2026年8月02日

(院長の徒然コラム)

はじめに
火星へ向かう宇宙船の中で、右下の奥歯が痛み始めたとします。
最初は、冷たい飲み物に少ししみる程度だったかもしれません。しかし、数日後には何もしていなくても歯が脈打つようになり、眠ろうとしても痛みで目が覚めます。宇宙食を噛むたびに激痛が走り、会話や機器操作への集中も難しくなってきました。
地球上であれば、歯科医院へ連絡すればよいでしょう。口腔内を診察し、エックス線写真を撮り、冷温診や打診を行います。歯髄炎であれば根管治療を、膿瘍があれば排膿を、保存できない歯であれば抜歯を行います。
しかし、火星へ向かう宇宙船は地球から数千万km以上離れています。地球へ質問を送っても、返事が届くまで数十分かかることがあります。太陽と地球、火星の位置関係によっては、通信が制限される期間も想定しなければなりません。
何より、痛いからといって宇宙船を引き返すことはできません。
では、その歯はいったい誰が治すのでしょうか。
先に答えると、現在の宇宙では「宇宙飛行士が治す」ことになります
国際宇宙ステーションに、歯科医師が常駐しているわけではありません。
歯科医師免許を持つ宇宙飛行士が偶然搭乗している場合を除けば、基本的な仕組みは、地上の医療チームが診断と処置を支援し、訓練を受けた宇宙飛行士が船内で手を動かすというものです。
患者本人が行える軽い自己処置もあります。外れた修復物を保管する、鋭くなった歯に保護材を置く、鎮痛薬を服用する、口腔内の写真を撮るといった対応です。
しかし、局所麻酔、暫間充填、排膿、外傷歯の固定、抜歯などが必要になれば、別の乗員による処置が必要になります。その中心となるのがCrew Medical Officer、すなわち船内の医療担当乗員です。
2023年に承認されたNASA-STD-3001 Volume 1 Revision Cでは、各宇宙船や活動拠点に対して、最低2人のCrew Medical Officerを訓練することが求められています。
医療担当者が1人しかいなければ、その本人が患者になった瞬間に医療体制が崩れてしまうためです。複数の宇宙船や月面拠点などに乗員が分かれるミッションでは、それぞれの場所に医療担当者を確保しなければなりません。
ただし、最低2人のCrew Medical Officerがいるからといって、その2人が歯科医師と同じ水準で根管治療や外科処置を行えるという意味ではありません。
現在の宇宙歯科は、地上の歯科医師やフライトサージャンが診断と手順を支援し、船内の乗員が限られた器材で必要最小限の処置を行う仕組みです。

宇宙で歯科トラブルは本当に起きたのでしょうか
宇宙飛行中の歯科救急は、これまでの記録上、それほど多くありません。
これは決して不思議ではありません。宇宙飛行士は、非常に健康状態の良い集団から選抜されます。さらに、飛行前には厳格な医学・歯科検査を受け、症状化する可能性がある歯は事前に治療されます。
それでも、歯科トラブルを完全にゼロにはできませんでした。
Apolloでは、飛行中よりも飛行前に歯科治療が問題になりました
Apollo計画では、飛行中にミッションへ重大な影響を与える歯科救急は報告されていません。
一方、宇宙飛行士の中には、打ち上げ前の準備期間中に歯科治療を必要とした人がいました。歯髄炎や歯の破折、クラウンの問題などが飛行直前に発見されれば、根管治療や補綴処置を急いで完了させなければなりません。
仮に歯髄炎の発症が数日遅れ、飛行中に強い自発痛が始まっていれば、船内作業へ大きな影響が出た可能性があります。
歯科救急のリスクは、発生件数だけでは測れません。
たった1本の歯でも、痛みによって睡眠、食事、会話、集中力、判断力が損なわれます。船外活動や宇宙船の緊急操作が必要な場面であれば、その影響は地上よりもはるかに大きくなります。
Salyut 6では、約2週間にわたる歯痛が報告されています
後年の宇宙医学資料では、1978年にSalyut 6へ搭乗したソ連の宇宙飛行士が、約96日間の飛行終盤に強い歯痛を訴え、残り約2週間を痛みに耐えながら過ごしたという話が紹介されています。
ただし、この事例については、原因歯、診断名、口腔内所見、服薬内容、帰還後の治療などを検証できる詳細な一次診療録が公開されているわけではありません。
したがって、「不可逆性歯髄炎だった」「歯性膿瘍だった」と断定することはできません。
歯科医師として鑑別を考えれば、深いう蝕による歯髄炎、歯髄壊死後の急性根尖性歯周炎、歯の亀裂、修復物下の二次う蝕などが候補になります。
いずれにしても、鎮痛薬や洗口だけでは原因を除去できない病態だった可能性があります。
Mirでは、実際に虫歯へ暫間充填が行われました
NASA–Mir共同計画の医療記録には、飛行中にう蝕による歯科症状を訴えた乗員が1人おり、専用の歯科キットを使って欠損部を暫間的に封鎖したことが記録されています。
これは、宇宙で実際に虫歯の応急処置が行われたことを示す一次記録です。
一方で、どの歯だったのか、う蝕がどの深さまで進んでいたのか、誰が処置を行ったのか、歯髄の状態がどうだったのか、帰還後にどのような最終治療を受けたのかまでは分かっていません。
暫間充填は、う蝕を治癒させる治療ではありません。
露出した象牙質を保護し、食片や唾液の侵入を抑え、痛みを軽減し、地球へ戻るまで歯を維持するための処置です。深いう蝕や歯髄炎が存在すれば、仮の材料を置いただけでは原因は解決しません。
地上の根管治療でも、仮封には次回来院まで根管内を再汚染させないという重要な役割があります。詳しくは、根管治療中の「仮のふた」はなぜ必要なのかで解説しています。
クラウンが外れ、乗員自身が応急修復した例もあります
米国宇宙飛行士について、正式な飛行中歯科救急記録は非常に少ないものの、NASAの歯科医師への聞き取りでは、飛行中に外れたクラウンを乗員が船内の物品で暫間修復した例が報告されています。
クラウンが外れても、痛みがなく、支台歯が破折しておらず、誤飲や誤嚥を防げるのであれば、クラウンを安全に保管して地上帰還後に処置する選択もあります。
一方、歯が強くしみる、咬むと痛い、支台歯が割れている、歯髄が露出している場合には、より積極的な処置が必要です。

宇宙船の歯科キットには、何が入っているのでしょうか
NASAが2015年に公開した医療キット一覧には、歯科用ミラー、探針、クラウンリムーバー、ファイル、カーバー、エレベーター、複数種類の抜歯鉗子、歯科用接着材、暫間充填材などが記載されています。
公開された年代やミッションによって内容は変わり得るため、これを現在のISSに搭載されている正確な在庫一覧と断定することはできません。
しかし、どのような歯科トラブルが想定されているかは分かります。
クラウンが外れたときには、歯面を確認し、必要であれば暫間的に再装着します。充填物が脱離したときには、鋭い辺縁を整え、暫間充填材で歯を保護します。歯髄が露出した場合には、疼痛を抑え、汚染を最小限にする必要があります。
保存できない歯や感染源となった歯に対しては、最終的に抜歯が必要になる可能性もあります。そのため、エレベーターや鉗子まで準備されています。
NASAの歯科関連手順では、クラウンの脱離、歯の完全脱臼、露髄、局所麻酔の注射、暫間充填、抜歯、歯痛などが想定されています。
この歯科キットは、地上の歯科医院を小型化して宇宙へ持ち込んだものではありません。
マイクロスコープ下で精密な根管治療を行い、型取りや口腔内スキャンをして、セラミッククラウンを製作するための設備ではありません。
痛み、感染、脱離、露髄、外傷を最低限管理し、乗員の安全と任務遂行能力を保つための救急装備です。

宇宙飛行の影響を、すべて「無重力」のせいにしてはいけません
宇宙飛行士の口腔内に変化が起きたとしても、その原因が微小重力だけとは限りません。
宇宙飛行では、微小重力、宇宙放射線、閉鎖・隔離環境、睡眠不足、概日リズムの乱れ、心理的ストレス、食事の変化、船内の二酸化炭素濃度、限られた水と衛生設備、医療アクセスの制限などが同時に作用します。
実際の宇宙飛行士を対象にした研究では、これらの要因を完全に切り分けることができません。
また、宇宙歯科に関する文献には、実際の宇宙飛行士を調べた研究だけでなく、動物を宇宙へ飛ばした研究、地上で身体を傾けたベッドレスト研究、回転培養装置による模擬微小重力研究、南極基地や潜水艦、火星アナログ施設での隔離研究が含まれています。
これらは、すべて同じ証拠ではありません。
2025年に公表されたヒト研究限定のシステマティックレビューでは、実際の宇宙飛行に関係する臨床研究として最終的に採用されたのは7研究、計110人でした。
しかも、研究ごとの対象人数は少なく、評価項目も、唾液成分、免疫、ウイルス排出、微生物叢などに分かれています。う蝕や歯周炎の発症率を大規模に比較した研究ではありません。
そのため、現在言えることは、
宇宙飛行中には、唾液成分、免疫応答、潜伏ウイルス、微生物叢などが変化する可能性があります。
というところまでです。
宇宙へ行くと虫歯や歯周病が増えます。
と断定できる段階ではありません。

宇宙歯科は、打ち上げ前から始まっています
NASA-STD-3001は、飛行前の予防医療に「予防歯科」を明記しています。
これは単なる定期検診ではありません。
宇宙飛行前には、現在痛い歯だけでなく、数か月後、あるいは数年後に症状化する可能性がある歯まで評価しなければなりません。
深い修復物の下に二次う蝕が疑われる場合、地上であれば症状や画像を確認しながら経過観察することもあります。しかし、数年間歯科医院へ行けない可能性があるミッションでは、経過観察という選択の意味が変わります。
痛みのないクラックも同様です。小さな亀裂がそのまま安定する場合もありますが、咬合力によって歯髄や歯根へ進展する可能性があります。
根管治療済みの歯に根尖病変が残っている場合や、歯根破折が疑われる場合も、長期宇宙飛行へ持ち込むリスクを評価しなければなりません。
繰り返し脱離しているクラウン、仮封や暫間クラウンのままの歯、智歯周囲炎を繰り返す親知らず、排膿を伴う深い歯周ポケット、外傷後の経過観察が不十分な歯も問題になります。
つまり、宇宙飛行前の歯科診査は、
今、虫歯があるかどうか。
だけを見るものではありません。
次のミッション期間中に、故障する可能性がある歯や修復物は何か。
を予測する、信頼性工学に近い診査です。
歯の亀裂、補綴物の適合、根尖病変、歯根破折、埋伏歯と神経の位置などを確認するためには、口腔内診査や通常のエックス線写真に加え、必要に応じてCTも用いられます。CTと一般的な歯科用レントゲンの役割の違いについては、歯科用CTとレントゲンは何が違うのかで詳しく説明しています。

宇宙では、日常の歯磨きも地上と同じではありません
地上では、歯ブラシを水で濡らし、歯磨き剤をつけて磨き、最後に洗面台へ吐き出せば済みます。
しかし、微小重力環境では、水や泡は下へ落ちません。
口から出た水滴や歯磨き剤の泡が船内を漂えば、機器や空調システムへ入り込む可能性があります。そのため、使用する水や歯磨き剤の量を抑え、タオルや容器へ処理するなどの工夫が必要になります。
この話は単なる宇宙生活の雑学ではありません。
日常の歯磨きでさえ水滴や泡の管理が必要であれば、歯を削る際の冷却水、唾液、血液、洗浄液を伴う歯科処置がどれほど難しいかが分かります。
また、歯磨きの回数だけでなく、磨き方も重要です。凍結乾燥食や粘着性のある食品が歯面へ残りやすければ、限られた清掃環境の中でプラークを確実に除去しなければなりません。
宇宙での口腔衛生は、単に「毎日歯を磨く」という生活習慣ではなく、医療資源を消費しないための重要な予防処置です。
宇宙へ行くと、唾液は減るのでしょうか
宇宙歯科の記事では、「無重力になると唾液が減り、口が乾いて虫歯が増える」と説明されることがあります。
しかし、実際の研究結果はそれほど単純ではありません。
唾液には、単なる水分以上の働きがあります。
食物を湿らせ、食塊を形成し、粘膜を潤滑します。歯面や粘膜から微生物と食物残渣を洗い流し、酸を中和します。カルシウムとリン酸を歯へ供給し、初期脱灰からの再石灰化を助けます。
さらに、リゾチーム、分泌型IgA、ラクトフェリン、LL-37など、抗菌・免疫に関係する成分も含まれています。
したがって唾液を評価するときは、単に「多いか、少ないか」だけでは足りません。
唾液分泌量が保たれていても、pHや緩衝能が変われば、歯面で酸が中和されにくくなる可能性があります。カルシウムやリン酸の濃度が変われば、脱灰と再石灰化のバランスにも影響します。
抗菌タンパク質や免疫グロブリンが変化すれば、粘膜や歯面での微生物との関係も変わります。
Skylabの研究では、飛行後半に唾液流量が増加したという結果が報告されています。一方、抗菌作用に関係するリゾチームは低下しました。
約6か月間ISSへ滞在した宇宙飛行士の研究では、分泌型IgA、リゾチーム、LL-37などが上昇しました。
これらは口腔防御に関係する成分ですが、上昇したからといって免疫機能が改善したとは限りません。ストレスや宇宙環境への適応に対する代償的な反応である可能性もあります。
15日間の頭低位ベッドレスト研究では、唾液流量やpHに明確な変化がなくても、唾液中の細菌群集は変化しました。
さらに、実際に宇宙飛行したマウスの顎下腺では、腺房細胞や導管細胞に明らかな構造破壊は認められませんでした。一方、30日間飛行した雄マウスでは、SABPα、EGF、NGFなど一部の分泌タンパク質が増加しました。
ただし、30日間飛行した群は雄、13~15日間飛行した群は雌であり、飛行期間、性別、食事、宇宙船、組織採取までの時間が同時に異なっています。長期飛行が原因なのか、性差が原因なのかを完全には分けられません。
また、耳下腺、顎下腺、舌下腺は、同じ宇宙環境に置かれても同じ反応を示すとは限りません。
現在の証拠から妥当なのは、
宇宙飛行では唾液が一方向に減少するというより、唾液腺機能、唾液成分、免疫因子、微生物群集が複雑に再調整される可能性があります。
という説明です。
地上で口腔乾燥がある人に虫歯や根面う蝕が増えやすい理由と、フッ化物をどう使うべきかについては、口が乾く人はフッ素ケアを強めたほうがいい?も参考になります。

口腔マイクロバイオームは、宇宙でどう組み替わるのでしょうか
口腔内には、多数の細菌、真菌、ウイルスが存在します。
しかし、「口の中の細菌叢」と一言でまとめるのは正確ではありません。
舌の表面、頬粘膜、唾液、歯面のプラーク、歯肉縁下の歯周ポケットは、それぞれ酸素濃度、栄養、pH、唾液の流れ、宿主免疫が異なる別々の生態系です。
唾液検体は採取しやすく、宇宙飛行士の状態を繰り返し調べるには非常に便利です。
一方、唾液は舌、粘膜、歯面、歯肉溝などから剥がれ落ちた微生物が混ざった試料でもあります。
唾液中の菌が変化したからといって、ただちに一本の歯の表面で酸産生が増えた、あるいは歯周ポケットの病原性が高まったとは言えません。
宇宙飛行士10人から飛行前、飛行中、帰還後に合計89検体を採取した研究では、飛行中に唾液細菌叢の構成が変化しました。
ProteobacteriaやFusobacteriaの増加、Actinobacteriaの減少、Streptococcus属内部の多様性変化などが報告されています。
しかし、10人全員が同じ方向へ変化したわけではありません。明瞭な細菌叢変化が確認された乗員と、そうでない乗員がいました。
この研究では、初飛行者と宇宙飛行経験者で反応が異なる可能性も示唆されましたが、対象人数が少ないため、宇宙環境への適応を証明したとは言えません。
別の1人を長期間追跡したショットガンメタゲノム研究では、飛行中に唾液細菌叢の種多様性が低下し、帰還後に回復する傾向が報告されています。
つまり、同じ宇宙飛行士の唾液研究でも、対象人数、採取時点、解析手法によって見える結果が異なります。
また、宇宙船内の表面から検出された微生物は、口腔細菌叢よりも皮膚、耳、鼻などの微生物叢に近いという報告もあります。
船内環境と乗員の微生物は相互に影響し合いますが、「口腔内の菌がそのまま船内へ広がった」「船内の菌が口腔内感染を起こした」と単純に説明できるわけではありません。
そもそも、う蝕や歯周炎は、特定の菌が存在するだけで発症する病気ではありません。
食事、糖質摂取頻度、pH、唾液、清掃状態、宿主免疫などによって微生物群集全体の働きが変化し、健康な共生状態から病原性の高い状態へ傾くことで発症します。
宇宙船内では、微小重力だけでなく、閉鎖環境、食事内容、睡眠不足、心理的ストレス、放射線、免疫機能の変化、水や洗口環境の制限、抗菌薬の使用などが重なります。
そのため、マイクロバイオーム研究で最も重要なのは、「宇宙でどの菌が増えたか」というランキングではありません。
宇宙という新しい環境の中で、微生物同士の関係と、微生物と宿主との均衡がどのように組み替わるのか。
という点です。

虫歯菌は宇宙で“凶暴化”するのでしょうか
Streptococcus mutansは、う蝕研究で最もよく知られた細菌の一つです。
模擬微小重力下でS. mutansを培養した研究では、酸への耐性、バイオフィルム構造、菌体外多糖、遺伝子発現、ストレス応答などが地上条件と異なることが示されています。
一部の研究では、より密なバイオフィルムや酸耐性の増加が認められました。
この結果だけを見ると、「宇宙では虫歯菌が凶暴化する」と言いたくなるかもしれません。
しかし、S. mutansを長期間、模擬微小重力へ適応させた研究では、すべての実験系列で一定方向に病原性が高まったわけではありませんでした。
付着、酸耐性、凝集、抗菌薬感受性などは、系列によって異なる反応を示しました。
また、これらは人体内の複雑な口腔バイオフィルムではなく、培養装置の中で単一菌種または限られた菌種を調べた実験です。
したがって、
宇宙へ行くと、虫歯菌がスーパー虫歯菌へ変身します。
という説明はできません。
正確には、
微小重力や低せん断環境に置かれたS. mutansは、地上とは異なる遺伝子発現やバイオフィルム形成を示す可能性があります。しかし、それによって宇宙飛行士のう蝕が増えることは証明されていません。
となります。
さらに、う蝕はS. mutansだけで起こる病気ではありません。
糖質摂取によってバイオフィルム内のpHが繰り返し低下し、酸を産生し、酸に耐えやすい微生物群が選択され、脱灰が再石灰化を上回ることで進行します。
宇宙で問題になるのは、「宇宙虫歯菌」という新しい怪物が生まれることではありません。
地球から持ち込んだ口腔微生物が、宇宙船という新しい生態環境の中で、どのような共同体を形成するかという問題です。

細菌だけではありません――潜伏ウイルスが再び動き出すことがあります
宇宙飛行では、潜伏ヘルペスウイルスの再活性化が繰り返し報告されています。
対象となるのは、Epstein–Barr virus、Cytomegalovirus、Varicella-zoster virus、Herpes simplex virusなどです。
これらのウイルスは、地上で感染した後に体内へ潜伏し、免疫監視が変化すると再び増殖することがあります。
宇宙飛行士の唾液や尿からウイルスDNAが検出された研究があり、一部の研究では、乗員の約半数で飛行中のウイルス排出が確認されています。
ただし、ウイルスDNAが検出されたことと、口唇ヘルペス、帯状疱疹、口腔潰瘍などの臨床症状を発症したことは同じではありません。
無症候性のウイルス排出もあります。
それでも、宇宙船内の感染管理を考えるうえで重要なことがあります。
宇宙で問題になる病原体は、外から新しく持ち込まれるものだけではありません。宇宙飛行士自身の体内に潜伏していた微生物が、ストレスや免疫変調によって再び活動する可能性があります。
さらに、歯性感染へ抗菌薬を長期間使用すれば、口腔細菌叢が変化し、Candidaなどの真菌が増殖する可能性もあります。
抗菌薬は細菌へ作用しますが、真菌には作用しません。そのため、菌交代によって口腔カンジダ症が起こることがあります。
口腔内に白い病変や治りにくい潰瘍が現れた場合には、単なる口内炎だけでなく、感染、外傷、免疫変化、腫瘍性病変まで鑑別しなければなりません。地上での受診目安については、口内炎・白い病変・しこりが2週間以上治らないときでも解説しています。
宇宙飛行で歯周炎は増えるのでしょうか
現時点では、宇宙飛行士の歯周炎が実際に増加したと示す十分なヒト研究はありません。
この点は明確にしておく必要があります。
宇宙飛行中に唾液細菌叢が変化したこと、免疫応答が変化したこと、骨代謝が変化することは報告されています。
しかし、歯周ポケット深さ、アタッチメントレベル、BOP、排膿、歯槽骨吸収を飛行前から飛行中、飛行後まで系統的に追跡した大規模な研究はほとんどありません。
一方で、歯周炎に関係する複数の因子が、宇宙飛行中に同時に変化する可能性はあります。
微生物叢の再編成、唾液成分の変化、睡眠不足、心理的ストレス、免疫調節の変化、口腔清掃環境の制限、骨リモデリングの変化が、同じ歯周組織上で交差します。
そのため、
宇宙では歯周病が増えます。
とは言えませんが、
すでに存在する歯周炎が長期宇宙飛行でどのように変化するかは、重要な未解決課題です。
とは言えます。
なお、6か月間の宇宙飛行を経験した歯科インプラントについて、インプラント周囲骨が安定していた1症例が報告されています。
これは、宇宙へ行けばインプラント周囲骨が必ず吸収するわけではないことを示す興味深い例です。
ただし、1人の症例からインプラントの長期安全性を一般化することはできません。
頭蓋骨は増え、下顎骨は減るのでしょうか
宇宙飛行による骨量減少は、宇宙医学でよく知られた問題です。
しかし、「宇宙では骨が減る」という一文を、そのまま顎骨へ当てはめることはできません。
全身の骨は同じように反応しないからです。
体重を支える大腿骨や骨盤では、微小重力によって機械的負荷が減り、骨量が低下しやすくなります。
一方、頭蓋骨や顎骨は、下肢の荷重骨とは異なる力学環境に置かれています。
実宇宙飛行を扱った系統的レビューとメタ解析では、ヒトの「頭蓋部」骨密度は増加する方向を示しました。
一方、実宇宙飛行を経験した齧歯類では、頭蓋冠の骨量が増加傾向を示す一方、下顎骨の骨量比は低下しました。
同じ頭部の骨でも、頭蓋冠と下顎骨が同じ方向へ変化するとは限りません。
理由としては、頭部方向への体液移動、骨ごとのリモデリング速度、筋肉から受ける力、咀嚼負荷、宇宙食の硬さ、食餌量、動物の年齢や性別などが考えられます。
下顎骨は、脚のように体重を支える骨ではありません。
しかし、咬筋、側頭筋、内側翼突筋などから繰り返し力を受けています。宇宙食が軟らかく、咀嚼回数や咬合力が低下すれば、下顎骨へ加わる機械的刺激も変化する可能性があります。
一方、マウスの咬筋を調べた研究では、13日間の宇宙飛行後も筋重量の明確な減少は認められませんでした。
四肢筋のような単純な廃用性萎縮とは異なる反応を示したことになります。
したがって、
無重力では咬筋が使われなくなり、顎骨も毎月1~2%減少します。
とは書けません。
そもそも、ヒトの上顎骨、下顎骨、歯槽骨を個別に長期間追跡したデータはほとんど存在しません。
火星へ人間を送ろうとしているにもかかわらず、人間の下顎骨や臼歯が長期宇宙飛行でどう変化するのか、私たちはまだ十分に知らないのです。

宇宙で形成された象牙質は、地球と同じなのでしょうか
宇宙飛行を経験したラットの切歯では、飛行中に形成された象牙質のミネラル組成や成熟過程が地上対照と異なることが報告されています。
ここで注意したいのは、「宇宙では象牙質のカルシウムが減った」という単純な結果ではないことです。
宇宙飛行中に形成された若い象牙質では、カルシウムとリンの濃度はむしろ高くなっていました。
一方で、Ca/P比や硫黄の分布が地上対照と異なっており、正常より強く石灰化したとも、単純に低石灰化だったとも言い切れません。
象牙質基質の形成と、その後の成熟が、地上とは異なる時間軸で進んだ可能性があります。
別のマウス研究では、切歯の歯髄腔面積が増加し、相対的な硬組織面積が減少しました。
これらは、象牙芽細胞による象牙質形成が宇宙環境の影響を受ける可能性を示しています。
しかし、マウスやラットの切歯は、人間の永久歯とは大きく異なります。
齧歯類の切歯は生涯伸び続け、エナメル質と象牙質が持続的に形成されます。成人の人間の永久歯は、完成後に同じような成長を続けません。
そのため、齧歯類切歯の結果から、
宇宙飛行士の歯は宇宙で軟らかくなります。
とは言えません。
むしろ大きな問題は、人間の歯に比較的近い齧歯類の臼歯や、実際の宇宙飛行士の永久歯について、ほとんど研究されていないことです。
宇宙では歯が“爆発”するのでしょうか
航空歯学や潜水歯学では、気圧変化によって歯や修復物へ痛みや破折が起こる現象が知られています。
バロドンタルジアは、周囲の気圧変化によって誘発される歯痛です。多くの場合、健康な歯へ突然病気が生じるのではなく、深いう蝕、不良修復物、歯髄炎、歯髄壊死、根尖病変、歯周病変など、もともと存在していた問題が気圧変化によって症状化します。
修復物や歯の内部に気体が閉じ込められ、急激な減圧によって膨張し、修復物の脱離や歯の破折へつながる現象はodontocrexisと呼ばれることがあります。
一般向けには「歯の爆発」と表現されることもありますが、文字どおり歯全体が爆発するわけではありません。
また、微小重力そのものと気圧変化は別の現象です。
ISS船内で無重力になったからといって、歯の内部の気体が自動的に膨張するわけではありません。
問題になり得るのは、打ち上げや帰還、航空移動、減圧事故、船外活動前後の圧力環境、宇宙服への移行などです。
したがって、バロドンタルジアを「無重力による歯痛」と説明するのは不正確です。
この点でも、飛行前に深いう蝕や不良修復物を残さないことが重要になります。
宇宙で本当に困るのは、初期虫歯より歯科救急です
初期のエナメル質う蝕が見つかったからといって、すぐに宇宙飛行士が行動不能になるわけではありません。
船内で本当に問題となるのは、痛み、感染、咀嚼障害、出血、誤嚥などによって、任務遂行能力を急速に低下させる状態です。
NASA-STD-3001では、宇宙飛行で検討すべき歯科・口腔疾患として、う蝕、クラウン脱離、歯性膿瘍、充填物脱離、歯の破折・露髄、口腔潰瘍、歯の脱臼・喪失が挙げられています。

不可逆性歯髄炎
歯髄が強い炎症を起こすと、何もしていなくても拍動性の痛みが続きます。
温熱刺激で悪化し、夜間に眠れなくなることもあります。
鎮痛薬で一時的に痛みを弱めることはできても、炎症を起こした歯髄を除去しなければ根本的には改善しません。
歯髄の状態を調べる際には、冷温診や電気歯髄診が用いられます。ただし、これらの検査は歯髄血流そのものを直接測る検査ではなく、患者の感覚反応を利用した検査です。詳しくは、歯に冷たいものや電気を当てるのはなぜ?で解説しています。
急性根尖性歯周炎と歯性膿瘍
歯髄壊死から感染が根尖部へ広がれば、咬合痛、腫脹、排膿、発熱、開口障害を起こす可能性があります。
重症化すれば、蜂窩織炎、嚥下障害、呼吸障害、敗血症へ進むこともあります。
地球上であれば、打診、根尖部の触診、歯の動揺、腫脹の範囲などを直接確認します。火星の遠隔診療では、地球側の歯科医師が画面越しに歯をたたくことはできません。
実際に打診や触診を行うのは、患者本人または別の乗員になります。これらの検査については、歯をたたく・歯ぐきを押す・歯を揺らすのはなぜ?で詳しく説明しています。
クラウンや充填物の脱離
クラウンや充填物が外れても、痛みがなければ地球帰還まで待てる場合があります。
しかし、象牙質や歯髄が露出している、支台歯が破折している、咬合できない、鋭縁が粘膜を傷つける場合には、応急処置が必要です。
再装着する場合にも、単に元の位置へ押し込めばよいわけではありません。内部にう蝕や破折がないかを確認し、完全に着座しているか、咬合が高くないか、余剰セメントが残っていないかを確認する必要があります。
歯冠破折とクラック
宇宙飛行中の衝突、着陸時の衝撃、硬い食品、歯ぎしりなどによって、歯や修復物が破折する可能性があります。
痛みがなくても、クラックが歯髄や歯根へ進むことがあります。地上での受診判断については、歯が欠けたけれど痛くないとき、いつ受診すべきかも参考になります。
脱臼・完全脱臼
歯が位置を変えたり、完全に抜けたりした場合には、時間依存性の高い処置が必要です。
可能であれば歯を元の位置へ戻し、受動的で柔軟な固定を行います。その後は、歯髄壊死、根尖病変、炎症性歯根吸収、置換性歯根吸収などを長期間観察しなければなりません。
外傷歯の固定については、外傷を受けた歯をワイヤーとレジンで固定する理由で解説しています。
痛み止めと抗菌薬を積めば、歯科救急は解決するのでしょうか
結論から言えば、解決しません。
歯科感染症の多くは、薬だけでは原因を除去できないからです。
不可逆性歯髄炎では、炎症を起こした歯髄を除去する必要があります。
歯性膿瘍では、根管からの排膿、切開排膿、あるいは原因歯の抜歯が必要になります。
抗菌薬は、発熱、倦怠感、蜂窩織炎、リンパ節腫脹など、感染が局所を越えて波及した場合に重要です。
しかし、壊死した歯髄、感染根管、閉鎖された膿瘍の中へ、血流に乗った抗菌薬が十分に到達するとは限りません。
つまり、鎮痛薬、抗菌薬、歯科処置は、それぞれ役割が異なります。
鎮痛薬は痛みと炎症を抑えます。抗菌薬は感染の拡大を抑えます。そして歯科処置は、感染歯髄、壊死組織、膿、破折歯など、原因そのものを除去します。

根管内へ薬を入れる場合でも、機械的・化学的な清掃をせず、薬剤だけを置けば感染が消失するわけではありません。詳しくは、根管内に薬を入れるのはなぜかで説明しています。
さらに火星探査では、薬剤や歯科材料の保存期間も問題になります。
局所麻酔薬、鎮痛薬、抗菌薬、仮封材、接着材、コンポジットレジンが、数年間の放射線、温度変化、保管条件を経た後にも十分な性能を保つとは限りません。
宇宙用歯科キットでは、どの薬剤を積むかだけでなく、いつまで有効なのか、どの条件で保管するのか、どの程度劣化したら交換するのか、補給できない場合には何を優先するのかまで設計しなければなりません。
無重力で歯を削ることはできるのでしょうか
無重力の歯科治療で問題になるのは、術者が浮くことだけではありません。
地上では、患者は診療台に横たわり、頭部はヘッドレストに支えられています。術者は床に足をつけ、身体を安定させながら器具へ力を加えます。
抜歯鉗子を動かしても、その反作用は術者の足、体幹、診療台を通じて床へ伝わります。
微小重力では、患者も術者も固定されていません。
術者が歯へ力を加えれば、術者自身が反対方向へ移動します。患者の頭部も動きます。器具を離せば船内を漂います。
削った歯質、唾液、血液、洗浄液、抜去歯も下へ落ちません。
NASA-STD-3001は、飛行中の医療能力として、患者、処置者、医療機器を、そのミッションの重力環境に応じて物理的に固定することを明記しています。
宇宙用歯科ワークステーションでは、患者の頭部、肩、体幹を固定する必要があります。同時に、術者の足、腰、前腕も固定しなければ、精密な切削や抜歯操作ができません。
さらに、ハンドピース、バー、注射針、エレベーター、鉗子などの器具には、紛失や浮遊を防ぐ仕組みが必要です。
吸引装置には、唾液や血液を吸うだけでなく、切削片と液体を確実に分離し、船内の空気や機器を汚染させない能力が求められます。
抜去歯、使用済みの針、鋭利な器具、血液の付着したガーゼは、すべて密閉して廃棄しなければなりません。

実験では、微小重力下でも歯を削って詰めることができました
2025年に公表されたSpaceDent研究では、ESAの放物線飛行を利用し、短時間の微小重力下で人工歯のう蝕除去とコンポジットレジン修復が行われました。
歯科教育を受けた2人の術者が、人工歯に対して合計72回のう蝕除去と36回のコンポジットレジン修復を行いました。
放物線飛行では、1回につき約22秒間の微小重力が得られます。研究では、地上、通常飛行中、微小重力中の処置精度が比較されました。
その結果、形成精度や修復精度に、重力条件による明確な有意差は認められませんでした。一方で、術者間の差は認められました。
この結果は、
無重力だから歯を削ること自体が不可能というわけではありません。
ということを示しています。
適切な固定、照明、器具配置、封じ込め、訓練があれば、修復操作そのものは成立する可能性があります。
ただし、この実験には大きな限界があります。
対象は人工歯であり、生身の患者ではありません。患者の痛み、恐怖、呼吸、舌の動き、唾液、出血、嘔吐反射はありません。
術者は歯科教育を受けており、微小重力は約22秒ずつでした。数十分から数時間かかる実際の根管治療や抜歯を再現した研究ではありません。
それでも、2016年の火星アナログ研究で提案された遠隔歯科と、2025年の微小重力下修復実験をつなぐと、宇宙歯科技術が少しずつ具体化していることが分かります。
ISS、月、火星では「応急処置」の意味が違います
ISSでは、地上と比較的速く通信できます。必要であれば、ミッションを中断し、地球へ帰還して最終治療を受けることも理論上可能です。
そのためISSの歯科救急は、地球へ戻るまで痛みと感染を抑え、歯を安定させることが中心になります。
月面や月周回拠点では、地球との通信遅延は比較的小さいものの、帰還にはより長い時間がかかります。ISSよりも長期間維持できる処置が必要です。
火星では、さらに条件が変わります。
地球との通信には、片道で数分から20分以上かかる可能性があります。質問を地球へ送り、地球側で検討し、回答を受け取るまでに40分以上かかることもあります。
緊急時に、地球の歯科医師がリアルタイムで、
「今、その位置で止めてください」
「もう少し舌側へ器具を動かしてください」
と指示することはできません。
何より、火星から地球へ直ちに帰還することはできません。
NASA-STD-3001も、ミッション条件や軌道力学によっては、地球への帰還が不可能、あるいは帰還に時間がかかりすぎて医学的に意味を失う可能性を認めています。
ISSでは、暫間充填を行い、帰還後に最終修復を行うという戦略が成り立ちます。
しかし火星では、次の歯科医院まで数か月から数年待つことになります。
そのため、火星の歯科医療には、診断、局所麻酔、感染源除去、長期封鎖、外傷固定、抜歯、補綴修復までを船内または基地内で完結させる能力が必要です。

火星の歯科技工所は、3Dプリンターになるのでしょうか
火星アナログミッションでは、脱離・破損した補綴物を、遠隔支援とデジタル技術で再製作する流れが検討されました。
想定されたワークフローは、次のようなものです。
- 宇宙飛行士本人または同僚が、口腔内スキャナーで歯列を記録します。
- 必要に応じて口腔内写真や画像診断データを取得します。
- データを地球へ送信します。
- 地球側の歯科医師と歯科技工士が、クラウンなどの補綴物を設計します。
- 設計データを火星基地へ返送します。
- 基地内の3Dプリンターや切削加工機で、補綴物と装着用ガイドを製作します。
- 乗員が位置決めガイドを使用して補綴物を装着し、余剰セメントと咬合を確認します。
- 装着後に再度スキャンし、地球側へ送って確認を受けます。
この研究で重要だったのは、補綴物だけではなく、正しい位置へ装着するためのポジショニングガイドです。
歯科医師であれば、挿入方向、辺縁適合、隣接面コンタクト、完全着座、咬合、余剰セメントを経験的に確認できます。
しかし、歯科経験の少ない乗員にクラウンだけを渡しても、正しい向きと深さで装着できるとは限りません。
一方、3Dプリンターが代替できるのは、主に歯科技工工程の一部です。
3Dプリンターは、原因歯を診断しません。歯髄炎を治療しません。膿瘍を排膿しません。根管を洗浄しません。局所麻酔を行いません。
補綴物を作れることと、歯科治療を完結できることは同じではないのです。

AIは火星の歯科医師になれるのでしょうか
火星では、地球の歯科医師がリアルタイムで診察することはできません。
そこで期待されるのが、船内の臨床意思決定支援システムです。
AIは、患者の症状、痛みの経過、口腔内写真、過去のエックス線写真、口腔内スキャン、体温、腫脹、打診、冷温診などの情報を整理し、鑑別診断の候補を示すことができます。
必要な検査手順を乗員へ表示し、どの歯をどの順番で調べるべきかを案内することも考えられます。
診断候補に応じて、必要な器材、薬剤、麻酔方法、処置手順を段階的に表示することも可能でしょう。
さらに、薬剤や材料の在庫、使用期限、保管条件を管理し、地球へ送るべき画像や診療情報をまとめる役割も期待されます。
しかし、AIが歯科医師そのものになるわけではありません。
口腔内写真だけでは、歯の打診痛、根尖部圧痛、腫脹の硬さ、波動、歯の動揺、歯髄反応を直接評価できません。
患者自身が行った検査が不正確であれば、AIへ入力される情報も不正確になります。
また、AIが正しい処置手順を表示しても、術者が局所麻酔、切削、排膿、抜歯を安全に実行できるとは限りません。
最も現実的なのは、AIを無人の歯科医師としてではなく、訓練されたCrew Medical Officerを支えるコ・パイロットとして使うことです。
最終的な判断と処置の責任は、人間の医療担当者と、通信可能な範囲で地上の医療チームが担う必要があります。
マニュアルを積むだけでは、治療できるようにはなりません
宇宙船に歯科マニュアルと器具を積めば、それだけで治療できるわけではありません。
深宇宙救急のシミュレーション研究では、参加者が医学知識を持っていても、必要な医療キットを選べない、画面上の情報を見落とす、リーダーが曖昧になる、通信障害で手順が止まる、時間圧によって判断が遅れるといった問題が生じました。
歯科でも同じです。
歯髄炎の処置手順が船内端末に保存されていても、どの歯が原因かを特定できなければ治療を始められません。
必要な器材がどの収納場所にあるか分からなければ、処置開始が遅れます。
局所麻酔を安全に行えなければ、患者は痛みに耐えられません。
患者と術者を十分に固定できなければ、切削器具や針による事故が起こります。
唾液、血液、切削片を管理できなければ、診療空間と船内環境を汚染します。
さらに、処置中に火災、減圧、機器故障など別の緊急事態が起きれば、歯科処置を直ちに中止しなければなりません。
必要なのは、知識だけではありません。
複数乗員へのクロストレーニング、実物器材を用いた反復訓練、模擬出血や患者の体動を含むシミュレーション、ストレス下での役割分担、動画や拡張現実を用いたjust-in-time training、通信が途絶えた状況での自律判断が必要です。
そして、医療担当者本人が患者になる可能性に備え、必ずバックアップを置かなければなりません。

NASAは、歯科疾患の確率だけで医療キットを決めているわけではありません
NASAは、過去の宇宙飛行、地上の類似環境、乗員数、飛行期間、船外活動数などを用い、どのような医療事象がどの程度起こり得るかを確率モデルで評価しています。
NASA-STD-3001 Revision Cに掲載されたIntegrated Medical Modelのサンプル出力では、う蝕は0.88件/ミッション、歯性膿瘍は0.068件/ミッションと示されています。
ただし、これは実際にすべてのミッションでその件数が起きるという意味ではありません。
Integrated Medical Modelは、乗員数、飛行期間、目的地、船外活動などの条件を入力して計算する確率モデルです。掲載されている数字は、モデル出力の一例です。
さらに、発生確率が高い病気だけを対象にすればよいわけでもありません。
発生確率が低くても、起きたときに乗員の生命や任務へ重大な影響を及ぼす疾患には、対応能力を準備しなければなりません。
NASAの医療システム設計では、まず疾患の発生可能性を評価し、次に、その疾患を船内で治療できるか、必要な技能と器材は何か、治療が無益になる状況は何かを検討します。
そのうえで、乗員の自律性、地上支援、通信、質量、容積、補給、帰還時間などを考慮し、最終的な医療システムへ落とし込みます。
歯性膿瘍であれば、抗菌薬だけで維持できるのか、排膿や根管処置が必要なのか、保存不能なら抜歯できるのかを考えます。
そして、必要な麻酔薬、切削器具、吸引、止血、縫合、仮封材、画像診断、固定装置、訓練時間を医療システムの要求事項へ変換します。

宇宙で最も成功率の高い歯科治療は、地球で終わっています
宇宙歯科というと、無重力で歯を削る装置、3Dプリンター、遠隔診療、AIなどに注目が集まります。
しかし、最も確実で、最も軽く、最も故障しにくく、最も費用対効果の高い宇宙歯科装置は、歯科用ハンドピースでも3Dプリンターでもありません。
予防です。
打ち上げ前に、活動性う蝕を治療し、古い修復物の適合と強度を評価します。根管治療歯については、症状の有無だけでなく、根尖病変が治癒しているかを確認します。
活動性歯周炎は安定化させ、仮封や暫間補綴は可能な限り残しません。智歯周囲炎を繰り返す親知らずや、近い将来に症状化する可能性が高い歯についても、ミッション期間と帰還可能性を考慮して処置方針を決めます。
フッ化物を利用し、宇宙食の内容と摂取頻度を考え、限られた環境でも再現できるセルフケア方法を訓練します。
飛行前の口腔内写真、エックス線写真、口腔内スキャンを保存しておけば、飛行中に変化が起きた際の比較資料になります。
乗員自身が、歯の欠け、歯肉の腫れ、口腔潰瘍、修復物の脱離、咬合の変化を早期に見つけられるようにすることも重要です。
NASA-STD-3001が、飛行前だけでなく飛行中にも予防歯科を正式に求めているのは、そのためです。
地球上であれば、歯が痛くなってから歯科医院へ駆け込めます。
クラウンが外れれば予約を取り、根管治療が必要なら何度か通院し、治療後には補綴物を作ることができます。
しかし、地球から遠ざかるほど、その当たり前は失われていきます。
医療資源が限られ、帰還できず、専門家が隣にいない環境では、予防、早期診断、感染源除去、確実な封鎖という歯科医療の基本が、より重い意味を持ちます。
宇宙歯科が教えてくれるのは、特殊な未来技術だけではありません。
宇宙で最も成功率の高い歯科治療は、打ち上げ前に地球で終わっている治療です。
そして、この結論は、地球で暮らす私たちにもそのまま当てはまります。
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