2026年8月31日

(院長の徒然コラム)

はじめに:これは「美顔器が効くか、効かないか」だけの話ではない
2025年、ライオン株式会社から「inquto(インキュット)口内美顔器VRインナーリフト」が発売されました。
一般的な美顔器のように皮膚の表面から使用するのではなく、シリコン製のヘッドを口腔内へ入れ、頬の内側から使用する機器です。
ライオンは公式資料で、比較的深い位置にある頬筋や大小頬骨筋を「深層表情筋」と表現し、「口の中から表情筋にアプローチする」と説明しています。なお、「深層表情筋」はここではライオンの商品説明上の表現であり、独立した正式解剖学用語として用いているわけではありません。
製品には「アクティブVR振動」と赤色LEDが搭載され、4つの「美圧ポイント」へ1か所1分ずつ、合計約4分使用する設計です。「リフトケア」という表現についても、公式資料では「押し上げるように機器を動かすこと」と注釈されています。したがって、客観的な組織挙上量が臨床試験で証明されたという意味ではありません。ライオン株式会社の公式資料
さらにライオンは同じ製品資料の中で、表情筋を動かしたり鍛えたりすることについて、見た目だけでなく「唾液の分泌や飲み込む力などの口腔機能の向上にも繋がる」と説明しています。これもinqutoそのものを使って嚥下や唾液分泌を測定した臨床試験結果ではなく、表情筋トレーニングに関する参考情報として記載されたものです。ライオン株式会社の公式資料
それでも歯科側から見ると、ここには非常に面白い問いがあります。
口の中から物理刺激を加える
↓
表情筋の活動が変化する
↓
反復によって筋や神経筋制御が変化する
↓
唾液・口唇閉鎖・発音・咀嚼・嚥下などの口腔機能が変化する
この一連の流れは、どこまで実際に証明されているのでしょうか。
この問題を考えるには、「振動を当てれば筋トレになるのか」という単純な問いだけでは足りません。
そもそも表情筋は、腕や脚の筋肉、あるいは咬筋と同じ構造なのでしょうか。
筋の伸びを感じる「筋紡錘」は表情筋にも存在するのでしょうか。
口腔粘膜へ加えた振動や圧は、どの感覚神経を通って中枢へ届くのでしょうか。
表情筋の活動が増えれば、本当に機能が良くなったと言えるのでしょうか。
そして、ライオン自身は美容、口腔内刺激、口腔機能、筋活動をどこまで研究しているのでしょうか。
本稿では、
物理刺激
→感覚入力
→神経系
→筋活動
→長期的な適応
→口腔機能
を一段ずつ分けて検討します。
なぜ今、歯科側からinqutoを見る意味があるのか――ライオン自身が「口腔衛生+口腔機能」へ動いている
inqutoだけを見ていると、「歯磨き粉や歯ブラシの会社が、少し変わった美容機器を出した」という話に見えます。
しかし、現在のライオン全体の事業戦略を見ると位置づけが変わります。
2025年の事業戦略・研究開発説明資料では、今後のオーラルヘルスケアについて、
「口腔衛生」から「口腔衛生+口腔機能」へ
対象を広げる方針が明示されています。
そこには、
- 噛む力
- 飲み込む力
- 会話を楽しむ力
が挙げられ、最終的に人々の「食べる・話す・笑う」へ貢献することが目標として示されています。ライオン株式会社 2025年事業戦略・研究開発説明資料
研究体制についても、口腔機能領域の研究員を30%増やす予定が示されています。ライオン株式会社の資料
2026年の統合レポートでも、オーラルヘルスケア研究を「口腔衛生」と「口腔機能」の両面から進め、生涯にわたって「食べる・話す・笑う」を支えることを目標としています。ライオン株式会社 統合レポート2026
さらに2026年の海外事業戦略説明会では、オーラルヘルスケアと「情緒・美容軸」の組み合わせについて質問され、ライオンは審美・美白などとの掛け合わせによる領域拡張を進める考えを示し、その具体例としてinqutoを挙げています。ライオン株式会社 2026年海外事業戦略説明会 質疑応答要旨
つまり、
美容機器を歯科へ無理に結びつけているわけではない。
ライオン自身が、
口腔衛生
+口腔機能
+美容・情緒価値
を近づけようとしている最中に、inqutoという製品が登場したわけです。

「口の中から美容」はinqutoで突然始まったものではない
inqutoには前身があります。
ライオンは2018年頃、「VISOURIRE(ヴィスリール)」という口腔内から顔へ働きかける美容機器を開発していました。
現在のライオン公式記事によると、VISOURIREは同社の口腔と皮膚に関する研究を背景に、「口の中から表情筋にアプローチする美容機器」として開発されたものです。
その後いったん一般販売には至らなかったものの、コロナ禍以降の生活変化、自宅美容への需要、顔下半分への意識の高まりなどから企画が再始動しました。
VISOURIREの開発にも携わった遠藤雄二郎氏が、2025年発売のinqutoでは開発リーダーを務めています。ライオン公式note
再開発では、口腔周囲筋、スキンケア、習慣化などを研究する人材も参加しています。ライオン公式note
したがってinqutoは、突然現れた単発の美容商品というより、
口腔内物理刺激
×皮膚・美容
×表情筋
×口腔機能
という複数の研究の交差点にある製品として見る方が理解しやすくなります。
2021年、ライオンは「口腔内から物理刺激を加える」研究を論文化している
inqutoへつながる研究史の中で重要なのが、遠藤雄二郎氏による2021年の原著論文「口腔からの新しい美容アプローチの開発」です。
この研究では、皮膚表面ではなく口腔側から物理刺激を与え、鼻唇溝や頬上部のたるみへ働きかけられるかが検討されました。
論文そのものは2021年の日本化粧品技術者会誌55巻1号、10~18頁に掲載され、DOIは10.5107/sccj.55.10です。J-STAGE掲載論文
ただし、最初に一つ重要な点があります。
ヒト試験で行われたのは、
振動だけ
ではありません。
振動+伸展マッサージ
です。
短期試験は健常女性7名、150Hz、約20分
短期試験の対象は20~50代の健常女性7名でした。
使用された装置は、市販の「システマ音波アシストブラシ」を基に、先端を3Dプリンターで作製したシリコンゴム製部品へ変更したもので、150Hzの振動を発生します。
刺激方法は、
- 口角横を左右30秒ずつ
- 頬の裏を上から下へ左右30秒ずつ
- 上下奥歯の間のくぼみを左右15秒ずつ
- 頬骨部を上方向へ左右15秒ずつ
- 唇の裏側を5周なぞる
という5工程でした。
1セット約5分で、4セット繰り返したため、短期試験では合計約20分、振動と伸展刺激が加えられています。
結果として、7名中4名で写真上、鼻唇溝が薄く見える変化が確認されました。
左右を別々に数えた14側のうち9側では、頬上部たるみスコアが低下し、統計学的にもp<0.01でした。
したがって、
口腔内から物理刺激を加えた直後に、少なくとも顔貌評価が変化した
というヒトデータは存在します。

4週間継続すると、外観だけでなく超音波像にも変化した
継続試験には、頬上部たるみスコア3以上の40代女性12名、50代女性12名、計24名が参加しました。
短期試験と同じ振動器具と伸展マッサージを、本人が1日1回以上、4週間続けています。
評価は、
- 開始前
- 1週間後
- 4週間後
の3回でした。
評価当日は測定が終わるまでマッサージを行わず、試験中はスキンケアの変更、美容施術、別のマッサージ器具、サプリメントなど、皮膚状態へ影響する可能性のある行為も制限されています。
4週間後には、写真上「大きな改善」がみられた被験者が24名中11名いました。
頬上部たるみスコアは、
- 左側
- 右側
- 左右平均
のすべてで開始前より有意に低下し、p<0.01でした。
鼻唇溝の長さについては右側では大きな変化がありませんでしたが、
- 左側:p<0.01
- 左右平均:p<0.05
で4週間後に短くなっています。
さらに超音波画像では、4週間後、
- 小鼻横:48部位中35部位
- 頬部:48部位中32部位
で、皮下の基質(マトリックス)の密度が高く見える変化が観察されました。

細胞実験ではCOL1A1が約5倍、MMP1は約0.3倍まで変化した
同じ論文では、ヒト試験とは別に成人由来真皮線維芽細胞へ物理刺激を加えています。
振動条件は150Hz、3分間です。
振動後4時間および8時間では、Ⅰ型コラーゲンに関連するCOL1A1遺伝子発現が無刺激群のおよそ5倍まで増加しました(p<0.01)。
一方、コラーゲン分解へ関係するMMP1は、
- 1時間後:約0.7倍
- 4時間後:約0.7倍
- 8時間後:約0.3倍
まで低下しました。
24時間後にはCOL1蛋白量も無刺激群より多くなっています。
これは機械刺激に対して真皮線維芽細胞が反応することを示す興味深い結果です。
ただし、
対象は筋細胞ではありません。
したがって、
「コラーゲン関連反応が変わった」
=「表情筋が鍛えられた」
ではありません。
この二つは分けて考える必要があります。
2021年研究には、かなり重要な限界がある
この研究を評価するときには、結果だけでなく設計上の限界も確認する必要があります。
短期試験は7名。
継続試験も24名。
すべて女性です。
さらに、ヒト試験には無刺激群や偽刺激群がありません。
つまり、
刺激を受けた人の前後比較
であって、
無作為化比較試験ではありません。
また、ヒト試験では振動と伸展を同時に行っています。
そのため、
- 振動単独の効果
- 伸展単独の効果
- 両者を組み合わせた効果
を分離できません。
単回の外観変化は数時間~数日で戻った人もいた
論文の考察には重要な記述があります。
短期試験後に一部の被験者へ聞き取りを行ったところ、数時間から数日以内に見た目が元の状態へ近づいたという回答がありました。
著者自身も、単回刺激では一時的な筋のほぐれや周辺組織の位置変化などが起こり、その後元へ戻る可能性を考察しています。
さらに4週間後の顔貌についても、
長期的な変化に、その日の短期的変化が一部上乗せされている可能性
があるとしています。
刺激終了後を追跡していないため、どの程度変化が残るかは分かっていません。
これは、
「刺激直後の変化」
と、
「組織や神経筋系の長期的適応」
を分けなければならない理由です。
150Hzが「最適な振動数」だったわけでもない
2021年研究で使用された150Hzは印象的な数字ですが、この値も慎重に扱う必要があります。
論文では、最適な周波数を比較検討できていないことが明記されています。
150Hzについては、被験者から「気持ちよい」「心地よい」といった意見が得られ、生活の中で継続しやすい可能性があると考察されています。
したがって、
150Hzが表情筋や皮下組織に生理学的に最適な周波数である
ことが証明されたわけではありません。
そして何より、2021年研究では「表情筋」を直接測っていない
ヒト試験で評価されたのは、
- 顔写真
- たるみスコア
- 鼻唇溝長
- 超音波による皮下組織像
です。
一方、
- 表情筋の筋電図
- 最大収縮力
- 筋厚
- 筋断面積
- 筋量
- 口唇閉鎖力
- 舌圧
- 発音
- 咀嚼能率
- 嚥下機能
は測定されていません。
つまり、
顔貌が変わった
↓
表情筋が強くなった
とは進めません。
2021年論文自体が、今後は筋肉や脂肪組織への影響も明らかにする必要があると課題を残しています。

2021年の研究装置と現在のinqutoも同一ではない
現在のinqutoは、公式には4つの「美圧ポイント」へ1分ずつ、計約4分使用します。
1分ごとに振動が一時停止し、次の部位へ移るタイミングを知らせます。ライオン株式会社の公式資料
一方、2021年短期試験は約20分で、5工程の伸展操作を含んでいました。
すでに介入方法が異なります。
さらに興味深い資料があります。
2025年にライオンが出願した「口腔内マッサージ器及び口腔内マッサージセット」の公開特許です。
実施形態の一つでは、
- 第1モード:250kHz
- 第2モード:264kHzから250kHzへ変化
- 第3モード:277kHzから250kHzへ変化
- 1分振動後に2秒停止
という制御が具体的に記載されています。特開2025-105980
さらに同特許には、頬骨筋、頬筋、咬筋、口輪筋など、複数の口周囲筋や口角部の筋集束部を刺激できるという設計思想も記載されています。特開2025-105980
ただし、この特許を読む際には線引きが必要です。
特許に記載された実施形態=市販inqutoの確定仕様
ではありません。
現行製品の公式ページには具体的な振動数が公開されていません。
したがって、
inqutoが250~277kHzで動作すると断定することはできません。
しかし同時に、
2021年研究の150Hzを現行inqutoの振動数として紹介することもできません。
ここは非常に重要です。
赤色LEDにも「製品説明」と「研究」の二つの文脈がある
現行inqutoには赤色LEDが搭載されています。
商品資料では、美容機器や美容医療でも注目される赤色LEDを照射する機能として説明されています。ライオン株式会社の公式資料
一方、先ほどの2025年特許では、赤色光について口腔内にある作用部の位置を頬の外側から視認しやすくするという工学的役割も記載されています。特開2025-105980
さらにライオンは2025年、IADRで、
「630nm赤色LEDは歯肉線維芽細胞におけるコラーゲン合成を促進する」
という研究を発表しています。ライオン株式会社 研究実績
ただし、この研究は歯肉線維芽細胞を対象としたもので、inqutoによる顔貌改善や表情筋作用を証明した研究ではありません。
ここでも、
関連する研究が存在すること
と、
製品そのものの臨床効果が証明されていること
を混同してはいけません。
ライオンには別に「口腔機能を能動的に鍛える」研究がある
美容研究とは別に、ライオンは「ORAL FIT」という口腔機能トレーニングサービスを開発しています。
これは振動を受けるだけではなく、自分で口や舌を動かす能動的なトレーニングです。
2022年の実証では、口腔機能の衰えを自覚する55~74歳の男女27名が約2か月取り組みました。
5分間安静時唾液量が3mL以上だった人は、
10名、37.0%
→16名、59.3%
へ増加しました。
10秒間連続で「カ」を発音し、1秒あたり7回以上だった人は、
15名、55.6%
→24名、88.9%
へ増加しました。
自覚的にも20名、74.1%が「唾液が出るようになった気がする」、19名、70.4%が「滑舌が良くなったような気がする」と回答しています。ライオン株式会社 ORAL FIT関連実証資料
ただし、この公開資料には対照群が記載されていません。
したがって、
ORAL FITの前後で指標が変わった
ことは示せても、
自然変動や反復測定の影響まで除外したとは言えません。
また、この2022年資料で「舌のチカラ」として扱われている主な客観指標は「カ」の反復発音であり、ここを後年の舌圧研究と混同しないことも重要です。
2025~2026年、ライオンは本当に「口腔機能と筋活動」を測り始めている
ライオンの研究はその後さらに進んでいます。
2025年には、
- オーラルディアドコキネシス発音時の発音明瞭度と口腔機能との関連
- 発音回数測定アプリの開発
- 外来患者へのオーラルフレイル対策プログラム
などを発表しています。ライオン株式会社 研究実績
そして2026年には、
- 「口腔機能検査指標と口腔周囲筋の硬度および筋活動との関連性解析」
- 「咀嚼能率と舌圧、咬合力、咬合支持域との関連性解析」
- 「オーラルディアドコキネシス発音時の発音明瞭度と口腔周囲筋活動の関連性解析」
を日本老年歯科医学会で発表しています。ライオン株式会社 歯とお口のケア研究
さらに2026年には、
「舌口唇運動機能と全身健康指標および労働機能との関連」
という研究まで行っています。ライオン株式会社 研究実績
2021年の美容論文が「筋肉は今後の課題」と残した数年後に、ライオンが口腔周囲筋活動そのものを測る方向へ進んでいる。
研究史としては非常に興味深い流れです。
ただし、
これらの筋活動研究がinquto使用者を対象としている
という公開情報はありません。
ここは接続せず、別の研究線として扱う必要があります。

ここからが本題――表情筋は「普通の骨格筋」と同じではない
表情筋も骨格筋だが、力の伝わり方が違う
表情筋も組織学的には横紋筋性の骨格筋です。
しかし、上腕二頭筋や大腿四頭筋のような典型的な四肢筋と、同じ模型だけで考えることはできません。
Lapatkiらは顔面筋の特徴として、
- 腱を介して骨へ付着するとは限らず、皮膚や他の筋などの軟組織へ付着する
- 狭い範囲で筋束が入り組み、重なっている
- 筋の位置や形態の個人差が大きい
ことを挙げています。
一般的な四肢筋では、
筋収縮
→腱
→骨
→関節運動
という比較的分かりやすい力学系があります。
一方、表情筋では、
筋収縮
→皮膚・粘膜・脂肪・他の筋
→顔面形態や口唇形態の変化
という経路になります。
特に頬筋については、近年の組織学研究でも口腔粘膜側の基底膜へ連続する特徴的な付着が示されています。PubMed掲載論文
したがって、口腔内から頬を押すという操作は、単純に「一つの筋腹を押す」だけではなく、筋・結合組織・粘膜・皮下組織をまとめて変形させる刺激になります。
表情筋は一つずつ独立して動く筋でもない
Muellerらは36名の健常成人を対象に、多数の電極を顔面へ配置して、
- 額のしわ寄せ
- 閉眼
- 笑顔
- 口すぼめ
- 頬を膨らませる
- 下唇を下げる
など11種類の顔面運動を測定しました。
結果は、「一つの表情=一つの筋」とはなりませんでした。
各運動は、顔面全体にそれぞれ特徴的な筋活動分布を作ります。
笑顔で大頬骨筋を使うからといって、大頬骨筋だけが単独で活動するわけではありません。
周囲の筋も活動して固定点を作り、引っ張る方向を調整します。
2025年のManらの研究でも、顔面筋は密に神経支配され、複雑な同時活動を示すことが確認されています。32名の健常者へ16チャンネルの柔軟な表面筋電図を装着し、筋活動の地図を構築しています。
したがって、
「このポイントを刺激すれば、この一筋だけが鍛えられる」
という説明では、実際の顔面運動制御を単純化しすぎます。

運動神経の終わり方も、典型的な骨格筋とは少し違う
運動神経が筋線維へ信号を伝える場所を運動終板といいます。
1997年にヒト顔面筋10種類を11遺体で調べた研究では、顔面筋の運動終板分布は典型的な骨格筋とは異なっていました。
調べた筋線維の73.8%では運動終板が1か所でしたが、26.2%では一つの筋線維上に2~5個の運動終板が認められました。
運動終板領域の数や位置にも複数の型があり、偏った位置に存在する特徴も報告されています。PubMed掲載論文
Lapatkiらの高密度筋電図研究でも、下顔面筋の運動終板は限られた領域へ集まりながらも偏心した位置を示し、個人差も確認されています。
特に口輪筋、眼輪筋、頬筋では、運動終板が筋全体へ広く分布し、多数の小さな運動領域を作るという組織学的知見も紹介されています。
inqutoが標的の一つとして頬筋を挙げている以上、この特徴は無視できません。
振動を考えるうえで最重要――表情筋の「筋紡錘」はどうなっているのか
筋紡錘とは何か
一般的な骨格筋には「筋紡錘」という感覚器官があります。
筋が、
- どれくらい伸びたか
- どのくらいの速度で長さが変わったか
を検知する受容器です。
筋紡錘へ入った情報はⅠa求心性線維などを介して中枢へ送られ、筋緊張や姿勢、運動制御に使われます。
筋へ機械振動を加えると、この筋紡錘が強く刺激され、運動ニューロンの活動が変化することがあります。
これが古典的な「緊張性振動反射」を考える際の重要な機序です。
「表情筋には筋紡錘がない」は、現在では少し単純すぎる
かつては、
顔面神経支配の表情筋には典型的な筋紡錘がない
と広く考えられていました。
実際、Coboらは2017年にヒトの大頬骨筋と頬筋を調べ、典型的な筋紡錘ではなく、ルフィニ小体に似た被膜性の感覚構造を報告しています。これらには機械刺激の受容に関係する分子も認められました。PubMed掲載論文
2024年のヒト口唇研究でも、5遺体の上下口唇を調べた結果、口輪筋に典型的な筋紡錘は確認されませんでした。
しかし、代わりに非常に密な感覚神経構造が存在し、一部はルフィニ小体様・パチニ小体様の形態を示していました。
さらにその軸索には、機械刺激を電気信号へ変換するうえで重要なPIEZO2が発現していました。PubMed掲載論文
ところが2023年、Omsteadらは別の結果を報告しました。
口輪筋上部と大頬骨筋の組織切片を複数の哺乳類で調べたところ、筋紡錘そのものが確認されたのです。
ヒトでも筋紡錘は確認されました。
ただし、ヒトを含む霊長類では筋紡錘数が少ない傾向があり、研究自体も標本数が小さいため、著者ら自身が慎重な解釈を求めています。Anatomical Record掲載論文
したがって現在は、
「表情筋に筋紡錘は絶対に存在しない」
と断定するのも、
「普通の四肢筋と同じように豊富な筋紡錘があり、同じ振動反射が起こる」
と考えるのも適切ではありません。
より正確なのは、
表情筋では典型的な筋紡錘が非常に少ない、あるいは筋によっては確認されないことが多い。一方、一部の表情筋で少数の筋紡錘を確認した報告もあり、筋ごとの差や個人差を含めてまだ解明途上である
という表現でしょう。

筋紡錘が少なくても、表情筋は「感覚のない筋」ではない
表情筋は、
- 笑う
- 唇をすぼめる
- 話す
- 食べ物を保持する
- 飲む
など、非常に精密な動きを行います。
この精密さを考えると、感覚情報なしで動いているとは考えにくい。
そこで現在注目されているのが、
- 筋内の特殊な感覚構造
- 皮膚の機械受容器
- 口腔粘膜の機械受容器
- 三叉神経からの感覚入力
- 顔面神経に含まれる可能性のある非運動成分
- 中枢での感覚運動統合
です。
Coboらのルフィニ様構造や、口唇にみられるPIEZO2陽性の感覚神経構造は、その候補の一つです。PubMed掲載論文
つまり、
筋紡錘が乏しい
=機械刺激を感知できない
ではありません。
むしろ、
通常の骨格筋とは違う方法で機械刺激や位置情報を取得している可能性がある
ということです。
顔面神経も「完全な純運動神経」と考えるには少し複雑だった
Tereshenkoらは2023年、ヒト臓器提供者5名から顔面神経主幹を採取して神経線維を解析しました。
平均神経線維数は、
12,343±1,231本。
そのうち、コリン作動性、すなわち典型的な運動神経性と考えられる線維は約85%でした。
ここで、
残り15%=すべて感覚神経
と解釈してはいけません。
ヒト研究で確認されたのは「非コリン作動性線維が存在する」というところまでです。
一方、ラットでは運動線維のほか、求心性線維と交感神経線維が確認され、筋・皮膚から顔面神経を通る経路も示されています。
つまり、古典的な「顔面神経=純粋な運動神経」という単純な図式も、少し修正する必要が出てきています。
ヒトでも、顔面の感覚入力は顔面運動野へ作用する
Pilurziらは2020年、健常者16名を対象に、顔面の感覚入力が一次運動野へどのように作用するかを調べました。
対象となったのは口角下制筋を支配する顔面運動領域です。
三叉神経からの感覚入力では、顔面一次運動野に短潜時の抑制が生じました。
一方、顔面神経刺激を用いた条件では異なる時間特性の抑制がみられ、反復して組み合わせた刺激では運動野の可塑性変化も確認されています。PubMed掲載論文
この論文はinquto研究ではありません。
さらに、この研究当時の解釈では顔面神経刺激で筋を収縮させ、そこから生じる筋由来感覚入力を評価する設計になっています。
したがって、
inqutoの振動
→顔面神経の感覚線維
→運動野
という経路を直接証明した研究ではありません。
それでも、
顔面から入った感覚情報が、顔面運動を担う大脳皮質の興奮性や可塑性へ影響し得る
ことをヒトで示した点は重要です。

受動的な入力だけでも表情筋活動は変化する
表情筋が本人の「筋トレ意思」だけで動いているわけではないことは、心理生理学研究でも分かっています。
Rymarczykらの研究では、動く笑顔を見ると、静止した笑顔を見る場合より大頬骨筋活動が大きくなりました。
Küneckeらも、他者の感情表情を見るだけで自動的な顔面筋反応が生じることを筋電図で示しています。
Allenらの研究では、5日間の脳波を用いた訓練によって前頭部の活動パターンを変えると、その後の感情刺激に対する顔面筋反応まで変化しました。
つまり、
表情筋活動は、意識的に強く収縮させたときだけ変化するわけではありません。
感覚入力や中枢活動によっても変わります。
これは、
「受動刺激なのだから筋活動へは絶対に影響しない」
という考え方が単純すぎることを示しています。
では、振動そのものは筋肉を動かせるのか
「筋肉が振動する」と「振動で筋肉が動く」は逆の問題
ここは非常に重要です。
顔面の振動を測定した工学研究は多数あります。
たとえばJawthenticateでは41名の発話時の顎運動と顔面の微細振動をセンサーで記録し、3秒の発話データから97.07%のバランス精度で本人認証できました。
Casacciaらも、筋収縮に伴って発生する非常に小さな機械振動をレーザードップラー振動計で測定しています。
しかし、これらが示しているのは、
筋が収縮する
→振動が生じる
という方向です。
inqutoで知りたいのは、
振動を加える
→筋活動が変化する
という逆方向です。
AからBが証明されていても、BからAは自動的には証明されません。

外部振動で筋の運動出力が変わること自体はヒトで知られている
Hagbarthらは1976年、健常者の顎を閉じる筋群へ120~160Hzの機械振動を加えました。
すると、
- 顎閉口筋の収縮力が増加
- 拮抗する開口筋の緊張が低下
- 運動単位の動員が変化
しました。
つまり、
外部振動によってヒトの神経筋出力が変わる現象
自体は存在します。
しかし、ここで筋紡錘の話が重要になります。
この研究対象は咀嚼筋です。
咬筋などは典型的な筋紡錘を持ち、振動刺激を筋紡錘―求心性入力―運動ニューロンという古典的な反射系で説明しやすい筋です。
一方、頬筋や大頬骨筋などの表情筋では、筋紡錘の数も感覚構造も異なります。
したがって、
咬筋で120~160Hz振動が効いた
=頬筋や大頬骨筋でも同じ機序が起きる
とは言えません。
これが、表情筋を通常の骨格筋と同じ扱いにできない最大の理由の一つです。
口腔内への刺激は、刺激した場所だけで終わるのか
三叉神経を介して離れた顎顔面組織の血流まで変わる
石井久淑氏、佐藤寿哉氏による2022年の総説では、顎・顔面・口腔領域の特徴的な自律神経性血流調節が整理されています。
口唇、口蓋、唾液腺などには副交感性血管拡張系が存在します。
そして、
三叉神経からの感覚入力
→三叉神経脊髄路核などの脳幹
→唾液核
→副交感神経性反応
という経路が関係しています。
咬筋や顎二腹筋にも特徴的な副交感性血流増加反応があります。
舌神経への求心性刺激では、刺激した舌だけではなく、咬筋と下唇の血流が増加しました。
ただし、これらの詳細な機序は主として動物実験です。
したがって、
inqutoを使えば同じ経路でヒト頬筋の血流が増える
とは言えません。
それでも、
口腔内へ入った感覚刺激は、局所の物理変形だけで終わらず、神経反射を介して離れた顎顔面組織へ影響し得る
という生理学的背景はあります。
ライオン自身も「口腔への体性感覚刺激」をヒトで研究している
ライオンは2026年、歯ブラシによる口腔刺激が心理状態と自律神経へ与える影響を査読論文として報告しています。
28名が参加し、ブラッシング条件と非ブラッシング条件を経験する自己対照交差試験が行われました。
各試験は、
- 20分安静
- 5分ブラッシングまたは非ブラッシング
- 20分安静
という構成でした。
ブラッシング中および終了後には、快適度、活性度、覚醒度が上昇。
終了後のLF/HF比は開始前安静時より有意に低下しました。
研究では歯磨きを明確に口腔への体性感覚刺激として扱っています。J-STAGE掲載論文
もちろん、
自律神経指標が変わった
=表情筋が強くなった
ではありません。
それでも、口腔への機械刺激が神経系へ届いて生理反応を変え得ることを示すヒト研究として意味があります。
受動的な振動でも口腔関連指標は変わるのか
ライオン歯科衛生研究所と東京医科歯科大学は、口腔乾燥を対象に振動刺激の研究も行っています。
初期研究では高齢女性5名に唾液腺周囲への振動刺激を行い、5例中3例で1か月後に口腔湿潤度または唾液分泌量の改善傾向が認められました。
その後、2023年には週2回、約1か月の振動刺激が口腔湿潤度・唾液分泌量改善に有用である可能性が報告されています。
これはinquto研究ではありません。
刺激部位も装置も条件も違います。
また筋電図や筋力測定によって「振動→口腔周囲筋→唾液腺」という経路を直接確認したわけでもありません。
それでも、
受動的振動では口腔関連指標が絶対に変わらない
とまでは言えないことを示す資料です。
頬筋は「口腔内から直接測る」ことさえできる
inqutoの研究を今後考えるうえで、非常に興味深い測定法があります。
Shiratoriらは2021年、頬筋活動を頬粘膜側から表面筋電図で測る方法を開発しました。
頬筋は皮膚側から見ると深部にあるため、通常の顔面表面電極では咬筋や大頬骨筋の信号が混ざりやすいという問題があります。
ところが口腔粘膜側から見ると、頬筋は非常に近い。
そこで薄い口腔内電極を頬粘膜へ置き、皮膚側電極と比較しました。
新しい粘膜側電極では隣接筋からの信号混入が少なく、頬筋活動を定量的に測定できました。
頬筋活動は口角を後方へ引く課題で最も大きく、強い口唇閉鎖時にも活動しました。咀嚼や嚥下などの機能課題も測定されています。PubMed掲載論文
これは今回のテーマにかなり重要です。
「inqutoが頬筋を刺激しているか分からない」
のであれば、
実際に口腔粘膜側から頬筋筋電図を測ればよい
という技術的選択肢がすでに存在するからです。
表情筋の活動は肉眼より細かく測れる
Casacciaらは11名の20~28歳成人で、上唇挙筋を段階的に収縮させ、
- 通常の筋電図
- レーザードップラー振動計
- 動画
- 静止画像
を比較しました。
非常に弱い条件では、動画判定では11名全員で明らかな表情変化を検出できませんでした。
しかし、
- レーザー振動計:11名中10名
- 筋電図:11名中9名
- 静止画像:11名中2名
では活動増加が検出されました。
つまり、
見た目が動いていない
=筋が活動していない
ではありません。
inqutoが非常に小さな筋活動を誘発するのであれば、肉眼では分からなくても測定できる可能性があります。
ただし「筋電図を測れば全部解決」でもない
表情筋の表面筋電図は簡単ではありません。
顔には、
- 小さな筋が密集している
- 筋同士が重なる
- 表情で皮膚が大きく動く
- 眼球運動や瞬目などの雑音が入る
- 唾液腺由来の電気信号も混ざる
という問題があります。
Van Boxtelは24名を対象に、顔面・顎・口腔・頸部筋の筋電図信号を検討し、低周波雑音を除きながら筋活動を保つための高域通過フィルターは概ね15~25Hz、低域通過は400~500Hz程度が適切としました。
さらにTrentzschらは36名を2週間隔で測定しました。
同一測定内の再現性は非常に高く、ICCは概ね0.93~0.99でした。
一方、日をまたぐと再現性は低下しました。
筋の位置に合わせて電極を置く方法では、電極位置ごとの日をまたぐICCが0.095~0.730。
顔全体を幾何学的に覆う方法では0.643~0.742でした。
したがって、inqutoを数週間使用する研究で筋電図を比較するなら、
- 電極位置
- 課題
- 皮膚処理
- 姿勢
- 収縮強度
- 解析方法
- 個人内での基準化
を厳密に揃える必要があります。
単純に、
「4週間後に筋電図が○%増えました」
だけでは十分ではありません。
さらに重要――筋電図が大きくなれば機能が良いわけではない
顔面筋研究では、ここも外せません。
顔面神経麻痺後の病的共同運動では、口を動かすと目まで閉じるなど、本来動かす必要のない筋が同時に活動します。
Schneiderらは2025年、病的共同運動を有する36名へ、筋電図と視覚情報を使った集中的訓練を行いました。
1日3時間、10日間です。
目的は、
意図した筋を動かしながら、不要な筋活動を抑えること
でした。
訓練後、顔面全体の筋活動はむしろ低下しました。
病的共同運動側、反対側ともにp<0.001でした。
これは非常に重要な結果です。
筋活動が大きい
=機能が良い
ではありません。
顔面筋では、
- 必要な筋を
- 必要な方向へ
- 必要な強さで
- 必要なタイミングに
- 不要な共同収縮なしに
動かすことが重要です。
したがって、仮に将来、
inquto使用直後に大頬骨筋の筋電図振幅が増加した
という結果が出ても、それだけで「機能改善」とは言えません。
表情筋と口腔機能は、実際にはかなり重なっている
美容分野でいう表情筋と、歯科でいう口腔機能は完全な別世界ではありません。
Adamovらは24名の健常成人で、
- 口輪筋
- 大頬骨筋
- オトガイ筋
を対象に、
- 嚥下
- 口すぼめ
- 口唇圧接
- 「PA」の発音
- 舌突出
などの筋活動を測定しました。
3筋間の平均筋電図振幅には有意差があり、分散分析ではp=0.015でした。
つまり表情筋は、
笑うためだけの筋肉
ではありません。
発音、口唇閉鎖、食事、嚥下などの口腔運動にも関与します。
しかし、
ある筋が口腔機能に参加している
ことと、
その筋へ振動を加えれば口腔機能が改善する
ことは別です。
口腔機能は、歯、舌、唾液、咬合、咀嚼筋、口唇、頬、感覚入力、中枢神経制御などが統合された結果です。
当院の「口腔機能低下症を“検査項目”で終わらせない:咀嚼・舌圧・栄養をつなぐ高齢者歯科の臨床解釈」でも扱っているように、一つの数値だけで口腔機能全体を代表させることはできません。
また、「舌圧の基準値は?舌圧低下で全身に影響すること」で扱った舌圧も、単なる局所筋力だけではなく、食塊形成や移送、嚥下、栄養へつながる指標です。
加齢による口腔機能の変化については、「口腔内領域の加齢変化」でも詳しく解説しています。
受動的な感覚刺激と能動的な筋力トレーニングは同じではない
この違いを考えるうえで参考になるのが、Hägglundらの2020年無作為化比較試験です。
対象は脳卒中後嚥下障害患者40名。
20名ずつに分けられました。
両群とも、
電動歯ブラシを用いた口腔顔面への感覚・振動刺激
を受けました。
介入群だけが、それに加えて口腔内装置を使った能動的な口腔神経筋トレーニングを5週間行いました。
5週間後の嚥下速度中央値は、
対照群
5.1 → 9.2mL/s
介入群
5.3 → 10.3mL/s
でした。
群間差はp=0.133で、有意ではありませんでした。
口唇力は、
対照群
14.0 → 14.0N
介入群
18.5 → 27.0N
となり、介入群内ではp<0.001でしたが、群間差はp=0.066でした。
12か月後には、
嚥下速度
8.5 vs 13.7mL/s、p=0.032
口唇力
10.0 vs 31.0N、p=0.001
と介入群が良好でした。
ただし12か月評価は各群9名、計18名です。
開始時40名からかなり減っているため、長期結果には追跡脱落の影響を考える必要があります。
この研究だけで結論を一般化することはできません。
それでも、
感覚・振動刺激
と、
本人が抵抗に逆らって筋力を発揮する能動的訓練
を同じものとして扱えないことはよく分かります。

現在までの証拠を一度「階段」に並べる
ここまでの研究を混ぜずに並べると、現在地がかなり明確になります。

第1段階 口腔内から物理刺激を加えられる
当然可能。
第2段階 口腔内から振動+伸展刺激を加えると顔貌・皮下組織像が変化する可能性がある
ライオン2021年ヒト試験あり。
第3段階 真皮線維芽細胞は振動・伸展へ反応する
COL1A1、MMP1、COL1で変化あり。
第4段階 表情筋には通常の骨格筋とは異なる感覚受容系が存在する
筋紡錘は少数・不均一で、ルフィニ様・パチニ様感覚構造、PIEZO2などの知見あり。
第5段階 顔面からの感覚入力は中枢の顔面運動制御へ影響する
Pilurziらのヒト研究などが支持。
第6段階 口腔内感覚入力は神経反射を介して離れた顎顔面組織の生理反応を変え得る
三叉神経―自律神経研究あり。
第7段階 外部振動で筋運動出力が変化する現象自体は存在する
咀嚼筋ではヒトで確認。
第8段階 inqutoを使用すると頬筋・大小頬骨筋の筋活動が変化する
公開された直接的ヒト試験は確認できない。
第9段階 inqutoを反復使用すると筋力・筋厚・筋断面積が変化する
確認できない。
第10段階 inqutoで唾液・口唇閉鎖・発音・咀嚼・嚥下が改善する
確認できない。
前半にはかなり研究があります。
問題は、
inqutoそのものを起点にした後半の橋がまだない
ことです。
現時点で「言えること」
現在の資料から、比較的しっかり言えるのは次の範囲です。
口腔内から振動と伸展を組み合わせた物理刺激を与えることで、顔貌や皮下組織像に変化が起こる可能性があります。
表情筋は典型的な四肢筋とは構造も運動終板分布も異なり、複数筋がネットワークとして活動します。
表情筋の筋紡錘については研究間で差がありますが、少数であること、あるいは一部筋では確認されないことが多く、代わりに特殊な機械感覚構造が存在する可能性があります。
顔面からの感覚入力が脳の顔面運動領域へ影響するヒトデータがあります。
口腔内への感覚入力が神経反射を介して顎顔面組織へ影響する基礎研究があります。
表情筋活動は、高密度表面筋電図や口腔粘膜側の頬筋筋電図などを用いれば詳細に測定できます。
外部振動によって神経筋活動が変化する現象自体は、咀嚼筋などでは確認されています。
ライオン自身も、
- 口腔内物理刺激
- 体性感覚刺激
- 能動的口腔機能トレーニング
- 唾液腺への振動刺激
- 発音機能
- 口腔周囲筋活動
を別々の研究で調べています。
したがって、
「口の中から刺激しても何も起こるはずがない」
という評価は、現在の研究全体とは合いません。
一方で、まだ「言えないこと」
現在の公開研究だけから、
inqutoで頬筋や大頬骨筋が強くなる
とは言えません。
inqutoで筋肉量が増える
とも言えません。
inqutoで筋厚や筋断面積が増える
とも言えません。
inqutoで口唇閉鎖力が上がる
とも言えません。
inqutoで舌圧が上がる
とも言えません。
inqutoで発音機能が改善する
とも言えません。
inqutoで嚥下が改善する
とも言えません。
inqutoで口腔機能低下症やオーラルフレイルが改善する
とも言えません。
そして将来、
「inquto使用直後に筋電図が増えた」
という研究が出たとしても、それだけで、
- 筋力増強
- 筋肥大
- 長期的な神経筋適応
- 口腔機能回復
を意味するわけではありません。
筋活動、筋力、筋量、筋厚、運動制御、口腔機能は、それぞれ別の指標です。
決定的に欲しいのは「刺激→筋活動→適応→機能」を一本につなぐ研究
現在までに揃った研究から考えると、次に必要な試験はかなり明確です。
まず、健康成人あるいは軽度の口腔機能低下者を対象に、
実際の口腔内振動刺激
と、
振動を与えない、あるいは極めて弱い偽刺激
を無作為に比較する。
使用直後に見るもの
- 頬筋
- 大頬骨筋
- 小頬骨筋
- 口輪筋
- オトガイ筋
- 必要に応じて咬筋
について筋活動を測ります。
特に頬筋については、皮膚側だけでなく、すでに報告されている頬粘膜側筋電図を利用する価値があります。
評価するのは単純な振幅だけではありません。
- 活動分布
- 左右差
- 複数筋の協調
- 不要な共同収縮
- 活動開始のタイミング
- 運動課題による違い
まで確認する必要があります。
数週間から数か月後に見るもの
- 最大口唇閉鎖力
- オーラルディアドコキネシス
- 舌圧
- 唾液分泌量
- 咀嚼能率
- 嚥下関連指標
を測定する。
「筋肉が鍛えられた」という表現まで使うなら、
- 超音波による筋厚
- 筋断面積
- 筋硬度
- 必要であればMRIによる筋量
なども必要です。
そして刺激終了後も追跡する
これは特に重要です。
刺激直後だけ変わるのか。
数時間残るのか。
数日残るのか。
数週間残るのか。
2021年のライオン研究自身が、単回刺激後の外観変化が数時間~数日で元へ近づいた被験者を報告しているからです。
その場で反応した
ことと、
神経筋系が長期的に適応した
ことは同じではありません。
まとめ:「表情筋は普通の筋肉ではない」からこそ、この研究は面白い
inqutoを、
「振動で表情筋を鍛える美顔器」
という一文だけで評価すると、このテーマのかなり重要な部分を落としてしまいます。
表情筋も骨格筋です。
しかし典型的な四肢筋とは、
- 付着様式
- 筋同士の重なり
- 運動終板分布
- 運動単位
- 感覚受容
- 神経制御
がかなり違います。
特に筋紡錘については、
「ない」
と単純に断定できる段階でも、
「普通の筋と同じように豊富にある」
と考えられる段階でもありません。
一部の顔面筋で少数の筋紡錘を確認した報告がある一方、頬筋、大頬骨筋、口輪筋ではルフィニ様・パチニ様の特殊な感覚構造やPIEZO2陽性神経が報告されています。
だから、
咬筋で振動反射が起きる
→表情筋でも同じ
という単純な外挿はできません。
しかし、
筋紡錘が少ない
→振動を感じない
→受動刺激には意味がない
という結論も成立しません。
むしろ、
口腔粘膜や筋内感覚構造から入った物理刺激が、三叉神経やその他の感覚経路を通じて中枢へ届き、表情筋の運動制御へどのように作用するのか
という問いが残ります。
一方、ライオン自身は、
口腔内物理刺激と顔貌
を研究してきました。
別の研究では、
口腔への体性感覚刺激と自律神経
を調べています。
さらに、
能動的口腔トレーニングと口腔機能
を研究しています。
そして2025~2026年には、
口腔機能と口腔周囲筋活動
そのものを測る研究へ進んでいます。
企業戦略でも、口腔衛生だけではなく「食べる・話す・笑う」を支える口腔機能、さらに美容領域との掛け合わせまで明確に掲げ始めました。ライオン株式会社 統合レポート2026
したがって、
「inqutoには科学的背景が何もない」
という評価は正確ではありません。
しかし、
「inqutoで表情筋が鍛えられ、口腔機能まで改善することが証明されている」
という評価も、現在の公開証拠からはできません。
現時点で存在するのは、
口腔内物理刺激
感覚入力
表情筋活動
口腔機能
という、それぞれの研究です。
まだ足りないのは、
inquto型の口腔内振動を起点として、この4つを一本のヒト臨床研究で直接つなぐ証拠
です。
2021年の論文で「筋肉への影響は今後の課題」とされたところから数年が経ち、2026年にはライオン自身が口腔周囲筋の筋活動まで調べ始めています。
「口の中から顔へ」という美容の発想が、
感覚神経、
表情筋制御、
そして口腔機能科学へ本当に接続していくのか。
かなり多くのピースはすでに揃っている。
しかし、最後の因果の橋はまだ架かっていない。
それが、2026年現在のこのテーマの位置づけです。
参考文献
- 遠藤雄二郎.口腔からの新しい美容アプローチの開発.日本化粧品技術者会誌.2021;55(1):10-18. doi:10.5107/sccj.55.10.
- Lapatki BG, Oostenveld R, van Dijk JP, et al. Topographical Characteristics of Motor Units of the Lower Facial Musculature Revealed by Means of High-Density Surface EMG. J Neurophysiol. 2006;95:342-354.
- Happak W, Liu J, Burggasser G, Flowers A, Gruber H, Freilinger G. Human facial muscles: dimensions, motor endplate distribution, and presence of muscle fibers with multiple motor endplates. Anat Rec. 1997.
- Mueller N, Trentzsch V, Grassme R, et al. High-resolution surface electromyographic activities of facial muscles during mimic movements in healthy adults: A prospective observational study. Front Hum Neurosci. 2022;16:1029415.
- Trentzsch V, Mueller N, Heinrich M, et al. Test-retest reliability of high-resolution surface electromyographic activities of facial muscles during facial expressions in healthy adults. Front Hum Neurosci. 2023;17:1126336.
- Cobo JL, Abbate F, de Vicente JC, Cobo J, Vega JA. Searching for proprioceptors in human facial muscles. Neurosci Lett. 2017;640:1-5. doi:10.1016/j.neulet.2017.01.016.
- Omstead KM, Williams J, Weinberg SM, Marazita ML, Burrows AM. Mammalian facial muscles contain muscle spindles. Anat Rec. 2023;306(10):2562-2571. doi:10.1002/ar.25172.
- Martín-Cruces J, Cuendias P, García-Mesa Y, et al. Proprioceptive innervation of the human lips. Anat Rec. 2024;307(3):669-676. doi:10.1002/ar.25324.
- Tereshenko V, Maierhofer U, Dotzauer DC, et al. Newly identified axon types of the facial nerve unveil supplemental neural pathways in the innervation of the face. J Adv Res. 2023;44:135-147.
- Pilurzi G, Ginatempo F, Mercante B, et al. Role of cutaneous and proprioceptive inputs in sensorimotor integration and plasticity occurring in the facial primary motor cortex. J Physiol. 2020;598:839-851. doi:10.1113/JP278877.
- Bress KS, Cascio CJ. Sensorimotor regulation of facial expression—An untouched frontier. Neurosci Biobehav Rev. 2024;162:105684.
- Casaccia S, Sirevaag EJ, Frank MG, et al. Facial Muscle Activity: High-Sensitivity Noncontact Measurement Using Laser Doppler Vibrometry. IEEE Trans Instrum Meas. 2021;70.
- Man H, Funk PF, Ben-Dov D, et al. Facial muscle mapping and expression prediction using a conformal surface-electromyography platform. npj Flex Electron. 2025.
- Adamov L, Petrović B, Milić L, et al. Comparative analysis of electrical signals in facial expression muscles. BioMedical Engineering OnLine. 2025;24:17.
- Shiratori T, Ofusa W, Tada M, et al. New method of recording the functional activity pattern of the buccinator from the mucosal surface. Physiol Behav. 2021;237:113455. doi:10.1016/j.physbeh.2021.113455.
- van Boxtel A. Optimal signal bandwidth for the recording of surface EMG activity of facial, jaw, oral, and neck muscles. Psychophysiology. 2001;38:22-34.
- Guntinas-Lichius O, Volk GF, Olsen KD, et al. Facial nerve electrodiagnostics for patients with facial palsy: a clinical practice guideline. Eur Arch Otorhinolaryngol. 2020;277:1855-1874.
- Hagbarth KE, Hellsing G, Löfstedt L. TVR and vibration-induced timing of motor impulses in the human jaw elevator muscles. J Neurol Neurosurg Psychiatry. 1976;39:719-728.
- 石井久淑,佐藤寿哉.顎・顔面・口腔領域の自律神経性血流調節の特殊性―副交感性血流増加反応を中心にして―.自律神経.2022;59:256-263.
- 鈴木雅明.神経刺激療法を行う上での基礎的概念について.口咽科.2024;37(1):24-29.
- Hägglund P, Hägg M, Levring Jäghagen E, et al. Oral neuromuscular training in patients with dysphagia after stroke: a prospective, randomized, open-label study with blinded evaluators. BMC Neurol. 2020;20:405.
- Schneider R, Schramm M, Funk PF, et al. Synchronous surface electromyography as objective method to evaluate the outcome of a biofeedback training in patients with facial synkinesis. Sci Rep. 2025;15:17335.
- Rymarczyk K, Biele C, Grabowska A, Majczynski H. EMG activity in response to static and dynamic facial expressions. Int J Psychophysiol. 2011;79:330-333.
- Künecke J, Hildebrandt A, Recio G, Sommer W, Wilhelm O. Facial EMG Responses to Emotional Expressions Are Related to Emotion Perception Ability. PLoS ONE. 2014;9:e84053.
- Allen JJB, Harmon-Jones E, Cavender JH. Manipulation of frontal EEG asymmetry through biofeedback alters self-reported emotional responses and facial EMG. Psychophysiology. 2001;38:685-693.
- Miyajima A, Iwamoto T, Umeki M, et al. Effects of Brushing with a Toothbrush on Psychological State in Office Workers: An Open-label Self-controlled Crossover Trial. Int J Affect Eng. 2026;25(2):361-368. doi:10.5057/ijae.IJAE-D-26-00003.
- ライオン株式会社.inquto(インキュット)口内美顔器VRインナーリフト.ニュースリリース・製品資料.2025.
- ライオン株式会社.事業戦略・R&D説明会資料.2025.
- ライオン株式会社.統合レポート2026.2026.
- ライオン株式会社.研究実績―歯とお口のケア.2025-2026.
- ライオン株式会社.ORAL FIT関連実証資料.2022.
- 公益財団法人ライオン歯科衛生研究所・東京医科歯科大学.振動マシンによる唾液腺刺激と口腔乾燥に関する研究.2020-2023.
- ライオン株式会社.口腔内マッサージ器及び口腔内マッサージセット.特開2025-105980.
- ライオン株式会社.2026年海外事業戦略説明会 質疑応答要旨.2026.
