口腔発がんを、「硬い実を噛み続けるから、粘膜が擦れてがんになる」とだけ説明するのは不十分です。
確かに、硬い種子や粗い植物線維による反復的な機械的損傷は一つの要素です。
しかし同時に、arecolineをはじめとする成分への慢性的な化学曝露があります。
現在の研究では、酸化ストレス、DNA損傷、慢性炎症、TGF-βを中心とした線維化シグナル、細胞外基質の再構築、上皮間葉転換、腫瘍微小環境の変化などが相互に関係しながら、口腔粘膜下線維症や発がんへ関与すると考えられています。
2026年のレビューでも、areca nut chewingによる口腔障害は、機械的損傷と化学的毒性の両方から整理されています。
長期のareca nut extract曝露を用いた細胞実験では、浸潤能の増加、上皮間葉転換、化学療法や放射線への抵抗性、がん幹細胞性に関係する変化なども報告されています。
ただし、こうした結果の多くは細胞実験です。
培養細胞へ特定濃度の成分を加えた実験と、人間が何年・何十年もareca nutを使用した状態を同じものとして扱うことはできません。
2026年のsystematic reviewでも、ヒト口腔癌細胞を用いた20研究から、炎症性メディエーター、活性酸素、DNA損傷、複数の発がん関連シグナルの変化が整理されていますが、研究ごとの濃度や曝露条件には大きな違いがあります。
分子経路の名前を増やすことより、ここで重要なのは、areca nutの口腔への害が、単純な物理的摩擦だけではなく、慢性的な化学曝露と生体反応を含む多段階の病態であるということです。
ヒト研究では、口腔がんリスクはどの程度なのか
では、実際の人間ではどのくらいの関連が報告されているのでしょうか。
2022年のJournal of Dental Researchのレビューでは、45件の症例対照研究と8件のコホート研究をまとめ、areca nut/betel quid chewingと口腔がんの関連について、調整済み統合相対リスク7.9、95%信頼区間7.1〜8.7と報告しています。
さらに、使用量や使用年数が増えるほどリスクが高くなる用量反応関係も示されています。
口腔潜在的悪性疾患全体では、調整済み統合相対リスクは8.9。
口腔粘膜下線維症については、統合推定値25.7と報告されています。
もちろん、相対リスク7.9だから「使った人の8人に1人が口腔がんになる」という意味ではありません。
相対リスクと絶対リスクは別です。
地域、製品の構成、使用量、使用期間、タバコ・アルコールとの併用、社会背景などによっても実際のリスクは変わります。
それでも、現代の口腔医学においてareca nutが重大なリスク因子として扱われる理由は十分に分かります。
世界の口腔がん負担から見ても、無視できる習慣ではない
2024年のThe Lancet Oncologyでは、2022年の世界の口腔がん約38万9800例について、約12万200例、30.8%が「無煙タバコまたはareca nutの使用」に起因すると推計されました。
ここは数字の読み方が重要です。
30.8%はareca nut単独の割合ではありません。
無煙タバコとareca nutという二つの曝露を合わせた人口寄与割合です。
したがって、「世界の口腔がんの3割はビンロウが原因」と書き換えることはできません。
それでも、areca nutが現在も巨大な口腔がん負担の一部を構成する公衆衛生上の問題であることは分かります。
では2万5000年前の二人にも、同じ口腔がんリスクがあったのか
ここで古代と現代を安易につなげないことが重要です。
今回のスラウェシ2個体について研究者が推定しているのは、丸ごとの脱殻したAreca属の種子を口に保持して吸うという行動です。
一方、現代のbetel quidでは多くの場合、areca nut、消石灰、betel leafを組み合わせ、さらに地域によってタバコや香辛料なども加わります。
曝露形態が違います。
今回の古代歯からはarecolineが検出されましたが、guvacine、guvacoline、arecaidineは検出されず、明瞭なbetel stainも確認されませんでした。
したがって、「この二人も現代のbetel quid常用者と同じ口腔がんリスクを負っていた」とは言えません。
まして、「2万年前にもビンロウが口腔がんを起こしていた」ということを今回の研究が示したわけでもありません。
古代の丸ごとの種子を吸う行動と、現代のbetel quid chewingは、きちんと分けて考える必要があります。

これは「人類最初の薬物使用」なのか
原著のタイトルはかなり強いものです。
“the earliest recorded evidence for the habitual use of a neuroactive plant drug”
つまり、習慣的な神経活性・向精神性植物利用について、これまで記録された中で最古の証拠という位置づけです。
確かに古い方の個体は約25,000〜16,000年前です。
これは、従来比較的確実とされていた直接証拠より、はるかに古い時代になります。
しかし、「人類史上初めて薬物を使った人が見つかった」とまで言い換えるのは適切ではありません。
過去にも東南アジアの古人骨で、歯の着色などから非常に古いbetel chewingが主張されたことがあります。
一方、今回の原著は、一部について年代精度が不十分であること、人工的な歯の着色とbetel stainが混同されている可能性などを指摘しています。
また、今回研究されたのは2個体だけです。
この二人の行動から、「当時の南スラウェシ人は皆ビンロウを常用していた」と集団全体へ一般化することもできません。
したがって表現としては、「習慣的な向精神性植物利用の最古級の直接証拠」、あるいは「現時点で最古候補となる直接証拠」くらいにとどめるのが妥当でしょう。
この研究でかなり強く言えること、まだ言えないこと
今回の論文は非常に魅力的なストーリーを提示しています。
その一方で、観察された事実と、そこから組み立てられた仮説を分けて読む必要があります。

かなり強く言えること
二人の歯列には、通常の咀嚼だけでは説明しにくい特殊な円周状摩耗が存在します。
その形態は、硬い丸い物体を長期間、反復して口腔内で操作した行動と整合します。
二人の一部歯試料からarecolineが検出されました。
丸ごとのareca nutを生理的な塩類溶液へ浸漬すると、ムスカリン受容体を活性化する成分が外へ出ることも示されました。
少なくともCPL-R2aでは、摩耗が歯髄腔まで達し、慢性感染が生じていました。
まだ証明されていないこと
使用した植物種が厳密にAreca triandraだったことは証明されていません。
本人が向精神作用を主目的にしていたことも証明されていません。
歯痛を和らげるために使用していたことも仮説です。
現代医学的な意味で依存症だったことも診断できません。
この習慣が当時の集団全体に広く普及していたかどうかも分かりません。
そして、現代のbetel quid常用者と同程度の口腔がんリスクを負っていたかどうかも、この研究からは分かりません。
原著自身も、対象がMaros-LBB-1aとCPL-R2aという2個体に限られることを明記しています。
大胆な仮説だからこそ、どこまでが証拠で、どこからが推論なのかを分けて読むことが大切です。
歯は、2万年以上前の「痛みへの対処」まで記録していたのかもしれない
人類はいつから向精神性植物を利用してきたのでしょうか。
それだけでも非常に面白い問いです。
しかし歯科医師として今回さらに気になるのは、当時の人は歯の痛みをどうやってしのいでいたのかということです。
現代なら、歯の状態を診断し、局所麻酔を行い、感染した歯髄や根管を治療し、必要に応じて鎮痛薬を使うことができます。
2万年以上前には、そのような歯科医療はありません。
身の回りにある植物の中から、口に入れると唾液が増える、少し気分が変わる、不快感が和らぐ気がする――そんなものを人間が経験的に見つけていたとしても不思議ではありません。
その一つがAreca属の種子だった可能性がある。
ただし、少なくともCPL-R2aでは、その硬い種子を長期間口腔内で操作したと考えられる摩耗が、ついには歯髄腔まで達していました。
もし著者らの歯痛仮説が正しいのであれば、症状を和らげるために始めたかもしれない行動が、長期的には病変をさらに悪化させるという皮肉な循環が、2万年以上前にすでに起きていた可能性があります。
そして現在。
われわれ歯科医師は、現代のareca nut、主としてAreca catechuの長期使用を、口腔粘膜下線維症や口腔がんの重大なリスク因子として学んでいます。
古代の人にとっては痛みを紛らわせるものだったかもしれない。
しかし、硬い種子を長期間口腔内で操作すれば歯を傷める。
さらに現代の長期使用では、歯の摩耗だけではなく、口腔粘膜下線維症や口腔扁平上皮癌との強い関連まで分かっています。
古代人の歯列に残った奇妙な摩耗が、人類が植物を薬として使い、嗜好品として使い、そしてその代償まで受けてきた長い歴史を見せているのかもしれません。
強い歯痛や腫れがあるときは、症状を自己流で長く紛らわせるのではなく、まず原因を確認することが大切です。
広島市中区立町のブランデンタルクリニックは、立町駅徒歩1分、立町中央ビル4階・エレベーターありです。急な歯痛や腫れについては当日電話受付可・急患同日可です。症状が強い場合は、WEBやLINEだけでなく、お電話でご相談ください。
参考文献
1. Brumm A, et al. Betel nut sucking is the earliest recorded evidence for the habitual use of a neuroactive plant drug. Science Advances. 2026;12:eaei1901. doi:10.1126/sciadv.aei1901
2. Brumm A, et al. Skeletal remains of a Pleistocene modern human (Homo sapiens) from Sulawesi. PLOS ONE. 2021;16:e0257273. doi:10.1371/journal.pone.0257273
3. Moonkham P, et al. Earliest direct evidence of Bronze Age betel nut use: Biomolecular analysis of dental calculus from Nong Ratchawat, Thailand. Frontiers in Environmental Archaeology. 2025;4:1622935. doi:10.3389/fearc.2025.1622935
4. Trivedy CR, Craig G, Warnakulasuriya S. The oral health consequences of chewing areca nut. Addiction Biology. 2002;7:115–125. doi:10.1080/13556210120091482
5. Warnakulasuriya S, Chen THH. Areca Nut and Oral Cancer: Evidence from Studies Conducted in Humans. Journal of Dental Research. 2022;101:1139–1146. doi:10.1177/00220345221092751
6. Rumgay H, et al. Global burden of oral cancer in 2022 attributable to smokeless tobacco and areca nut consumption: a population attributable fraction analysis. The Lancet Oncology. 2024;25:1413–1423. doi:10.1016/S1470-2045(24)00458-3
7. IARC Working Group on the Evaluation of Carcinogenic Risks to Humans. Betel-quid and Areca-nut Chewing and Some Areca-nut-derived Nitrosamines. IARC Monographs on the Evaluation of Carcinogenic Risks to Humans. Volume 85. 2004.
8. IARC Working Group on the Evaluation of Carcinogenic Risks to Humans. Acrolein, Crotonaldehyde, and Arecoline. IARC Monographs on the Identification of Carcinogenic Hazards to Humans. Volume 128. 2021.
9. Chen QY, Zhang Y, Ma Y, Zhuo M. Inhibition of cortical synaptic transmission, behavioral nociceptive, and anxiodepressive-like responses by arecoline in adult mice. Molecular Brain. 2024;17:39. doi:10.1186/s13041-024-01106-5
10. Kazemi K, Fadl A, Sperandio FF, Leask A. The Areca Nut and Oral Submucosal Fibrosis: A Narrative Review. Dentistry Journal. 2025;13:364. doi:10.3390/dj13080364
11. Yu N, et al. The multistep progression of areca nut-induced oral cancer: a mechanistic roadmap from pathogenesis to precision therapy. Life Medicine. 2026;5:lnag011. doi:10.1093/lifemedi/lnag011
12. Joshi K, et al. Molecular mechanisms of therapeutic resistance in areca nut-associated oral squamous cell carcinoma: the interplay of chronic inflammation and epithelial-mesenchymal transition. Frontiers in Oncology. 2026;16:1906691. doi:10.3389/fonc.2026.1906691
13. Ayna VKP, et al. Molecular effects of areca nut-derived compounds on human oral cancer cells: a systematic review of in vitro evidence. Journal of Oral Biology and Craniofacial Research. 2026;16:101502. doi:10.1016/j.jobcr.2026.101502
14. 山本宗立.台湾およびミクロネシアにおける檳榔利用―過去と現在を比較して―.島嶼研究.2017;18(2):133–151.
15. Towle I, et al. Non-Carious Cervical Lesions in Wild Primates: Implications for Understanding Toothpick Grooves and Abfraction Lesions. American Journal of Biological Anthropology. 2025;188:e70132. doi:10.1002/ajpa.70132
