2026年6月22日

(院長の徒然コラム)

はじめに
歯科医療において、「治療しない」と判断することは、決して消極的な選択ではありません。むしろ、その判断には、診断、病変の活動性評価、患者背景、将来リスク、治療による不可逆的侵襲、再治療サイクル、そして患者さんとの意思決定を統合する高度な臨床推論が必要です。
歯科治療は、多くの場合、不可逆的です。歯を削れば歯質は戻らず、神経を取れば生活歯には戻らず、抜歯をすれば歯は戻りません。修復物を外せば窩洞は拡大し、再治療を繰り返すほど歯は弱くなります。画像検査も、抗菌薬も、外科処置も、「念のため」に積み重ねれば、患者さんの利益よりも不利益が大きくなる場面があります。
一方で、何でも経過観察にすればよいわけでもありません。進行する歯周病、制御できない感染、歯髄壊死、構造的に破綻した歯、急速に悪化する病変を「様子見」にすることは、保存的な医療ではなく、むしろ患者さんの歯を失わせる判断になり得ます。
つまり、歯科医療の質は、「どれだけ治療をしたか」だけでは決まりません。必要な治療を必要な時期に行い、不要な介入を避け、経過観察・非切削介入・修理・積極介入・紹介を適切に選び分けること。その境界を見極める力こそ、臨床の質を左右します。
このコラムでは、初期う蝕、根面う蝕、深在性う蝕、既存修復物、二次う蝕、画像検査、抗菌薬、親知らず、歯周病、補綴治療を例に、歯科医療における「治療しない判断」について考えてみます。

「削って詰める」から「病変を管理する」へ
う蝕治療を単純化すると、「虫歯を見つけたら削って詰める」という理解になりがちです。もちろん、実質欠損があり、清掃性や封鎖性を回復しなければ病変が進行する場合、修復処置は必要です。しかし、う蝕は単なる「穴」ではありません。う蝕は、バイオフィルム、発酵性糖質、唾液、フッ化物、清掃状態、生活習慣、修復物の存在、口腔乾燥、年齢、社会的背景などが絡む多因子疾患です。
したがって、形態だけを修復しても、病因が残っていれば再発します。逆に、病変が初期段階で、活動性が低く、患者リスクが管理できる場合には、削らずに再石灰化やリスク管理を優先することが合理的になる場面があります。
Minimal Intervention Dentistry、いわゆるMIDの考え方は、この点で重要です。MIDは、単に「小さく削る技術」ではありません。早期発見、リスク評価、病変活動性の評価、再石灰化、予防、必要最小限の介入、そして修復物の修理を含む、歯を生涯にわたって機能させるための臨床哲学です。
CariesCare InternationalやICCMSの考え方も、同じ方向を向いています。う蝕管理は、病変を見つけるだけでなく、患者ごとのリスクを評価し、病変の重症度と活動性を判定し、非切削管理か低侵襲修復か積極介入かを決め、再評価する流れとして整理されます。重要なのは、う蝕の治療方針が「削るか、削らないか」の二択ではなく、患者リスクと病変活動性に応じた連続体として存在することです。
ここでいう「治療しない判断」は、治療体系の外にある判断ではありません。むしろ、現代のう蝕マネジメントの中核にある判断です。見つけた病変をすべて削るのではなく、その病変が活動性なのか、進行する可能性が高いのか、患者さんが管理可能なのか、介入によって得られる利益が歯質喪失という不利益を上回るのかを考える。これが、単なる処置技術ではなく、診断に基づく歯科医療です。
経過観察は「見ているだけ」ではない
臨床でよく使われる「経過観察」という言葉は、便利である一方、非常に曖昧です。患者さんにとっては「何もしない」「先送りする」と聞こえることがありますし、医療者側でも、記録や再評価基準が曖昧なまま「様子を見ましょう」となってしまうことがあります。
しかし、本来の経過観察は、放置ではありません。経過観察には、観察対象、評価指標、再評価時期、介入へ切り替える基準が必要です。何を見ているのかが明確でなければ、それは医学的な経過観察ではなく、単なる時間の経過になってしまいます。
う蝕であれば、ICDASのような病変ステージングや、CAMBRAのようなリスク評価が役立ちます。視診、乾燥後の白斑、う窩形成、象牙質陰影、X線所見、口腔清掃状態、飲食習慣、唾液、フッ化物使用、修復物の数、過去のう蝕経験などを踏まえて、病変が進んでいるのか、止まっているのか、再石灰化が期待できるのかを評価します。
昭和医科大学の矯正患者を対象としたCAMBRAとICDASの研究では、44名を対象に、初回評価と半年から1年以内の再評価を行っています。患者単位では、23名、約52%に1歯面以上のICDASコード増加が認められました。一方、歯面単位で見ると、コードが増加したのは全歯面の約3%でした。このデータは、矯正治療中という高リスク環境でも、リスク評価と継続的な病変評価によって、どの患者に、どの歯面で変化が起きているかを追えることを示しています。
重要なのは、経過観察を「何となく見る」ことにしないことです。病変の写真、X線、歯周検査値、ICDASコード、清掃状態、症状、患者さんの生活背景を記録し、再評価時に比較できる形にしておく。さらに、「この変化が出たら介入する」という閾値を持っておく。ここまで含めて初めて、経過観察は臨床判断になります。

歯科医師にとって大切なのは、「今は削らない」と言った後に何を見るのかです。白斑が広がっているのか、表面が粗造なのか、清掃状態が改善しているのか、修復物の辺縁にプラークが停滞しているのか、根面う蝕が硬く停止しているのか、柔らかく活動性なのか。経過観察とは、介入のタイミングを管理する行為です。
削らない判断:初期う蝕・根面う蝕・深在性う蝕
「削らない判断」と聞くと、初期う蝕だけを想像するかもしれません。しかし、実際には、削らない判断には複数の層があります。初期う蝕を削らない判断、根面う蝕を非切削で管理する判断、深在性う蝕で歯髄に近い象牙質をあえて残す判断。これらは同じ「削らない」でも、臨床的意味が異なります。
非う窩性の初期う蝕では、再石灰化が期待できる場合があります。歯面乾燥時にのみ認める白斑、表面が比較的滑沢な病変、患者さんの清掃状態やフッ化物応用が改善できる病変では、ただちに切削するよりも、リスク管理と再評価が優先されることがあります。ここで重要なのは、初期う蝕を「軽い虫歯」として見逃すことではなく、「活動性のある病変かどうか」を見ることです。
根面う蝕では、さらに判断が難しくなります。超高齢社会では、8020運動の成果として高齢者の残存歯数が増えています。その一方で、歯肉退縮によって露出した歯根面に生じる根面う蝕が増えています。根面象牙質はエナメル質より耐酸性が低く、臨界pHも高いため、酸に対して弱い組織です。また、高齢者では歯髄腔狭窄や象牙細管閉鎖などにより痛みを感じにくく、根面う蝕は「沈黙のむし歯」として進行することがあります。
根面う蝕は、歯冠部のう蝕と同じように扱うべきではありません。病変が歯肉縁下や隣接面に及び、防湿が困難で、修復後の清掃性も保ちにくいことがあります。修復治療を行うこと自体が難しい症例も少なくありません。そのため、根面う蝕では、フッ化物配合歯磨剤、フッ化物洗口、5,000ppmF歯磨剤、SDFなどを含む非切削管理が重要になります。
ただし、ここでも「削らない」と「放置」は違います。根面う蝕は予知性が低く、自覚症状が乏しく、進行すると修復困難になりやすい病変です。したがって、活動性病変なのか、停止性病変なのか、表面硬度、色調、プラーク停滞、清掃可能性、唾液、口腔乾燥、介護環境まで含めて判断する必要があります。
深在性う蝕では、別の意味で「削らない判断」が重要になります。従来、「う蝕は完全に除去する」という考え方が強くありました。しかし、歯髄に近接した深在性う蝕において、不必要に深く削ることは、露髄や歯髄失活のリスクを高めます。正常歯髄や可逆性歯髄炎と判断できる症例では、選択的う蝕除去や生活歯髄療法を検討する価値があります。
一方で、自発痛、夜間痛、持続痛、打診痛、根尖部透過像、壊死組織、膿性滲出、出血制御不良などがある場合には、単に「歯髄を残したい」という願望だけで保存的に振る舞うことは危険です。歯髄保存は、病態の可逆性と封鎖性を読んだうえで成立します。全部削らない判断もあれば、あえて歯髄状態を確認するために介入する判断もあります。

つまり、「削らない判断」は、う蝕を過小評価する判断ではありません。むしろ、う蝕を疾患として深く見ているからこそ、削る範囲、削る時期、削らない条件、再評価の基準を考えるのです。
やり替えない判断:古い修復物と二次う蝕の境界
今回のテーマで、最も臨床的に重要なのは、既存修復物を「やり替えない判断」かもしれません。なぜなら、修復物の再製作は、患者さんにも医療者にも「治療した」という実感が強く、介入の誘惑が大きいからです。
古い詰め物がある。辺縁に少し段差がある。変色している。小さく欠けている。レントゲンで少し不明瞭に見える。こうした状況で、すぐに全てを外して再製作するべきでしょうか。答えは、常にそうとは限りません。
修復物を外すことは、単なるリセットではありません。多くの場合、既存修復物を除去する過程で健全歯質も失われます。窩洞は大きくなり、次の修復物はより大きくなります。やがて、インレーからアンレーへ、クラウンへ、支台築造へ、根管治療へ、抜歯へと近づいていくことがあります。これが、いわゆる再治療サイクルです。
Choosing Wiselyの歯科推奨では、失敗していない修復物を交換しないこと、小さな欠損であれば修理を検討すること、修復物の年数だけを交換基準にしないことが示されています。FDIのMIDの考え方でも、欠陥修復物を安易に交換するのではなく、可能であれば修理することが、歯質保存の重要な要素として位置づけられています。
もちろん、これは「修復物は交換しない方がよい」という単純な話ではありません。二次う蝕が活動性で進行している場合、辺縁漏洩が大きい場合、破折が構造的に問題になる場合、清掃不能な形態になっている場合、咬合や接着不良により再発リスクが高い場合には、再製作が必要です。問題は、「古い」「変色している」「少し段差がある」だけで、再製作が自動的に正当化されるわけではないということです。
Mendesらのシステマティックレビューでは、欠陥のある直接修復物について、修理と再製作の失敗リスクに有意差は認められませんでした。ただし、エビデンスの確実性は低く、修理が常に再製作と同等であると断定することはできません。それでも、少なくとも「再製作だけが唯一の正解ではない」ことは、臨床上きわめて重要です。
二次う蝕の問題は、患者さんの認識とも関係します。20〜50代を対象にした生活者意識調査では、う蝕治療経験は80%を超え、二次う蝕治療経験は41%、再根管治療経験は21%でした。一方で、治療が必要なとき以外は歯科検診を受けていない人も32%いました。治療した歯は、終わった歯ではありません。むしろ、治療した歯ほど、辺縁、清掃性、咬合、歯髄、根尖部、補綴設計を長期的に見ていく必要があります。

既存修復物の判断では、欠陥の種類を見極める必要があります。研磨で済む粗造面なのか、局所的な補修で済む欠けなのか、辺縁に活動性二次う蝕があるのか、接着界面が破綻しているのか、そもそも窩洞設計や咬合が破綻しているのか。修復物をやり替えない判断は、何もしない判断ではありません。再治療サイクルに入れる前に、病変の有無と欠陥の性質を見極める判断です。

撮らない判断:画像検査にも適応がある
画像検査は、歯科診断に不可欠です。デンタルX線、パノラマ、CBCTがなければ、隣接面う蝕、根尖病変、歯周組織、埋伏歯、破折疑い、骨病変、解剖学的構造を正確に評価できない場面があります。私は、画像検査そのものを否定するつもりはまったくありません。
しかし、画像検査にも適応があります。「念のため撮る」を繰り返せば、検査そのものが低価値医療になり得ます。ADA/FDAの歯科X線患者選択ガイドラインでは、X線撮影は病歴、臨床所見、リスク評価、過去画像を踏まえて判断すべきものとされています。ある研究では、患者選択基準を用いることで、臨床的に重要な未診断疾患を増やすことなく撮影枚数を43%減らせたとされています。
日本でも、診断参考レベル、いわゆるDRLが示されています。DRLは「この線量なら安全」という基準ではなく、撮影線量が適切に最適化されているかを確認するための目安です。2025年版の日本の歯科X線撮影DRLでは、口内法X線、パノラマX線、歯科用CBCTについて、線量の参考レベルが示されています。これは、撮る場合にも、撮影条件や線量を最適化すべきであることを示しています。
特にCBCTは、非常に有用な検査です。根管形態、破折疑い、埋伏歯、インプラント、外科処置、病変の三次元的位置関係を把握するうえで大きな力を発揮します。しかし、FOV、撮影条件、解像度、目的によって被ばく線量は大きく変わります。必要な情報がデンタルX線やパノラマで得られるなら、CBCTが常に必要とは限りません。CBCTを撮るとしても、目的に応じてできるだけ小さいFOVを選択し、診断に必要な画質と線量のバランスを考える必要があります。

撮らない判断は、診断を怠る判断ではありません。撮影によって治療方針が変わるのか、過去画像で足りるのか、より小さい検査で足りるのか、患者利益が被ばくを上回るのかを考える判断です。逆に、必要な画像を撮らずに診断が曖昧なまま介入することもまた、質の高い医療とは言えません。
画像検査の本質は、「多く撮ること」ではなく、「必要な情報を、必要な範囲で得ること」にあります。
薬を出さない判断:歯痛・腫れ・抗菌薬
歯科では、痛みや腫れに対して「とりあえず抗菌薬を出してほしい」と期待される場面があります。医療者側にも、忙しい診療の中で、抗菌薬を処方することでいったん安心してもらいたくなる心理が生まれることがあります。
しかし、歯科疾患の多くは、薬だけでは原因に届きません。不可逆性歯髄炎の痛みは、細菌感染そのものというより、閉鎖空間内の歯髄炎症と圧の問題です。根尖性歯周炎や膿瘍では、原因は感染根管、壊死歯髄、局所の排膿不良にあります。抗菌薬を投与しても、感染源が残れば根本的な解決にはなりません。
厚生労働省の抗微生物薬適正使用の手引き歯科編では、歯性感染症の治療は、感染根管治療、膿瘍切開、抜歯などの局所処置が基本とされています。局所処置が可能で、全身症状を伴わない根尖性歯周組織炎などでは、経口抗菌薬は不要とされています。ADAのガイドラインでも、多くの歯髄・根尖由来の痛みや腫れでは、抗菌薬よりも原因処置が優先されます。
もちろん、抗菌薬が必要な場面はあります。発熱、倦怠感、蜂窩織炎、急速に拡大する腫脹、開口障害、嚥下困難、免疫抑制、全身状態の悪化、高次医療機関での管理が必要な感染では、抗菌薬や連携が重要になります。つまり、問題は「抗菌薬を使うか使わないか」ではなく、感染の広がり、全身症状、局所処置の可否、患者背景を評価しているかどうかです。

薬を出さない判断は、冷たい対応ではありません。むしろ、原因に届かない治療を避け、必要な処置へ向かう判断です。抗菌薬を出すことで、患者さんが一時的に安心しても、原因処置が遅れれば、結果として病態が長引くことがあります。抗菌薬適正使用は、耐性菌対策だけでなく、歯科医療の診断力そのものに関わる問題です。
抜かない判断:病変のない親知らずと予防的抜歯
親知らずは、「抜くか、抜かないか」の判断が患者さんにも伝わりやすい代表例です。斜めに生えている、半分埋まっている、磨きにくい、将来腫れるかもしれない。このような理由から、予防的抜歯が検討されることがあります。
もちろん、親知らずを抜いた方がよい場面はあります。智歯周囲炎を繰り返す、隣在する第二大臼歯にう蝕や歯根吸収を生じている、嚢胞や病変を伴う、保存不能なう蝕がある、清掃不能で炎症を繰り返している、矯正や補綴上の問題がある。このような場合、抜歯は合理的な選択になります。
一方で、無症候性で病変のない埋伏智歯を、将来の可能性だけで全て抜くべきかというと、そこには慎重さが必要です。NICEは、病変のない埋伏第三大臼歯の予防的抜歯について、患者利益を示す信頼できる研究証拠は乏しいとし、予防的抜歯を推奨していません。Cochraneレビューでも、無症候性で病変のない埋伏智歯を抜くべきか残すべきかについて、十分なエビデンスはないとされています。
抜歯にもリスクがあります。下歯槽神経や舌神経の損傷、ドライソケット、感染、出血、腫脹、開口障害、術後疼痛などです。特に年齢、歯根形態、骨性埋伏の程度、神経との距離、全身状態によって、リスクは変わります。

抜かない判断は、親知らずを軽視する判断ではありません。病変、清掃性、隣在歯への影響、年齢、神経との距離、患者希望、通院可能性を踏まえて、抜歯による利益と不利益を比較する判断です。残すなら、残す理由と、再評価の必要性を共有する。抜くなら、抜く理由と、抜歯のリスクを説明する。ここでも、重要なのは介入の有無ではなく、判断の質です。
待ってはいけない判断:歯周病・感染・進行病変
ここまで、「しない判断」の重要性を述べてきました。しかし、この話には必ず反対側があります。歯科医療で本当に危険なのは、「治療しない判断」を「何でも様子見にすること」と誤解することです。
保存的であることと、介入を遅らせることは違います。むしろ、早期に介入した方が結果として低侵襲になる病変は少なくありません。
代表例は歯周病です。歯周病は、痛みが乏しいまま進行します。患者さんが強い痛みを訴えたときには、すでに歯槽骨吸収、動揺、咬合支持低下、分岐部病変、咬合性外傷、二次性咬合性外傷が進んでいることがあります。ここで「痛くないから様子を見ましょう」とすることは、歯を守る判断とは限りません。
EFPのStage I〜III歯周炎に対するS3ガイドラインでは、歯周治療は段階的に進められ、再評価に基づいて追加治療や支持療法へ移行します。特に、BOPを伴う5mm以上の歯周ポケットや6mm以上の深いポケットが残る場合には、病変の安定性を慎重に判断する必要があります。つまり、歯周病では「症状がない」ことと「病変が安定している」ことは同じではありません。
垂直性骨欠損や分岐部病変、動揺、咬合支持低下を伴う症例では、観察によって得られる情報よりも、介入の遅れによる不利益が大きくなることがあります。歯周基本治療、再評価、歯周外科、再生療法、咬合調整、補綴的介入、メインテナンスのいずれが必要かは症例によりますが、少なくとも「待つこと」が常に保存的であるとは言えません。
感染も同様です。蜂窩織炎、急速に拡大する腫脹、発熱、開口障害、嚥下困難、全身状態の悪化は、経過観察の対象ではありません。こうした病態で「薬だけ出して様子を見る」ことも、実質的には介入の遅れになり得ます。必要な切開排膿、感染根管治療、抜歯、高次医療機関への紹介を遅らせることは、低侵襲ではありません。
深在性う蝕や歯髄壊死、破折疑いでも同じです。歯髄を残すことに固執しすぎて、感染歯髄や壊死組織を残せば、結果として根尖病変や疼痛を悪化させる可能性があります。破折疑いの歯を、診断が曖昧なまま補綴し続ければ、周囲骨の吸収や隣在組織への影響が大きくなることがあります。
補綴においても、「残す」ことには設計が必要です。予後不良歯をただ温存するだけでは、計画性のある保存とは言えません。残すなら、歯周状態、歯冠歯根比、根管治療の既往、動揺、咬合支持、ブラキシズム、清掃性、補綴設計、メインテナンス、患者さんの理解を含めて考える必要があります。補綴装置による二次固定や根面板の応用など、残すための戦略があって初めて、予後不良歯の保存は治療計画になります。

本当に歯を守る歯科医療は、治療しないことではありません。必要な治療を遅らせないこともまた、低侵襲です。介入しないことで不可逆的な不利益が大きくなる場面では、早く介入することこそ、最も保存的な判断になります。
「しない判断」は、患者と共有されて初めて成立する
治療しない判断は、歯科医師が一方的に「これはやりません」と決めるものではありません。経過観察、修理、再製作しない、抜歯しない、抗菌薬を出さない、CBCTを撮らないという判断は、患者さんから見ると不安に感じられることがあります。
「本当に大丈夫なのか」
「後で悪くならないのか」
「何もしないなら、なぜ通院するのか」
「別の医院では治療が必要と言われたが、どちらが正しいのか」
こうした疑問が出るのは自然です。だからこそ、治療しない判断には説明が必要です。患者さんが理解できる形で、病変の現状、考えられる選択肢、介入した場合の利益と不利益、介入しなかった場合の見通し、再評価のタイミングを共有する必要があります。
Choosing Wiselyの患者向け質問は、この点で参考になります。
この検査・治療は本当に必要か。リスクは何か。より簡単で安全な選択肢はあるか。何もしなければどうなるか。費用はどうか。
これらの質問は、患者さんが治療を拒否するためのものではありません。必要な治療と不要な治療を、患者さんと医療者が一緒に見分けるための質問です。

共同意思決定は、単に「患者さんに選ばせる」ことではありません。歯科医師は、診断と予後の専門家として、医学的に妥当な選択肢を提示する責任があります。一方で、患者さんには、痛みへの不安、通院可能性、費用、仕事や家庭の事情、審美的希望、将来への考えがあります。治療しない判断が成立するには、医学的判断と患者さんの価値観が接続されなければなりません。
特に、専門家同士でも判断が分かれる領域では、この姿勢が重要です。初期う蝕をいつ削るか。古い修復物をいつ外すか。無症候性の親知らずを抜くか。深在性う蝕でどこまで歯髄保存を狙うか。CBCTを撮るか。歯周外科へ進むか。こうした判断は、単純な正解が一つあるとは限りません。だからこそ、診断、根拠、リスク、患者背景を言語化する必要があります。
治療しない判断は、説明され、記録され、患者さんと共有されて初めて医療になります。説明のない「様子見」は不安を生みますが、根拠のある経過観察は、患者さんの歯を守る計画になります。
臨床家としての結論:歯科医療の質は「何をしなかったか」にも表れる
歯科医療では、治療したものは見えやすいものです。詰めた、被せた、抜いた、撮影した、薬を出した、手術した。こうした行為は記録にも残り、患者さんにも分かりやすい。医療者側にも、何かを行ったという達成感があります。
しかし、本当に歯を守る判断の中には、見えにくいものがあります。
削らなかった初期う蝕。
外さなかった修復物。
撮らなかったCBCT。
出さなかった抗菌薬。
抜かなかった親知らず。
一方で、待たずに介入した歯周病。
薬だけで終わらせず原因処置へ進めた感染。
歯髄保存に固執せず、病態に応じて根管治療へ移行した深在性病変。
これらはすべて、臨床判断です。
私は、「治療しない判断」を、治療を避けるための言葉として使いたくありません。治療しない判断とは、診断を深め、介入の利益と不利益を比較し、再評価の基準を持ち、患者さんと共有したうえで成立する判断です。そこには、治療する技術と同じくらい、あるいはそれ以上に、臨床家としての責任が伴います。
歯科医療の目的は、治療の量を増やすことではありません。必要な治療を必要な時期に行い、不要な介入を避け、患者さんの歯と生活を長期的に守ることです。
「何をするか」だけでなく、「何をしないか」。
そして、「いつまで待ち、どこから介入するか」。
この境界線を考え続けることが、これからの歯科医療に求められる臨床の質だと考えています。

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