2026年9月16日

(院長の徒然コラム)

はじめに
「退職すると、歯を失いやすくなる」。そんな話を聞いたら、少し意外に感じるかもしれません。
歯を失う直接的な原因として、まず思い浮かぶのはむし歯や歯周病でしょう。喫煙、糖尿病、セルフケア、歯科受診なども関係します。では、「退職」という仕事上の出来事まで、その後の歯の喪失と関係するのでしょうか。
2026年9月、BMC Oral Healthに興味深い研究が最終編集前の早期公開版として公表されました。中国11,035人、米国9,584人、英国4,233人、合計24,852人を追跡し、研究開始時に天然歯をすべて失ってはいなかった人について、就労者と退職者で、その後に「天然歯をすべて失う」ことに違いがあるかを調べた研究です。
論文が示した最も多くの項目を調整した解析でのハザード比は、中国1.28、米国1.45、英国2.06でした。3つの国すべてで、退職者では就労者より、その後に完全歯喪失となるハザードが高くなっていました。3か国の結果を統合すると1.43でした。
ただし、これは「退職が原因で歯をすべて失った」と証明した結果ではありません。観察されたのは、あくまで「退職者で完全歯喪失が多かった」という関連です。
この研究で本当に考えたいのは、1.28、1.45、2.06という数字そのものよりも、「その数字の中に、何が含まれているのか」です。
まず、この研究では何を調べたのか
今回使われたのは、中国健康・退職縦断調査(CHARLS)、米国健康・退職研究(HRS)、英国加齢縦断研究(ELSA)という、中高年・高齢者を長く追跡している3つの大規模研究です。

| 研究 | 解析対象 | 研究上の時間軸 |
|---|---|---|
| 中国 CHARLS | 11,035人 | 2011〜2012年から2018年、最大約7年 |
| 米国 HRS | 9,584人 | 2006〜2007年から2020〜2021年、最大約15年 |
| 英国 ELSA | 4,233人 | 退職状態をWave 2、歯科状態をWave 3、その後の完全歯喪失をWave 5で評価 |
研究開始時点ですでに天然歯をすべて失っていた人は除外されました。そのうえで、追跡中に初めて「すべての天然歯を失った」と回答した場合を、新たに生じた完全歯喪失として扱っています。
今回見ているのは「1本抜けた」ではない
ここは重要です。今回の研究は、1本歯を失った、28本から20本になった、奥歯で噛めなくなった、といった変化を主な評価項目にしていません。
見ているのは、最終的に天然歯が0本になったかどうかです。つまり、歯の喪失が最も進んだ段階を捉えています。
なお、完全歯喪失は3か国とも歯科医師による統一された口腔内診査ではなく、本人の自己申告で判定されています。天然歯が1本もない状態は本人が比較的認識しやすいとは考えられますが、それぞれの研究で歯科医師の診査結果との一致が確認されているわけではありません。この点は論文著者らも限界として挙げています。
退職者では、3か国すべてで完全歯喪失のハザードが高かった
追跡中に完全歯喪失となった人は、中国1,322人、米国760人、英国126人でした。
| 国 | 未調整 | 性別・教育を調整 | 最終調整 |
|---|---|---|---|
| 中国 | 1.20 | 1.40 | 1.28 |
| 米国 | 1.38 | 1.25 | 1.45 |
| 英国 | 2.68 | 2.27 | 2.06 |
最終調整では、性別、教育、喫煙、飲酒、BMI、高血圧、糖尿病、心疾患、脳卒中が考慮されています。
3か国の最終調整後の結果を統合すると、ハザード比は1.43(95%信頼区間1.17〜1.74)でした。

「1.45倍」は、無歯顎になる人が45%増えたという意味ではない
ハザード比は少し分かりにくい指標です。HR 1.45だからといって、「完全無歯顎になった人の割合が、そのまま1.45倍だった」と読み替えることはできません。
簡単にいえば、追跡しているそれぞれの時点で、まだ完全歯喪失になっていない人の中から、どちらの群で完全歯喪失が起こりやすかったかを時間の経過も含めて比べた指標です。
しかも、中国は最大約7年、米国は最大約15年、英国は調査回ごとの追跡です。したがって、「英国2.06だから中国1.28より退職の影響が強い」と単純に国同士を順位づけすることにも注意が必要です。
今回言えるのは、「退職者では、就労者より、その後の完全歯喪失のハザードが高かった」までです。
ここからが本題――これは本当に「退職」の影響なのか
中国、米国、英国で同じ方向の関連が出たことは興味深い結果です。しかし、疫学研究では「AとBが関連した」ことと、「AがBを引き起こした」ことは別です。
今回なら、「退職者では完全歯喪失が多かった」と、「退職したことが原因で歯をすべて失った」は同じ意味ではありません。
最大の疑問①――年齢は本当に調整されているのか
今回の論文で特に重要なのが年齢です。就労者と退職者の平均年齢には、かなり大きな差がありました。

| 国 | 就労者 | 退職者 | 差 |
|---|---|---|---|
| 中国 | 55.20歳 | 63.38歳 | 約8.2歳 |
| 米国 | 58.87歳 | 71.09歳 | 約12.2歳 |
| 英国 | 56.50歳 | 69.13歳 | 約12.6歳 |
米国と英国では平均年齢が12年以上違います。完全歯喪失を扱う研究で、これは無視しにくい差です。
日本でも、60代と70代では現在歯数が違う
令和6年歯科疾患実態調査の全国補正値では、平均現在歯数は次のようになっています。
| 年齢 | 1人平均現在歯数 |
|---|---|
| 55〜59歳 | 27.0本 |
| 60〜64歳 | 25.7本 |
| 65〜69歳 | 23.4本 |
| 70〜74歳 | 21.3本 |
| 75〜79歳 | 19.5本 |
| 80〜84歳 | 19.1本 |
| 85歳以上 | 14.5本 |
これは同じ人を55歳から85歳まで追跡した数字ではなく、各年齢層を同じ時点で比べた値です。そのため「60歳から70歳になる間に平均何本抜ける」と読むことはできません。
それでも、完全歯喪失を研究するなら、年齢を解析でどう扱ったかが重要であることは分かります。
研究方法には「年齢を取得した」と書いてある
原著の共変量の説明には、年齢、性別、BMI、喫煙、飲酒、高血圧、糖尿病、心疾患、脳卒中、教育を研究開始時点の情報として取得したと書かれています。
ところが、統計解析の説明と表を見ると、最終調整解析として列挙されているのは、性別、教育、喫煙、飲酒、BMI、高血圧、糖尿病、心疾患、脳卒中です。年齢が記載されていません。
さらに論文の考察では、「暦年齢そのものが主な原因とは考えにくい」という趣旨の説明までされています。
ただし、ここで「この研究は年齢を調整していない」と断定するのは適切ではありません。実際の解析コードでは年齢を入れていたのに、現在の早期公開版の本文や表から記載が漏れた可能性も残ります。
正確に言えるのは、現在公開されている論文の解析方法と表では、最終調整解析の変数として年齢が記載されていないということです。正式版が公開されたときに再確認すべき重要な点です。
最大の疑問②――「退職した瞬間」の前後を比べた研究ではない
論文では「退職という人生の移行期」が強調されています。しかし実際の研究設計を見ると、同じ人の退職前と退職後を直接比べた研究ではありません。
中国と米国では研究開始時点で就労者か退職者かを分類しています。英国では退職状態を先に確認し、その後の調査回を歯科状態の出発点としています。
つまり、
- 働いていた同じ人を観察する
- 退職する
- その直後から歯の喪失速度が変わったかを見る
という研究ではありません。
研究開始時点での「就労者群」と「退職者群」を比べた研究です。

米国では最大約15年間追跡しています。研究開始時に50代後半で働いていた人が、その後15年間ずっと働いていたとは限りません。途中で退職した人もいるでしょうし、退職後に何らかの形で仕事を始めた人もいるかもしれません。
したがって、この研究を「退職した瞬間の影響を証明した研究」と読むことはできません。
最大の疑問③――「歯が1本残っている人」と「28本ある人」が同じ扱い
歯科的にもう一つ大きな問題があります。今回の研究に入る条件は、「研究開始時点で天然歯をすべて失っていないこと」です。
言い換えると、天然歯が1本でも残っていれば対象になります。
- 28本残っている人
- 20本残っている人
- 10本残っている人
- 最後の1本だけ残っている人
これらがすべて「完全歯喪失ではない人」として同じ入口に立ちます。しかし研究上の出来事は「0本になること」です。
残り1本なら、あと1本失えば完全歯喪失です。28本残っている人とは、0本になるまでの距離がまったく違います。
日本の5年間追跡でも、現在歯数によってその後の歯喪失が違った
日本の健診受診者292人を5年間追跡した研究では、研究開始時点に28歯以上あった群と28歯未満だった群で、その後の歯喪失に違いがみられました。
5年間で1歯以上を失った人は、28歯以上群では22.1%、28歯未満群では34.5%でした。
さらに、歯を失うことと関連した因子も違いました。28歯以上群ではう蝕と飲酒、28歯未満群では6mm以上の深い歯周ポケットが関連していました。
292人の研究ですから、24,852人を対象とした今回の研究と同じ重みで比較することはできません。ただし、「最初に何本残っていたかによって、その後の歯喪失の起こり方も違い得る」ことを考える材料にはなります。
11万人の高齢者では「欠損の形」まで関係していた
大阪府の後期高齢者11万1,980人を対象にした大規模研究では、年齢、性別、歯周状態、歯垢、年1回以上の歯科健診、かかりつけ歯科医、喫煙歴、糖尿病などを考慮しても、臼歯部の噛み合わせを支える歯が減るほど、その後に歯を失うこととの関連が強くなりました。
臼歯部の咬合支持を表すEichner分類では、B4の人はA1の人と比べて、歯を失うこととの調整後の関連が約6倍でした。
つまり、「歯があるか、ないか」の二択だけでは、その人が欠損歯列のどの段階にいるかは分からないということです。
何本あるのか。どこに残っているのか。奥歯で噛めているのか。残存歯にどれだけ負担が集中しているのか。今回の3か国研究では、こうした研究開始時点の口腔状態を十分には揃えられていません。
最大の疑問④――研究開始時の歯周病はどこまで進んでいたのか
現在歯数だけでなく、歯周病の重症度も重要です。同じ25本が残っていても、比較的安定した25本と、高度な骨吸収や動揺を伴う25本では、将来の歯喪失リスクは同じではありません。
日本の歯周炎患者339人を長期追跡した研究では、8年間に歯周病による歯の喪失を起こさなかった割合は、ステージIIIで80.8%、ステージIVでは37.8%でした。グレードBでは96.8%、グレードCでは56.9%でした。
性別と年齢を考慮しても、歯周炎新分類とその後の歯喪失には有意な関連が残りました。
別の解析でも、性別、年齢、メインテナンス開始時の現在歯数を考慮しても、歯周炎新分類は、原因を限定しない歯の喪失と歯周病による歯の喪失の両方と関連していました。
歯周病の重症度と将来の歯の保存については、歯周ポケットが深い歯をどこまで残せるのかを検討したコラムでも詳しく解説しています。
今回の3か国研究では、「退職群の方が研究開始時点ですでに重い歯周病だった可能性」を十分には除外できません。
ここで重要なのは、「退職群の歯周病が実際に重かった」と分かったわけではないことです。比較できる情報が不足しているため、その可能性を除外できないという意味です。
追跡から外れた人による偏りも考える必要がある
長期間の追跡研究では、「最後まで追えた人」と「途中で追えなくなった人」が同じ特徴を持っていたかも重要です。
| 国 | 研究開始時に天然歯が残っていた人 | 追跡期間を算出できず除外 | 最終解析人数 |
|---|---|---|---|
| 中国 | 11,676人 | 641人 | 11,035人 |
| 米国 | 12,245人 | 2,661人 | 9,584人 |
| 英国 | 5,257人 | 1,024人 | 4,233人 |
もし、追跡から外れた人の退職状況、口腔状態、全身状態、経済状態などが、解析に残った人と系統的に違っていれば、結果が偏る可能性があります。
また、高齢者を長期間追跡する研究では、完全歯喪失になる前に亡くなる人もいます。死亡すると、その後に完全歯喪失になるかどうかは観察できません。現在公開されている本文では、死亡を別の競合する出来事として扱った解析は報告されていません。
これらは今回の研究だけに特有の問題ではなく、高齢者を長期追跡する研究を読むときに共通して考える必要がある点です。
では、退職すると何が変わる可能性があるのか
ここまでの話から「では退職はまったく関係ないのか」と考えるかもしれません。そうとも限りません。
退職という時期には、口腔健康に関係する複数の条件が同時に変わる可能性があります。

- 所得や資産
- 健康保険や医療費の自己負担
- 生活時間
- 食生活
- 歯科受診
- セルフケア
- 社会参加や人とのつながり
- 持病や服薬
ただし、これらは今回の研究で原因として証明されたものではありません。退職と完全歯喪失の間を説明する可能性のある候補です。
米国では「退職で歯科保険を失う」という説明はありそうだが
原著は、米国などで退職後に完全歯喪失が増える理由の一つとして、勤務先を通じた歯科保険を失うことを挙げています。
確かに、米国では理解しやすい仮説です。ただし、もっともらしい仮説であることと、今回の研究で実際に確認されたことは別です。
今回使われたHRSの2006年調査には、「過去2年間に歯科を受診したか」「歯科医療費が保険でどの程度カバーされたか」「自己負担でいくら支払ったか」といった項目があります。勤務先を通じた医療保険に関する情報も取得されています。
つまり米国については、「退職者ほど実際に歯科保険を失っていたのか」「歯科受診が変わったのか」「自己負担が増えたのか」を、より直接的に検討する余地がありました。
しかし今回の最終調整解析には、これらの項目は入っていません。
したがって、「退職によって歯科保険を失ったために歯をすべて失った」とは、この研究からは言えません。それは現時点では、著者らが提示した説明の一つです。
「退職すると歯医者へ行かなくなる」とも限らない
ここで興味深い別研究があります。米国・英国を含む31か国、112,240人を対象に、同じ人が退職へ移行したときに口腔健康や歯科受診がどう変わるかを検討した研究です。
その研究では、退職後に本人が評価する口腔健康は悪化しました。しかし、歯科受診は減るのではなく、むしろ増えていました。
つまり、
退職 → 歯科へ行かなくなる → 歯を全部失う
という一本道だけでは説明できません。
退職して時間ができ、歯科へ行きやすくなる人もいるでしょう。一方で、所得や保険の問題が大きくなる人もいます。地域活動が増える人もいれば、人との接触が減る人もいます。
「退職者」という一語の中には、かなり違う生活が含まれています。
同じ米国研究では、歯科受診と完全歯喪失にも関連があった
今回と同じ米国HRSを使った別の研究では、2006年に天然歯があった50歳以上9,982人を2012年まで追跡し、563人が完全無歯顎になりました。
この研究で「継続的に歯科を受診していた」とされたのは、6年間を通じ、少なくとも2年に1回は歯科を受診していた人です。予防目的の定期健診だけを意味するものではありません。
この条件を満たした人では完全歯喪失が2.3%だったのに対し、そうでない人では9.9%でした。年齢などを考慮した後も、継続的な受診条件を満たさなかった人は、完全歯喪失との関連が強く、オッズ比は2.74でした。現在喫煙も2.46でした。
もちろん、「歯科へ行けば必ず歯が残る」と証明した研究ではありません。もともと健康意識が高い人ほど歯科受診も継続している可能性があるからです。
それでも、完全歯喪失を考えるうえで、長年の歯科受診行動を無視しにくいことは分かります。
「仕事を続けている方が歯に良い」とも限らない
逆方向にも注意が必要です。働いていることには、給与、福利厚生、社会との接点、一定の生活リズムといった利点があるかもしれません。
一方で、「平日は仕事があって歯科へ行けない」という人もいます。労働世代の歯科受診には、本人の健康意識だけではなく、勤務時間や予約の取りやすさ、職場環境なども関わります。
企業従業員を追跡した日本の研究では、6年間その企業に在籍していた人だけを対象にしていたため、異動や退職した人が解析に含まれないことを著者自身が限界として挙げています。
就労者だけを見ても、「健康だから働き続けられた人」が研究に多く残る可能性があります。
したがって、就労=口腔健康に良い、退職=口腔健康に悪い、と単純に分けることはできません。
「健康を悪くしたから退職した」という逆向きの経路
さらに考えなければならないのが、退職より前から健康状態が悪化していた可能性です。
たとえば、全身状態が悪くなり仕事を続けにくくなったため退職した人がいたとします。同じ健康状態の悪化によって、セルフケアや歯科受診が難しくなり、口腔状態まで悪化していたかもしれません。
この場合、統計上は「退職した人ほど歯を失った」ように見えても、その手前にある健康状態の悪化が、退職と歯の喪失の両方へ影響している可能性があります。
今回の原著は、高血圧、糖尿病、心疾患、脳卒中を考慮しています。これは意味のある調整です。
しかし、心身の虚弱、日常生活動作、抑うつ、自己評価健康、認知機能、複数の慢性疾患、そして研究開始時点の口腔疾患そのものまで、退職と歯の喪失の双方に関わる要因をすべて取り除けたとは言えません。
「退職したから歯を失った」のか、「もともと健康状態が悪い人ほど退職しやすく、歯も失いやすかった」のかを完全に切り分けるのは難しいのです。
社会とのつながりも、歯と無関係ではない
退職すると、収入や保険だけでなく、人間関係も変わります。毎日会っていた同僚と会わなくなる人もいれば、地域活動や趣味、スポーツ、ボランティアに参加する時間が増える人もいるでしょう。
社会疫学では、所得や教育だけではなく、人とのつながり、地域環境、社会参加なども健康に関係する要因として研究されています。
日本の高齢者を対象にした3年間の追跡研究では、年齢、性別、教育、所得、地域の都市度などを考慮しても、ボランティア活動、スポーツ、趣味の会への参加者が多い地域では、少ない地域より歯の喪失リスクが7%低かったと報告されています。
もちろん、「退職したら地域活動をすれば歯が残る」という意味ではありません。
ただ、歯の喪失を「歯を磨いたか」「歯医者へ行ったか」だけで説明するのも十分ではありません。歯の喪失と所得や教育などの社会的背景については、歯の格差と健康格差を扱ったコラムでも詳しく解説しています。
むし歯や歯周病は、歯を失う直接的な原因です。しかし、そのさらに手前には、食生活、喫煙、歯科受診、仕事、所得、教育、地域環境、人とのつながりといった「原因の原因」があります。
退職そのものより、退職に伴って複数の生活条件が同時に変わることこそ、今回の研究から考える価値があります。
中国で「男性」と「飲酒者」に強く出た結果はどう読むか
原著の追加解析では、中国だけ、男性と現在飲酒している人で、退職と完全歯喪失の関連が強く出ました。一方、米国と英国では同じような違いは確認されませんでした。
ここから「退職した男性で酒を飲む人は特に危険」と結論するのは早いでしょう。
日本の40歳以上25,216人を対象にした魚沼コホート研究では、飲酒を「飲む・飲まない」の二択ではなく、非飲酒、過去飲酒、現在飲酒に分け、さらに現在飲酒者を摂取量別に分類しています。
すると、飲酒と歯の喪失の関係は単純な一直線ではありませんでした。さらに、過去飲酒者が酒をやめた理由で最も多かったのは「病気」で、男性57.1%、女性44.2%でした。
病気をきっかけに酒をやめた人を単純に「飲まない人」と同じように扱うと、「飲まない人の方が健康状態が悪い」ように見えることがあります。
飲酒という一つの項目だけでも背景は複雑です。今回の中国の結果は興味深いものの、まずは今後さらに確かめる必要がある結果として読むのが妥当でしょう。
それでも、この研究には評価すべき点がある
こうした限界を踏まえても、この研究には価値があります。
第一に、中国、米国、英国という、社会制度も歯科医療制度も異なる3か国で、退職者と完全歯喪失の関連が同じ方向に出ました。少なくとも、別のデータやより厳密な研究方法でさらに確かめる価値のある手がかりです。
第二に、単なる一時点の比較ではなく、研究開始時点で完全歯喪失ではなかった人をその後追跡しています。
第三に、統計解析の前提条件も確認しています。中国では「退職」という項目について、通常の時間解析の前提から少し外れる兆候が認められたため、著者らは別の統計手法でも結果を確認しました。その解析でも、3か国とも結果の方向は変わりませんでした。
「限界のある研究」と「価値のない研究」は同じではありません。大切なのは、研究で分かったことと、まだ分かっていないことを分けることです。
この研究で言えること、まだ言えないこと

この研究で言えること
- 中国・米国・英国で、退職者は就労者より完全歯喪失との関連が強かった
- 最終調整後のハザード比は、中国1.28、米国1.45、英国2.06だった
- 3か国の結果を統合したハザード比は1.43だった
- 研究開始時点で完全歯喪失ではなかった人を、その後追跡した
- 中国で通常の時間解析の前提からずれる兆候があったため、別の解析でも確認し、結果の方向は変わらなかった
この研究だけではまだ言えないこと
- 退職そのものが歯を抜けさせた
- 仕事を続ければ歯が残る
- 日本人も退職すると1.43倍になる
- 歯科保険を失ったことが原因だった
- 歯科受診が減ったことが原因だった
- 男性や飲酒者は、退職すると特に危険である
現在は最終編集前の早期公開版――正式版で再確認したい点がある
今回の論文は、現時点では最終編集前の早期公開版です。永久的なDOIが付いており引用できますが、今後、最終編集された正式版へ置き換わる予定です。
現在の早期公開版には、考察で説明している内容と参考文献番号がうまく対応していない箇所もあります。
たとえば、勤務先を通じた歯科保険の喪失、生活リズムの変化、全身疾患によって予防歯科へ使える資源が減る可能性について、それぞれ文献25、26、27が引用されています。しかし現在の参考文献一覧を見ると、それぞれの内容が説明と十分に一致していません。参考文献30も空欄になっています。
これだけで研究結果そのものが誤っているとは言えません。早期公開版における編集上の不整合である可能性があります。
だからこそ、年齢が最終調整解析に入っているのかという点も含め、正式版が公開された時点で改めて確認する必要があります。
日本では、この結果をどう考えるか
今回の研究に日本人は含まれていません。そのため、「日本人も退職すると完全歯喪失のハザードが1.43倍になる」とは言えません。
また、日本と米国では歯科医療を取り巻く保険制度も大きく違います。日本には国民皆保険があります。
ただし、皆保険があるから経済条件と口腔健康が無関係になるわけでもありません。
日本の自立高齢者15,389人を用いた研究では、教育年数や等価所得によって、歯肉出血や過去1年間の治療目的の歯科受診に格差がみられました。年齢、性別、現在歯数も考慮した解析です。
さらに、その格差は医療費の自己負担割合が低い群ほど小さい傾向がありました。
つまり、「日本は皆保険だから、退職後の経済状態は歯と無関係」とも言えません。
日本では歯を多く残す高齢者は増えている
令和6年歯科疾患実態調査では、80歳で20本以上の歯を有する人の割合は推計61.5%でした。また、過去1年間に歯科健診を受けた人は63.8%でした。
ただし、2024年調査では全国の人口構成を反映する補正方法が用いられており、以前の調査との単純な時系列比較には注意が必要です。
また、歯を多く残せる人の割合が増えたことと、歯を失う問題がなくなったことは同じではありません。8020達成者の割合と、多数の歯を失っている高齢者の実人数の違いについては、高齢社会の歯科医療需要を扱ったコラムでも詳しく解説しています。
退職を「口の健康を確認する節目」として使う
では、この研究を実際の歯科受診にどう生かせるでしょうか。
今回の研究だけを根拠に、「退職前に特別な歯科治療を受けなければならない」と考える必要はありません。
ただし、退職前後を口腔健康の棚卸し時期として使うという考え方には意味があります。
退職すると、生活時間、食事、人と会う頻度、収入、保険、通院できる曜日などが変わることがあります。そして退職年代は、歯周病、過去の修復治療、根管治療、欠損歯列など、何十年も蓄積してきた問題が表面化しやすい年代とも重なります。
| 退職前後に確認しておきたいこと | 見る理由 |
|---|---|
| 現在歯数・欠損部位 | 歯列全体の現在地を把握する |
| 歯周ポケット・プロービング時出血 | 活動性の炎症や深い歯周病を確認する |
| 動揺歯・根分岐部病変 | 将来の歯喪失リスクを考える |
| 未治療のむし歯 | 痛みがなくても進んでいる病変を確認する |
| 古い被せ物・ブリッジ | 二次う蝕、破折、清掃性を確認する |
| 義歯・欠損補綴 | 奥歯の噛み合わせや食事への影響を確認する |
| セルフケア | 歯間清掃を含めた方法を見直す |
| 定期管理の間隔 | 今後無理なく続けられる管理計画を考える |
| 持病・服薬 | 糖尿病、抗血栓薬、骨粗鬆症治療薬などを共有する |
| 生活・通院環境 | 退職後の生活に合った受診方法を考える |
高齢者歯科では、単に「何本残っているか」だけではなく、その歯でどの程度噛めているのかも重要です。咀嚼、栄養、口腔機能については、口腔機能低下症を検査だけで終わらせないための解説も参考になります。
また、学校卒業後から高齢期まで歯科健診との接点が途切れやすい問題については、国民皆歯科健診を扱ったコラムで詳しく解説しています。
退職もまた、歯科との接点をもう一度設計し直す節目として使えます。
歯は「退職した日」に突然悪くなるわけではない
今回の研究で、最も誤解してほしくないのはここです。
歯は、退職届を出した翌日から突然抜け始めるわけではありません。
歯の喪失は、長い時間をかけて積み重なった結果です。
日本の5年間追跡研究でも、歯の喪失はむし歯や歯周病だけで決まるものではなく、社会的・行動的な要因も含む多くの要因が重なった最終的な結果として捉えられています。
直接的には、むし歯、歯周病、歯根破折、歯内疾患などがあります。
しかし、その背景にはセルフケア、歯科受診、喫煙、飲酒、糖尿病、食生活、所得、教育、社会環境などがあります。
さらに人生全体を通して見ると、幼少期、青年期、成人期、高齢期のそれぞれで受けた社会的・経済的な影響や疾病リスクが積み重なり、後年の口腔状態につながります。
社会疫学の総説でも、歯の喪失につながるむし歯や歯周病は、それぞれの人生段階から影響を受けながら、リスクが「雪だるま式」に蓄積していくと説明されています。
だから今回の研究を、「退職という一日が歯を失わせる」という話にしてはいけません。
むしろ考えるべきなのは、「退職者」という集団の中に、それまで何十年も積み重なってきた口腔状態、全身状態、社会環境の違いがどこまで含まれているのかという点です。
まとめ――「1.43倍」より大切なのは、その数字の中身
中国、米国、英国の24,852人を追跡した今回の研究では、退職者は就労者より、その後に完全歯喪失となるハザードが高いという関連が3か国で一貫して観察されました。
最終調整後のハザード比は、中国1.28、米国1.45、英国2.06。3か国を統合すると1.43でした。
この一致は興味深い結果です。
一方、現在公開されている早期公開版では、退職者と就労者の年齢差が大きいにもかかわらず、最終調整解析の変数として年齢が記載されていません。
また、研究開始時点に何本歯が残っていたのか、歯周病がどこまで進んでいたのか、欠損歯列がどの段階だったのかも十分には揃えられていません。
所得、資産、歯科受診、保険、社会参加、心身の虚弱などの影響も残ります。追跡から外れた人による偏りや、高齢者を長期追跡する中で死亡によって歯の状態を最後まで確認できない問題も考える必要があります。
そして何より、この研究は同じ人の「退職前」と「退職後」を直接比較した研究ではありません。
したがって、「退職すると歯を全部失うリスクが上がる」と因果的に断定するのは早いでしょう。
もちろん、「仕事を続ければ歯が残る」という研究でもありません。
それでも、この研究から持ち帰れることはあります。
退職は、生活の時間割、収入、保険、食生活、人との付き合い、医療との接点が大きく変わる可能性のある時期です。
ならば、その節目を、「これまで何十年も使ってきた口の状態を、一度棚卸しする時期」として利用する。
「退職したから歯が悪くなる」と恐れるのではなく、これから先も自分の歯を使い続けるための確認時期として考える方が、今回の研究を日常の歯科医療へ生かすうえでは適切でしょう。
広島市中区立町のブランデンタルクリニックは、立町駅から徒歩1分、立町中央ビル4階です。4階まではエレベーターをご利用いただけます。退職前後を機に、現在歯数、歯周病、欠損部位、古い被せ物、今後のメインテナンスなどを一度確認しておきたい場合もご相談ください。
急な痛みや腫れなどがある場合は当日電話受付が可能で、予約状況に応じて急患の同日受診にも対応しています。
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